第22話 酒をのむ男(その五)

 献上品が盗まれたことは大問題となり、彼らは重い処分を下されることとなった。

 護衛兵四人はお役御免のうえ十年間の無償奉仕。功熊こうゆうは私財没収のうえ二世に渡るまでの無償奉仕であった。

 早い話が身分はく奪、一生ただ働きの下民にすらなれない残酷な処分である。


 全身の血が下に落ちていくような感覚になった功熊は吐き気をもよおした。自分はともかく、女房と娘が奴隷のようになってしまうことが耐えられなかった。血の気の抜けた青白い顔で恩赦を懇願するも、

『命があるだけ良しとせよ。追って報せを向かわせる。それまでは家で謹慎、身辺を整理しておくように』

 と言われ、放り出されるようにして帰らされた。

 

 荷馬車をごとごと鳴らしながら、功熊は家路についた。

 雲から滴りおちた一粒の雨が功熊の頬をぬらした。

 やがて雨は音を立てて降りはじめ、功熊の視界を滲ませた。

 誰もいない土跳ねる道を進みながら、功熊は声を押し殺して泣いた。

 

 雨雲の裏にある太陽も沈み、周囲は夜の暗さに変わっていく。

 雨は変わらず降りつづく。

 家に着くも、潰れそうな心に圧され御者台から腰があがらない。

 それでもどうにか馬車から降りた功熊は、暗がりの中ではたと異変に気がついた。

 もう夜だというのに家に灯りがついていない。

 妙な胸騒ぎを覚えて木戸を蹴破った。

 女房と娘の名を呼ぶ。しかし返事はない。

 灯明皿に火を灯す。机の上に一枚の紙片が置かれてあった。

 女房の書置きか。そう思ったが、そうではなかった。

 それは女房と娘がさらわれたことを知らせるものだった。

 功熊はひどく混乱した。起きていることが理解できず、頭が熱くなり焼けてしまいそうだった。

 と、外で馬のいななきが聞こえた。


 血相を変えて外に飛びだした功熊の目に、馬に乗った小克しょうかつ固培こばいの姿が映った。

『その様子だと遅かったですか』

 歯ぎしりを噛んだような顔で固培が言った。

『ど、どういう意味だ。これを書いた奴が誰なのか知ってるのか』

『あのふたりだ』

 小克の言葉は、功熊の脳裏に若兵ふたりの顔をよぎらせた。

『なんであのふたりが……?』

 もう頭が追いつかない。いまここで叫びをあげて頭をどこかにぶつけたかった。

『実はですね――』

 

 処分が下されたあと、固培は気になることがあり小克に相談を持ちかけた。免職され労働をかせられるというのに若兵ふたりは笑みを浮かべていたという。実のところ小克も、野営したおりにやたらと酒を勧めてくる若兵に違和感を覚えていた。「だとすると何か企んでいるかもしれないですね」と固培は神妙に呟いた。「いえね、あのふたり功熊さんの家族のことを話していたんですよ」という。嫌な予感がしたふたりは、様子を見るため馬を走らせて来たとのことだった。


『場所はわかります、功熊さんは馬車でついてきてもらえますか』

 紙片に目を通した固培は馬腹を蹴った。功熊は言われたとおり御者台に飛びあがると鞭をふるった。

 降りやまぬ雨は功熊の体を激しく叩いていた。

 林を抜けた先に木々の剥げた広場があった。

 固培はそこで馬の足をとめた。

 地をうつ雨は少し先から途切れていた。ここより先は深く底の見えない峡谷になっているようだった。

 

