第29話 忌まれた子(その六)

 六年前。柊国しゅうこく刺尾しびの農村――。

 夕方から降りだした雨は止むことなく、ますます雨脚を強めていた。

 時刻は夜ひとつ(午後十時)。

 

 雷鳴とどろく夜の畦道を、ふたりの男が衣服を濡らしながら歩いていた。 

 田水のあふれた道は泥のようにぬかるみ、歩くたびにくるぶしまで足が埋もれる。

 山の木々は風雨になぶられてひしめいた音をあげている。

 なにゆえこのような時にこのような場所まで来なければならんのか。そんな不満もあったが口に出すことなどできない。やがて見えてきたあばら家を前に、

徐剛じょごう殿、あの家でございます」

 その男は前方を指さしながら言った。

「ほう、そうか」

 頬肉がたるみ腹のでた小太りの男――徐剛は、雨を浴びながらも満足そうに頷くと足を早めた。

 

 粗板でまわりを囲っただけの粗末な家についたふたりは、朽ちかけた木戸をあけると中へはいった。

 ようやく雨風を凌げると思った配下の男であったが、立ちこめた臭気に我慢ができなくなり、外に飛びだして嗚咽をあげた。

「何をしておる、はやく灯りをつけんか」

 徐剛の声は嬉しそうであった。臭いなど気にもならないようだ。

 口元のよだれを拭った男は懐から油をとりだすと、めぼしい小皿を見つけて火をおとした。

 ほのかな灯りが室内を照らす。屋根から滴る雨は土間に水溜りをつくっていた。

 男の口から「ひっ」と小さな悲鳴がもれた。

 

 土間の隅に犬の死骸がころがっていた。腐敗が進んでおり虫がたかっている。ちょうど土が下がっている場所なのか、体の半分ほどが水に浸かっていた。悪臭の原因はこれのようだが、徐剛にとってはどうでもよいらしく、その興味は奥で横たわっている人影に向けられていた。

「あれがそうか。まだ生きておるのか」

「すぐに確かめます」

 壁際に敷かれた呉座のうえに、仰向けになった子供の姿があった。暗がりで見ても手足が枯木のようにやせ細っているのがわかる。


 子供に近づいた配下の男は、そばで屈みこむと胸に耳をあてた。

「生きているようです」

「よし、連れ出せ」

 男が子供を抱えあげたそのとき、身の毛のよだつような低い唸り声があがった。

「徐剛殿……い、犬が……」

 男の顔が恐怖でひきつる。なんと犬の屍が起きあがり、男に向かって牙を剥いていた。まとわりついていた虫がはらはらと落ちていく。両目はすでに食われてしまったのか深く窪んでいた。


「おお……すごい、すごいぞ。噂は本当だったのか」

 興奮を隠せぬ様子の徐剛は、男が抱えている子供に目をむけた。

「意識はあるのだな。ならば聞きなさい。私は君を助けにきた。もう大丈夫だ、安心しなさい」

 かすかにだが子供が微笑んだように見えた。立ちあがっていた犬は土人形のように崩れ落ちた。

 配下の男は詰まっていた息を吐くと、頬を流れる冷汗を肩で拭いとった。

「連れて行け」

 短い返事をして男は外に出る。

 徐剛は倒れている犬を見やると喉で笑い声をたてた。

「屍を使う者か。いい駒が手にはいった」

 満足そうに口元をつりあげた徐剛は、床に油をまくと火を放った。


 月澄げっちょうの生まれは山間にある集落だった。あまり豊かでない土壌のせいで作物の実りも少なく、村全体が貧しい暮らしを余儀なくされていた。

 母親はいない。月澄が五歳の時に暴流ぼるに憑かれて気が狂い、我が子の顔を切り裂いたあと自身で喉を掻っ切って死んだ。一命を取りとめた月澄であったが、顔には口元から耳にかけて生々しいまでの傷跡が残った。父親はその傷痕を見るたびに惨劇を思いだし、やり場のない憤りに苛まれる日々を送った。そしていつしか月澄から距離を置くようになった。


 月澄が八歳のとき、父親が子犬を連れて戻ってきた。罠にかかっていたと言う。番犬にするつもりで連れ帰ったらしいが、父親自身、月澄との関係に何かしらの変化を求めていたのかもしれない。

 月澄には遊ぶ友達のような者がいなかった。同じ年頃の子供が農村にいないというのも理由のひとつだが、それ以上に顔の傷のせいで忌み嫌われ誰も話しかけてはこなかった。誰とも話さずに塞ぎがちになっていた月澄にとって、子犬は唯一できた友達ともいえた。子犬の方も月澄によく懐き、ふたりはいつも一緒にいた。


 時は経ち、月澄は十歳、子犬も今や立派な成犬になっていた。家の番をするだけでなく、狩りなども手伝うようになっていた犬は月澄親子を支える家族の一員となっていた。

 しかし冷たい風が吹きはじめた初冬の日、犬は野犬の群れに襲われて死んだ。父親に断りなく、犬と一緒に山へ入ったのがいけなかった。腰を抜かして動けない月澄を犬は必死で守っていたが、野犬の数が多すぎた。喉元を噛みちぎられた犬は眼を開いて舌を垂らしたまま命を絶やした。ひとり取り残された月澄は野犬に囲まれながら失禁した。四方八方から腕や足に噛みつかれたとき、たまらない恐怖に精神が崩壊しそうになった。いや、実際に何かが壊れたのかもしれない。だからこそ起こりえたのだ、自己を守ろうとする能力の深化が。


 放心とも言える状態に陥っていた月澄は、ふと野犬が何かに警戒しながら吠えまくっていることに気づいた。うつろに目を向けると、なんと飼い犬が起きあがって野犬と対峙していた。月澄は犬が生きていたことに驚いた。しかしすぐに様子がおかしいことに気づいた。眼は見開いて舌は垂れている。首も真横に傾いている。喉からは血が滴り落ちている。月澄は求めるように手を伸ばした。犬はぎこちなく押されるように動いた。あわてて手を引くと犬はぎこちなく引かれるように動いた。まるで棒で押されて糸で引かれているような動きだった。この世の理に反する異質な脅威を本能で感じとったのか、野犬の群れは散り散りになって逃げていった。


 月澄は複雑な気持ちのまま、噛まれて痛む手足を引きずるようにして犬の屍と一緒に帰った。家にもどった月澄を見て父親は何か問いかけたが、すぐ横で死んでいながらも立っている犬を見るなり悲鳴をあげて家を飛びだしていった。すでに意識がもうろうとしていた月澄は、ついにこと切れたように土間に突っ伏すと、泥のように眠りこんだ。

 

 どのくらいの時間が経ったのだろうか。目が覚めても父親はいなかった。犬は少し離れたところで横たわっていた。あいかわらず眼は見開いていて舌を出したままだった。傷口に虫が沸いていたが取ってやる元気がなかった。体が痛かった。息も苦しかった。熱もかなりあるようだった。月澄はまた深い眠りにおちた。

 

 ふたたび眼が覚めた時には雨が降っていた。屋根から落ちてくる雨の滴が月澄の頬を濡らしていた。父親の姿は見当たらなかった。きっともう戻ってこない。そんな気がしていた。お腹がすいていた。喉もかわいていた。でも、もういいかと思った。父親のことも、自分のことも。もう何もかもいいか――と。

 

 やがて、おぼろげな意識の中で声が聞こえてきた。

「……大丈夫だ。安心しなさい」

 父親が戻ってきてくれたんだ。月澄はそう思って、小さく微笑んだ。

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