第20話 酒をのむ男(その三)

 数刻前――。

 馬車は荷台を揺らしながら、警備兵と酒男を乗せて街道を進んでいた。

 歩調はそれほど速くない。拍子のよい馬蹄の音が、石畳の路地に響いていた。

「なんだ、えらくおとなしいじゃないか」

 酒男の向かいに座っていた警備兵は皮肉をまじえて笑った。いつもなら馬車に積まれてなお悪態をつき、ともすれば横にいる者に頭突きをすることもある男が、今日に限っては頭を垂れて何やらぶつぶつと呟いている。

「いつもそれくらい素直だと、こっちも助かるんだがなぁ」

 側板に肘をかけて空を仰ぐ警備兵の顔は、実にすがすがしい。


「あれは風花ふうかだった……風花だった」

功熊こうゆう、もういい加減にしろ」

 つぶやきをやめない酒男――功熊に向かって、馬の手綱を握っていた年輩の兵が哀れんだ声をあげた。

 他の兵は少し驚いていた。どうやら、彼らが知り合いであることを知らなかったらしい。

「あの子はもういない。酔っていたからそう見えただけだ」

「そんなわけあるか!」

 飛びかからんばかりに立ちあがろうとした功熊を、慌てて警備兵は押えこむ。

「おれが……娘を見間違えるわけない。そんなこと……あってたまるか」

 打ってかわって意気消沈、今度は深く沈んでうな垂れた。

 年輩兵は前を向いたまま黙していた。他の兵は何か聞きたそうな顔をしていたが、立ち入るのを遠慮したのか顔を見合わせて肩をすくめた。

 と、その時だった。

 

 ずん、と貫くような衝撃が走りぬけ、馬車が跳ねあがった。

「な、なな、なんだ、地震か!」

 警備兵たちは驚愕の声をあげながら側板にしがみついた。

 馬がいななき激しく暴れた。

 縄で縛られ手が使えなかった功熊は、荷台の上で転げまわり正面にいた兵に体をぶつけた。

 やがて、揺れはおさまった。

 あたりに静けさが戻った。

 

 オオォォォン――。

 何かが聞こえてきた。

 オオォォォン。ォォオオオン。

 地中の奥深くから届いてくるその音は、何かが哭いているようにも聞こえた。

「おい……な、なんだよこれ……」

 両腕をかかえこんで警備兵は震えていた。まるで真夜中の暗闇を目にしている時のような、得も知れない恐怖がぞわぞわと体を這いあがり、ついには怖さに負けて叫びを上げてしまいそうな、そんな気分になっていた。


「す、すごい揺れだったけど、街は無事なのか」

 別の兵は息をのみながら後ろを振りかえった。

 このまま酒男を連行するべきか、それとも引きかえし街の様子を見に行くべきか。

 進退を決めかねていた警備兵たちであったが、こちらに向かって駆けてくる馬兵によって決定が下されることとなった。

「広場が大変なことになっている、すぐに向かってくれ!」

 馬兵の顔は強張り蒼ざめていた。

「なにかあったのか」

暴流ぼるがでた、それもすごい数だ。とにかく人手が足りん、頼んだぞ」

 そう言うと馬兵は馬腹を蹴って次の報せに向かった。

「暴流って……本当かよ」

 警備兵たちは心を波立たせる。街中で暴流が出たなど、今まで聞いたことがなかったからだ。

「とにかく行ってみるしかあるまい」

 年輩兵は手綱を引いて馬を転換させると、もと来た道を戻りはじめた。


「おい、縄を解いてくれ」

 転がったまま放置されていた功熊が、たまりかねたように言った。

「冗談言うな、できるわけないだろ」

「どっちが冗談だ、このまま暴流がいるところに連れていく気か」

 警備兵は口ごもる。

「解いてやれ。なにかあったら、わしが責任を持つ」

 年輩兵の言葉に、兵はしぶしぶ縄をきった。

 

 やがて広場に到着した彼らは、驚愕の思いで目を見開くこととなった。

 歪で醜い、腐った獣のような姿をした暴流が、そこら辺をわがもの顔で闊歩していた。槍や太刀を手にした兵がしゃにむに応戦しているが対応が追いついていない。殺伐とした現状に警備兵たちは圧倒されてしまい、しばらく微動だにせず呆然と眺めていることしか出来ないでいた。

「あぶない!」

 とつぜん聞こえたその声に功熊は注意を向けた。

 すぐ近くで親子が暴流に襲われかけていた。

 馬車から飛び降りた功熊は飛ぶように走るも、数匹の暴流は牙を剥きだし涎を垂らしながら親子に飛びかかった。

「おい逃げろ!」

 叫んだ功熊が歯をかんだとき、ひとりの女が黒髪をなびかせながら割ってはいるや、流麗な動きで暴流を斬り伏せていった。


「風花……」

 功熊は唖然としてその女を見ていた。

 腰元に短刀をもどした女は凛とした双眸を功熊に向けたが、特別な反応は示さなかった。

「風花、やっぱり生きていてくれたのか」

 目に熱い涙が浮かべ、ふらつくような足取りで女に歩み寄ろうとした功熊であったが、地に伏していた一匹の暴流が跳ね起きたのを見て一驚した。

 その暴流が子供に襲いかかった。 

 突然のことで女も功熊も反応が遅れた。

 母親は子供にかぶさり身を挺してかばった。

 暴流の鋭い爪が母親の背中を引き裂いた。

 女の白い顔に鮮血のしぶきが飛んだ。


「この野郎が!」

 暴流の頭を引っ掴んだ功熊は地面に叩きつける。ぺぎゃっと潰れて臓腑が飛散った。周りを見ると、さっき斬り伏せた他の暴流が起きあがっている。功熊は頬を伝う嫌な汗をぬぐった。