 功熊は馬車を降りた。

 そして峡谷の際にいた人影たちを見た。

 稲光が一瞬だけあたりを鮮明に照らした。

『お……おい、なんで……?』

 ふたりは立ち姿で、ひとりは座りこみ、そしてひとりは地に伏している。

 おぼつかない足取りで人影に近づく。

 ふたりの若兵に挟まれるようにして女房が倒れている。

 ぬかるんだ地面に座りこんで娘が体をふるわせている。

 裂けんばかりに見開かれた娘の目は焦点が合っていない。

 恐怖を貼りつかせた蒼白の顔には血しぶきが飛んでいる。

 降りしきる雨が血を滲ませ流している。


『ああ……おい……おいぃ』

 功熊は女房を抱えると嗚咽をあげて呼びかけた。

 何度も揺さぶり名を呼んだ。

 しかし腕のなかで静かに眠った女房が目を開けることはなかった。


『おまえたち……何ということを』

 小克は驚愕とも哀れみともとれる声をあげた。

 固培は厳しい目つきで若兵が握りしめている太刀を見やった。

『それを渡しなさい』

 怒気を含ませた言葉に、若兵は素直に太刀を手渡した。

『なぜ殺したんですか』

『へへ、すいません。ついやって――』

 喋りかけた若兵の顔から血しぶきが飛んだ。

 固培が突然、渡された太刀で斬りつけたのである。

『な、なな、なにをする!』

 もうひとりの若兵は尻もちをついて慌てふためいた。

『なぜ、殺したんですか?』

 なおも固培は聞いた。

『む、娘にちょっかいをかけようとしたら、け、けけ、血相を変えてつっかかってきて、そ、それまでおとなしく言うこと聞いてたのに、それで思わず――』

『ああ、そういうことですか』

 太刀を下に向けた固培は、若兵の胸を容赦なく貫いた。

 命断の叫びが峡谷の闇へ吸いこまれていった。

『使えない人たちですね、女は売れるから傷つけるなと言ったでしょうが』

『こ、固培……何をしている』

 意味を図りかねた小克はひどく困惑した。

『まさか、おまえが全部……』

 冷酷なまでの笑みを浮かべた固培を見て、小克は愕然とした。


 すべて仕組まれていた――。緋爪ひそうぎょくを盗むために、固培は若兵ふたりと共謀していたのだ。なるほどどうして、それなら適当に口裏を合わせておけば何とでもなる。完全にしてやられた。まったく気がつかなかった。

 仲間に裏切られたという事実は、小克に深い絶望と耐えがたい屈辱を与えた。


『この、恥さらしめが……きさまはそれでも卯籐うどうの兵か!』

 固培は目を丸くする。そして声をあげて笑いはじめた。

『なにが卯籐ですか、バカなんですか?』

『それは大王をも愚弄する言葉であるぞ!』

 憤怒の声をあげながら太刀を握りしめる。固培は呆れた顔で両肩をすくめる。

『そうやって、自分が勝手に決めた役割を演じておくのもいいでしょうよ』

 若兵を踏みつけて太刀を引抜いた固培は、功熊の横を素通りして馬車に向かった。


『王のため、国のため。まったく反吐がでますよ。結局は自分のためだってことを認めたくないから、都合のよい言葉を隠れ蓑にしてるだけでしょうが』

 そう言いながら御者台の側板を外すと、中の空洞から器用に固定されていた布の塊を取りだした。

 あえて小克に見せつけながら、丁寧に布をめくる。

 掌より少し大きな、白色の玉が小克の眼前に現われた。爪あとのような朱色の模様、夜だというのに雨水を弾いて艶光りしている。


『……そんなところに隠していたのか』

 固培は鼻で笑った。

『見てくださいよ、この石ころ。こんなものが、私たち一生分の稼ぎよりも高いんですよ。わかりますかね、この意味。命をかけて国を守る私たちよりも、この石の方が価値があるってことですよ。大王を愚弄? どっちが愚弄してるんだか。欲しい物が手に入らないからって、国を守る兵を簡単に切り捨ててるじゃないですか。あなたも捨てられたくせして、よくもまだ信頼できるもんですね』

『それは……我々が任務を果たせなかったからだ』

『任務! 確かにそうです、私たちは果たせなかったですよ。でも、それで誰かが何か困ったんですか? ただひとりの人間が、どうでもいいような所有欲を満たせなかっただけでしょうが。取り巻きのバカたちが、勝手に罪を造りあげただけでしょうが。そこをおかしいとも思わずに、ただ失敗したから処罰されても仕方ないって、これはもう病気ですよ』

 小克は反論する言葉が出てこなかった。どこか深いところで、固培の言うことに賛同している自分がいることに気づいたからだ。


『そんなもの……なんだっていい。なんで、なんでおれの女房を殺す必要があった』

 うな垂れていた功熊が絶え入りそうな声で言った。

『いやいや、殺したのは私じゃないでしょう』

 肩をすくめる固培に、小克は燃えるような目を向けた。

『功熊の家族を巻きこんだのは貴様であろうが。なぜこのようなことまでする必要があった』

『処罰を取り消してもらうためですよ。とうにいればタダ働きでしょ、逃げたら追手がくるじゃないですか、そんなんで落ちついた生活なんてできないでしょうが。だから緋爪の玉を盗んだのは功熊さん、私たちはそれを追ってきた善良な兵。でも不幸かな、全員が功熊さんに殺されてしまった。功熊さんたち家族はそのまま国外に逃亡、運よく私だけ生き残って事情を説明する。そうすれば処罰も取消し、私も晴れて普段の生活に戻れるってわけです。どうです、いい考えでしょう。もっとも、本当の功熊さんは谷底で死んでいて、家族は売り飛ばされているってのが実際のところだったんですけど、誰かさんが余計なことをしたせいで変わってしまいましたが』


『狂ってるのか固培……何がおまえをそこまでさせる』

『金ですよ、金に決まってるでしょうが。他に何があるか逆に聞きたいもんですね』

 さも当然と言わんばかりに、嘲笑と皮肉を混じらせながら固培は続けた。

『世の中の価値観がおかしいんだから、それを利用しない手はないでしょうが。この石ころにしたってそうですよ。すでに采の商人と話はついているんですけど、笑いが出るくらいの高値で買い取ってくれるんです。どうです、このくだらない世の中。じつに最高でしょう』

