第23話 酒をのむ男(その六)

 翌日――。

 目を覚ました甘祢かんねは、しばらく天井を眺めたまま呆然としていた。

 窓から差しこむ柔らかな朝の陽ざしに溶けこんでいるかのように、意識は広く穏やかだった。

 透明感のある空気のなかを舞っている小さな塵までもが鮮明に見えていた。

 ふと、自分の存在に気がついて思考が働きはじめたとき、意識はとたんに狭くなり鮮やだった景色は色あせた。

 目に映るそれはただの天井であった。

 

 ここはどこなのか。

 体をおこしてあたりを見ると、少しはなれた円卓のところで、気品のある男が椅子に座って書物を読んでいた。

「目が覚めたか」

「あなたは――」

 見たことがある。しかしまだうまく頭が働かない。

峰隆ほうりゅうげんだ。訳あって陸鋭りくえいと共にいる」

 その言葉で、甘祢はようやく自分がかつの国から来た使者であることを思いだした。それと同時に浮かびあがるひとつの情景――。

「あの……広場におられた大きな男の方は」

功熊こうゆうさんか。何か思いだせたのか」

 軽い驚きをまじえて源は聞いた。

「いえ……はっきりとは。記憶は頭に浮かぶのですが……どこか他人事のようにも思えて」

 甘祢はうつむき首をふる。思いだそうとするとひどく頭が痛んだ。

「あまり無理をするな、時間をかけることも必要だ」

「お気遣い、感謝いたします」

 か細く息を吐いた甘祢は、きゅっと顔を引き締めると壁をささえにして立ちあがった。

「ご迷惑をおかけしました。私は先を急がねばならぬゆえ、これにて」

「ああ、そのことだが――」

 源が言いかけたとき、入口の戸が開かれて陸鋭がはいってきた。


「お、なんだ起きていたのか」

 両掌を差しだし頭をさげようとした甘祢を身振りで制した陸鋭は、長椅子にどかっと腰をかけて続けた。

「おまえはしばらくとうにいていい。報せには別の者が向かった」

 甘祢の双眸がちいさく揺れ動いた。


 葛国よりの言伝であった彩伶さいれいげん。その申し出了承の旨を蘭国らんこくまで伝えに向かったのは沙炎しゃえんだった。

 対象者たいしょうしゃが過去世を覚えていたのは沙炎にとっても存外のことで、似たような事例がないかを調べるためにいちどえんじゅへ戻ることにしたのである。

『それなら蘭に立ち寄って、おれが崋山かざんへ向かっていることを伝えておいてくれ』

『承知した。ついでに言伝の件も伝えておくとしよう。彩雪あゆきも気にしていたがこの娘、どうも任を気負いすぎるものがある。しばらくは静養させるがよかろう』

 そう言うと沙炎は、夜も明けぬうちに籐国を発ったのである。


「しかし、それでは相慈そうじさまより託された任務を果たせなかったことに――」

 焦りをみせた甘祢を見て、陸鋭は軽く笑った。

「そこは彩雪が説明してくれるだろ。そもそも、おまえを相慈さんに託したのは彩雪だからな」

「彩雪さまが……?」

「まぁ、おれはその場にいなかったら詳しく知らねえが――」

 陸鋭が聞いた話はこうだった。

 

 二年ほど前のこと、彩雪が縁側で近所の年寄りと碁を打っていたところ、一匹の黒猫が見目もずたぼろの女を連れて訪れてきたという。

『おい女、沙炎はいるか』

 出会いがしらの一声に、

『なん……ですと?』

 目を大きく見開いた彩雪は、右手でじゃらじゃら遊ばせていた碁石を思わず床に落としてしまった。

 ものいう獣だったのですぐに槐の民だと気づいたが、それ以上に猫が喋っているという現実に心のきゅんきゅんが止まらなくなり、盤をひっくり返して墓石をまき散らしながら庭に飛び出るや、猫の前で子供みたいにしゃがみこんで目を爛々とさせながらニンマリ笑ったところ、何かしらの恐怖を感じとったのか黒猫はびくりと体を震わせて、

