4.屍のむすめ
「恋人、いないと思ってたのに」
学校からの帰り道、知らない女性に声をかけられた。
「あの、すみません。このあたりに郵便局はありませんか?」
「えーと、ここから二つ目の交差点を右に曲がって、コンビニの隣です」
女性は薄く色のついたサングラスをはずすと、茶色いひとみが見えた。それを細めて宗教画のような笑みを浮かべる。背の高い体の上にかぶさっている髪の毛は、さらさらと風に流れる。
「ありがとう」
わたしはぽかんとした顔で、彼女に見とれた。
彼女が立ち去ったのち、我に返ってかばんからスマホを探す。
スマートフォンであの番号にコールすると、三回目で珠希が出た。
『なに、急に。電話なんかして』
「板東志紀がいたんだ。道を聞かれた」
『は?』
珠希は、明らかにばかにする口調で言った。
『いや、板東志紀がこんななんでもない町に来る? 夢でも見たんじゃない?』
「でも……」
『うち、この時期は親戚づきあいで忙しいから』
本当だ、と訴えても信じてもらえなさそうだったので、わたしは黙って通話を切った。
坂東志紀のことはひとまず置いておいて、英単語がびっしり書き込まれたノートを開く。もう受験も追い込みの時期だった。
しばらく単語の暗記を行っていると、お母さんが仕切りごしに声をかけた。
「ぶんちゃん。梨切ったけど食べる?」
「食べる」
ダイニングに向かうと、テーブルの上に梨があった。お皿の上に乗った、八分の一に切られた梨を見つめる。
「皮がついてる……」
お母さんは気にせず、梨にフォークを突き刺す。
「皮と実の境目が一番おいしいの」
「ずぼらなだけじゃん」
「食べられればいいの」
このお母さんの適当さがなければ二人暮らしをやっていけなかったと思うけれど、ときおりそれが憎らしい。わたしならちゃんと剥くのに。
「そういや文化祭だね。行こうかなー」
「時間合うの? それにわたし何もしないよ」
うちの高校は、3年生にはクラスの出し物がない。推薦やAO入試で余裕のある有志が何かをすることもあるけど、基本的には当日に遊ぶだけだ。
「これで最後だから、一応学校を見ておきたいじゃない?」
「なんかお母さんが卒業生みたい……」
「ノスタルジーを感じたっていいじゃない。おばさんだもの」
ふと血管の浮いた母の手が目に入った。初めて、お母さんも老いるんだなと実感を持った。まだまだきれいで元気だし、おばあさんになっているお母さんは想像できないけど。
「最近どう?」
「まあまあ」
「勉強は大丈夫そう?」
「うん」
模試ではとっくにAかBの判定しか出なくなっていた。あとは確実にやっていくしかない。
そもそもお母さんは、宿題をやらなければ怒るくらいで、わたしの教育に深い関心はなさそうだった。気楽なときもあれば、もっといろいろ意見してくれればいいのに、と思う。我ながらわがままだけど。
「お母さんはさあ、学生時代好きな人いた?」
「どうしてそんなこと聞くの?」
「いや……そういえば知らないなと」
「そりゃあいろいろ、とっかえひっかえしましたとも」
お母さんは確かに美人だけど、がさつな性格なので男たちの夢はすぐ破れただろう。
「でももう男はいいかな。懲りたから」
その顔がふと愁いを帯びたので、私は何も言えなくなった。わたしの父親がいないのは、「性格の不一致で別れた」らしいけれど詳しく知らない。知りたい気持ちはあるけど、知ってしまったら後悔する内容かもしれないと思うと、聞けないのだ。
夕どきになり、丸いホットプレートでお好み焼きを作った。きつね色に焼き上がったところで、お母さんが言い出した。
「ソース買うの忘れてた」
わたしは半ば呆れて立ち上がる。
「いいよ、買ってくる」
自転車の鍵を持って、ここから一番早く行けるスーパーに向かおうと戸を開けたそのとき、思っても見なかった人物に出くわした。
それは板東志紀だった。
ええ? なんで? このマンションに何の用なんだ? 混乱のあまりじっと凝視してしまう。
すると、板東志紀が河本さんの部屋に入っていくのが見えた。
「!?」
驚きのあまり、それから先の記憶があやふやになっている。今、家にソースがあるから、ちゃんと買ってきたんだと思うけど。
夜になって、ベッドの中でぐるぐる考えた。
年の差があるから、という言い訳をしてみる。しかし河本さんはそもそも吸血鬼なのだから人間は全員年下だ。
40を越えた板東志紀でも、ありえないことではない。
結局二時間ぐらい眠れなかった。
数日後、マンションのろうかでふたたび河本さんに出会った。
もう待ち伏せするようなまねはしていないから、結構久し振りだ。とはいえ喜ぶような状況ではなかった。
「こんばんは」
「こんばんは……」
わたしは愛想笑いをして、すぐ家の中に入る。
河本さんに質問してみたかった。
「彼女は誰ですか」
いや自明だから意味がない。
「昨日女性が来たのを見たんですけど」
ストーカーじゃあるまいし。
「恋人、いないと思ってたのに」
高校生が言うにはあまりにも重すぎる……。
だめだ、どの質問も、ふさわしいものにはならない。
それは当然で、わたしは河本さんの恋人でもなんでもないから、そんな質問をする権利なんてないのだ。
あたりまえすぎるほど自明のことなのに、受け入れなければいけないのに、なぜか胸騒ぎが止まらない。
河本さんの近くにいると、ありのままでいられなくて、どうしていいのかわからなくなる。
よろよろと鍵掛けに自転車の鍵を戻す。
「はあ」
思ったより大きなため息が出て、わたしは思わず口をふさいだ。
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