『そんなことのために……おまえはおれの家族を』

『別にいいじゃないですか。どうせ奴隷のような暮らしが待ってるだけだったわけですし』

『そうさせたのはおまえだろ! おまえがこんなことしなければ、今ごろは……いつものように』

 功熊はそっと女房を地面に寝かせた。

『じゃあもう、さっさと奥さんのところに行ってくださいよ』

 功熊に歩みよった固培は遠慮のない動きで太刀を振りあげた。


『よさんか、固培!』

 叫びも虚しく、刃は功熊の背中に向けて振りおろされた。

 がちん、と金属音が鳴り響く。

 刃は波打ち固培の手に痺れを走らせた。

『えっ……?』

 刃先は背中に喰いこまず表面で止まっている。

 さすがに驚く固培。

 ぬうっと立ちあがった功熊は、その呆気にとられた固培の左頬に、己が拳を叩きこんだ。

 あごの形がぐにゃりと変わる。

 頭と体が千切れるほどの勢いで殴られた固培は、ぬかるんだ地面の上でのたうち回った。

 功熊の周囲には透かした文字――氣言きごんが顕れ浮かんでいた。 

『こ、こいつ……仙氣を……!』

 割れた声での驚愕。あごが砕けているようだった。口調にも余裕が見られなくなっている。

 

 功熊は、のっそりと歩きよった。腹の底から煮えたつ怒りが雨を蒸発させているかのように、得たのしれない空気が功熊の体から発せられていた。

 意図せず固培の口から小さな悲鳴がもれた。

 尻をついて後ずさりしながらも、何か手はないかと周囲を見まわす。

 その目に座りこんでいる娘の姿が映った。

 固培は手にした太刀を投げつけると同時に、功熊の脇をすり抜けて娘のところに走った。

 長い黒髪を鷲づかむ。

『おい、なにをするつもりだ!』

 功熊が来るよりも早く、固培は娘を引きづりながら峡谷の際まで移動した。

『とまれ! 近づいたら手を離す!』

 娘の体のほとんどは峡谷の宙にあった。

 繋ぎとめているのは固培に掴まれた黒髪のみ。

『よせ……やめてくれ』

 功熊の体から圧が消失した。

 固培の顔に勝ちほこった笑いが浮かぶ。


『小克さん、功熊さんを殺してくれませんかね』

 いつもの口調に戻った固培であるが、目は残忍な光に満ちていた。

『わかってますよね功熊さん、仙氣は使わないでくださいよ。しっかりと体に刺さるようにしていてください』

『固培、貴様どこまで!』

 小克は鼻息を荒くして腰の太刀に手を置いた。

『早く殺せよ! ……じゃないと、これ落としますよ』

 引っ掴んでいる黒髪を大きく揺さぶる。わずかに地に着けた娘の足元の土が、ぱらぱらと崩れおちた。

『わかった、もういい。もう……やめてくれ』

 力なく両手をあげた功熊を見て、小克は息の呑んだ。それが「刺せ」との意であることが分かったからだ。

『功熊、おまえは――』

 歯を噛みしめた小克が太刀を抜いた時だった。

『お……とう……さん』

 消え入りそうな声が届いてきて、こう続いた。

『ごめん……なさい』

 体を振りかえらせた娘は、そのか細い手を固培の腰元にあった太刀まで伸ばすと、それを引き抜いて自らの髪を斬った。

『風花ぁ!』

 喉を破るような功熊の叫びが峡谷に響いた――。


「嫌な記憶だ。思い出したくもなかった」

 寝具で眠っている甘祢を見つめながら、功熊は言った。

 場所は街のはずれにある宿屋であった。

 広場での騒動のあと、彼らは功熊の案内で宿まで移動したのである。

「で、その後はどうなったんだ?」

 長椅子で横になって話を聞いていた陸鋭は、体の向きを変えると頬づえをついた。源は机を挟んで功熊の正面の椅子に、知来と沙炎はもう一つの長椅子に並んで座っていた。

 時刻は夕五つ(午後8時)。

 机に置かれた灯明皿の明かりが、部屋の石壁に彼らの影を揺らがせていた。


「小克の旦那が固培を縄にかけて、おれの罪は消えた」

 疑いの晴れた功熊は事件の被害者ということもあって、国から多大な見舞金が贈られることとなった。それは食うに困らないほどの金額であったが、生き甲斐を失った功熊からすればどうでもいいことで、無意味に過ぎていく毎日を自堕落に過ごし、過去の記憶から逃げるように酒浸りの人生を送っていた。

 金も尽きようとしていたが、もうどうでもよかった。いまさら働く気力もなく、いよいよとなれば娘が死んだ場所にいって身を投げようと考えていたのだが、その娘が、生きた姿で現われたのである。

 

 記憶をなくしてしまっているようだが、功熊からすれば何だっていい。とにかく生きていてくれた、それ以上に何を望む必要があろうか。

「よかった、本当に……よかった」

 こみ上げてくる衝動が抑えきれず、功熊は子供のようにむせび泣いた。

 彼らは黙ってその想いを受けとめていた。

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