「油断するな、こいつら簡単には死なんみたいだぞ」

 親子を庇うように前へ立つ。しかし女から返事はない。見開かれた瞳は小刻みに震え、ここではない別のものを見ているようだった。

「あ……あ……」

 女は虚空を見つめながら震えている。

 血を浴びた白い顔は蒼くなり、寒気を帯びたかのように己が体を抱えこむと、とつぜん甲高い悲鳴をあげてその場に倒れこんだ。

「おいどうした、風花!」

 慌てて抱えおこすも目は開かない。完全に意識を失っているようだった。


「功熊、危ないぞ!」

 年輩兵の声が飛ぶ。

 暴流が後足を蹴り、功熊の腕に喰らいついた。

 がちん、と金属が擦れあうような音がする。

 牙は功熊の腕に潜りこむことなく、皮膚の表面で止まっていた。

 鼻に皺をつくり獰猛な顔をしていた暴流が、とつぜん悲しそうに涙を流しはじめる。噛みついた牙にはヒビがはいっていた。

 功熊の体に透かした文字のようなものが浮かびあがっている。

 暴流は二の足を踏み、はじめて警戒の様子を見せた。

 じりじりと詰めよるも、どうするか考えあぐねているようだ。

 やがて意を決したのか、一匹の暴流が飛びかかった。

 しかし功熊に到達する前に、横から飛んできた拳にふっ飛ばされていった。


「おまえ、さっきの酔っ払いじゃねえか」

 陸鋭りくえいが手首を振りながら言った。甘祢かんねの悲鳴を聞いて駆けつけてきたようだが、その甘祢は意識を失い倒れていた。

「なにをしやがった」

 陸鋭の目にぎらついた光が灯る。

「なにもしていない、とつぜん倒れたんだ」

「本当だよ、僕も見てたから」

 弁明する功熊を助けたのは知来ちきだった。離れた場所でずっと様子を見ていたのだが、たまりかねて出てきたようだった。

「ばか、おまえは隠れてろ」

 陸鋭がそう言った時だった。


 突然、周囲一面にいくつもの透かした文字が浮かびあがった。

 それと同時に低い声が宙を縫うように流れていく。

 まるで踊っているかのように浮かんだ文字が泡沫のごとく現れては消えていく。

 どこかで何者かが詠唱しているようだった。

「いや、やっぱりいい。その必要はなくなったみたいだ」

 口元をつりあげる陸鋭。知来は揺らいでいる半透明のそれに見惚れていた。

「陸鋭、なんだこの氣言きごんは」

 源が駆けつけてきた。氣言は仙氣せんきげんである。これが浮かびあらわれるということは、どこかで誰かが仙氣を練りあげているのだ。

「大丈夫だ、まあ見ていろ」

 陸鋭がふてぶてしい笑いを見せたとき、声高な遠吠えが空に昇った。


 仙氣 ― 冥府めいふへのいざない ―


 揺らぐ氣言が渦のように旋回をはじめ、やがて八方に飛散した。

 それが合図であったかのように、暴流の体がみるみる腐りはじめた。

 まるで風を前にした塵のように手足の先から肉が消失していく。

 やがては骨だけに、ついにはその骨さえも微塵と化して消滅していった。

 誰もが唖然としてその様子を眺めていた。

 あれだけいた暴流が跡形もなく消えたという事実を、まだ呑みこめないでいるようだった。


「まったく、どこをほっつき歩いているのだ」

 陸鋭の背後から、まるで喉が潰れているかのような、ひどくごわついた声がした。

「助かったぜ、沙炎しゃえん

 現われたそれに向かって陸鋭は言った。

 そこには大きな獣が立っていた。見目は犬のそれだが体躯は人より大きく、燃えるような朱紅の長毛に全身が包まれていた。

「陸鋭、この獣は……」

えんじゅの民だ。おれと一緒に対象者を探してくれている」

 驚いている源を見て、陸鋭はいたずらに笑った。


らんに戻らず何をしているのだ」

 ふわりと尾を垂らした沙炎は、深海を思わせる蒼目で甘祢を見つめる。

「この娘がいなければ探しあぐねていたとこ――」

「沙炎!」

 知来が言葉をさえぎり飛びついた。長い毛に顔をうずめて嬉しそうに笑っている。

「これは……?」

「前のことを覚えているらしくてな」

「ばかな、ありえんことだ」

 困惑を浮かべる沙炎のことは構いなしとばかりに、知来は赤毛の体に飛びのった。

 ひしとしがみついて降りようとしない。沙炎は低く呻いた。


 やがて広場に多くの保仙ほせんが集まり、氣裂の修復が行われはじめた。

「あの大きさだと二、三日はかかりそうだな」

 保仙の作業を眺めながら源は言った。

「あとは任せるとするか」

 陸鋭は頭に巻いていた布を固く締めなおした。

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