『沙炎は……いないのか』

 少し後ずさりをした。

『うん、いまはいないねぇ』

 んっふっふ~と笑う彩雪の顔は、それはそれは意味深であったそうな。

『そ、そうか。邪魔したな』

 ただならぬ気配を感じた黒猫は体をひるがえして去りかけたのであったが、むんずと尻尾を掴まれた。

『てめえこら、なにしやがる!』

 鋭い爪を一閃、彩雪の腕に血筋が浮かび、つうっと流れはじめる。

 してやったり。驚いている彩雪を見て、ふんっと黒猫はほくそ笑んだ。が、今度は首根っこを掴まれ持ちあげられるや、女の胸元で羽交い絞めにされてしまった。

『んもう、ツンツンしてるなぁ。でもゆるす、すべてゆるす』

『ばか、おい……離せ!』

 激しく抵抗するも顔のすりすり攻撃がとまらない。黒猫はこの世の地獄を垣間見た気がした。


『お嬢、その方はもしや尾真びしん殿では?』

 彩雪と碁をやっていた老人が言った。

『へ? 尾真って、槐の長の?』

『ええ、むかし沙炎殿が言っておられたような。尾の割れた黒猫に長を継いでもらったとか』

『ん~、そうだっけ?』

 黒猫は彩雪の腕から抜けだすと、シッポを膨らませて喚いた。

『そうだ、おれこそが尾真、槐を統べる者だ。おそれいったか、おそれいっただろ。おまえらなんか会うこともできない偉い者なんだぞ。わかったら控えろ、頭が高いわ』

 さすがに彩雪も立場をわきまえ、

『やや、それは失礼をした』

 と両手を合わせて頭をさげた。

『ふん、わかればいいんだ、わかれば』

 なんとか体裁を取りもどした尾真であったが、

『んで、槐の長がなんの用なんだい?』

 てんで変わらぬ彩雪の態度に腹立たしい思いもあったが、

『あの女をここで面倒みてやってくれ』

 早く帰りたいので端的に用件を述べた。


 尾真にばかり気をとられていた彩雪は、あらためて少し離れたところにいた女に目を向けた。衣服や肌は土汚れ、ばさついた黒髪は背中のあたりで雑にきられていた。表情に生気はなく、虚ろな目はここではないどこかを見ているようだった。

『なにかあったの?』

『谷底で死にかけていた』

 前足を舐めながら尾真は言った。

『助けたはいいが宛てがねえ。それで連れてきた』

 前足で顔を洗いながら尾真は言った。

『だから頼んだぞ』

 あくびをしながら尾真は言った。

『頼まれたとなれば引き受けるけど、その代わり――』

 んっふっふ~と彩雪は笑った。それは尾真を地獄へといざなう悪鬼のような笑みでもあった。


 はたして交渉は無事に成立し、女を預かることになった彩雪であったが、どうも記憶をなくしているらしく住んでいたところはおろか名前も覚えていない状態であったため、対応に困ることとなった。

 身の回りのことは自分で出来るようだが、会話ができない。話しかけても上の空でどこか遠くを見つめている。時おり呟くように言葉を発することもあるが、なんの脈絡もないため意味がまったくわからない。

 しかし彩雪は親身になって面倒を見た。年が近かったというのもあるが、ふとした拍子で陶器のように女が壊れてしまいそうな気がして放っておくことができなかった。それに見目に対する憧れのようなものもあった。最初に出会った姿はどこへやら、汚れを落とした女の肌は雪のように白く、とかした髪は絹糸のように艶やかだった。どれも彩雪にはないもので、よく縁側に並んで座っては、近くで眺めて称美していた。

 

 ひと月ほど経った時、葛の国より初老の男が訪ねてきた。

『やあ相慈さん、久しぶりだねぇ』

 葛王の側近でもある水隠みぞがくし相慈そうじは、ごくまれに蘭国を訪れることがあった。

 陸鋭と彩雪の祖母は葛国の王女であった彩伶さいれいの娘でもあるため、國立の一族は遠からず葛国の王族の血を継いでいることにもなる。これは表沙汰にされていないため知っている者は少ないが、今でも密接な交流はあり、時おり外交を兼ねて訪ねてくるのである。

 

 その相慈と彩雪が、客間で世間話をしているときだった。

 いつものように縁側に座ってどこかを眺めていた女がぽつりと呟いた。

『やあ相慈さん、久しぶりだねぇ』

 それは感情もなにもない、一本調子の口調だった。

『おや相慈さん、ご無沙汰じゃないか』『相慈さん、葛にもうちの米を広めてくれよ』『うちの息子が相慈さんに弟子入りするって聞かねえんだ』『よう相慈さん、茶でも飲んでいくかい』

 彩雪はついに女の頭がおかしくなってしまったと思った。今までも脈絡のない言葉を口にすることはあったが、その日に限っては度が過ぎていた。しかし相慈はひどく驚いた様子で、いったいこの娘は何者なのかと尋ねた。相慈は気づいていたのである。女が口にした言葉は、すべて来る途中に里の者が口にした言葉であったことに。

 諜報の才ありと見た相慈は、詳しい経緯を彩雪から聞くと、それならぜひ私に預からせて欲しいと懇願した。決して悪いようにはせぬし、記憶が戻るよう治療も受けさせる、だから何卒と。

 その真剣な申し出に、丁重に面倒を見てくれるのであればという条件のもと、彩雪は了承したのだった。


「そのようなことが……」

 甘祢は彩雪と会った時のことを思いだしていた。『久しぶりだねぇ』と親しい口調で言っていた理由がようやくわかった。

「そういうことだ。自分の出処でどころがわかったのなら葛に戻る必要だってねえんだ」

 陸鋭はそう言ったが、甘祢は複雑な気持ちだった。しっかりとした記憶として思いだせるのは、ここ一年ほどの出来事くらいである。葛国で相慈から様々なことを教わり、任務のため奔走していることしか覚えていないのだ。甘祢という名前も相慈が付けてくれたものだった。確かに本当の親ではないのかもしれないが、このまま戻らないのは故郷を捨てるような気分でもあった。

 

 と、ふたたび戸がひらいて元気な声が飛びこんできた。

「陸鋭さん、準備できたよ」

 知来ちきは甘祢が目を覚ましていることに気がついて笑顔で挨拶した。

「よし、じゃあ行くか」

 陸鋭の言葉で、源も書物を閉じると立ちあがった。

「あの、どちらへ……?」

せんの国だ。功熊さんが馬車を出してくれるらしくてな」

 源が答えた。いろいろ迷惑をかけた詫びとして、功熊はそう願い出たのである。先を急いでいる彼らにとっては助かる申し出であった。

「あの方が……」

 甘祢はすこし考えたあと、

「あの、私もご一緒してよろしいでしょうか」

 凛とした双眸で三人を見つめて聞いた。

「まぁ、断る理由もねえな」

 陸鋭は肩をすくめて答える。

「あ、ありがとうございます」

 甘祢はぺこりと頭を垂れた。

 今はまず自分のことを思いださなければならない――甘祢はそう思っていた。


 彼らが外に出ると、功熊は車輪の調子を見ているところだった。

「おう、もうちょっとだけ待ってくれ。ここだけ確認をし――」

 そう言いながら振りかえった功熊は、そこに立っていた甘祢の姿を見て驚いた。

「甘祢さんも一緒に来るんだって」

 知来が嬉しそうにいう。甘祢は遠慮ぎみに頭をさげた。

「お……おう、そうか」

 功熊の目に涙が浮かびあがる。

「なんだおっさん、また泣いてんのかよ」

「や、やかましい」

 そんなやりとりを、源は微笑を浮かべながら見ていた。

 

 彼らが馬車に乘りこんだとき、年輩の警備兵が馬で駆けてきた。

 功熊が護送されている時に御者をしていた男だった。

 警備兵は手綱をひいて馬をとめると、腰に差していた太刀を功熊に渡した。

「餞別だ、持っていけ」

「なんだ、酒じゃないのか」

「あほ抜かせ」

 年輩兵は声をあげて笑った。

「いろいろ世話になったな、小克しょうかつの旦那」

 年輩兵――小克は、少し寂しげな目をすると、

「なに、そういう役割だ。今度はしっかり守ってやるんだぞ」

 功熊と甘祢に目を配り、馬腹を蹴った。

 去っていく小克を眺めていた功熊は、渡された太刀を腰にさした。

「出るか、とりあえずはおうだな」

 御者台に乘りこみ手綱を握る。

 久しぶりのことで少しばかり緊張した功熊であったが、すぐにかつての感覚を取りもどすと鞭をふるった。

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