第19話 酒をのむ男(その二)
街路を抜けると広場があったので、彼らはそこで話をすることにした。
中央にある石で造られた人工池には魚影の姿もあり、
「で、
池のへりに腰をかけて
「我が主、
と用件を伝えた。
「へぇ、相慈さんの遣いか。元気にしてるのか、あの人は」
「……はい、お体変わりなく」
「そうか。まぁ病気だけはしなさそうだからなぁ、あのおっさん」
けらけらと陸鋭は笑った。妙な既視感を覚えた甘祢であったが、咳をひとつ払うと懐より巻物を取りだし、膝をついて陸鋭に手渡した。
おもむろに目をとおす陸鋭の顔から笑みが消えさり、真剣な顔つきだけが残った。
「なるほど、
指で膝をとんとん叩きながら、ことのほか神妙に黙考する。
「お返事をお伺いしてもよろしいでしょうか」
しばらく待って甘祢が聞いた。
「……いまはまずいな」
「それは、お断りになられるということでしょうか」
「いや、そうじゃない。断ることは出来ない。ただ、今は他にすることがあってな」
「なんなの、その彩伶の言って」
知来は横に座ると、広げていた巻物を覗きこんだ。
「おれの先祖が葛国と交わした約束事だ」
陸鋭は巻物をするする戻しながら続けた。
三代前の先祖に
時は流れ10年後、地鋭は死に、例の力は陸心へと引き継がれた。
18歳になっていた陸心は父の無念を晴らすため、ふたたび葛国へ出向くことにした。小金色の光は、まだ葛国で爛々と輝いていたからだ。
この時代、葛国の情勢はあまり良くなく、至るところで内乱が起きていた。加えて
内情を知った陸心は、蘭国をあげて葛王の支援に乘りだした。内乱を静めるために奔走し、外交にも密かに助力した。葛国は徐々に落ちつきを取り戻し、王の威厳もまた戻りつつあった。
次第に葛王は、陸心の人柄に信頼の重きを置くようになり、この者ならば娘を任せても良いとまで考えるようになっていた。何より彩伶自身が陸心を心から慕っていた。これ以上に何を言う必要があろう。だが身内や配下の者が決して認めなかったのである。
内乱が起きても知らぬ存ぜぬであったくせして、この国が持ち直せたのは一体誰のおかげであるか! と葛王はひどく憤慨した。国政がふたたび悪化することを危惧した陸心は、葛の安泰を優先してひとり蘭国へ帰ることを決意したのだが、そこで彩伶の氣病が発症してしまったのである。
娘を不憫に思った葛王は最も信頼のおける配下を集めて一計を案じた。王女は死んだという風説を流布し、密かに知られることなく蘭国へ送りだすことにした。その時の配下のひとりにいたのが相慈の祖父だった。
山道での別れ際、彼は陸心に言った。葛王の命を賭けた一計を、どうか真摯に受け止めて欲しいと。そして願わくば、もし葛が窮地に陥った時にはまた助けて欲しいと。その言葉は相慈の祖父だけでなく、二度と故国の土を踏むことができない彩伶の願いでもあることを分かっていた陸心は、必ず守ると約束したのだった。
「なるほど、だから彩伶の言か」
源は腑に落ちた声で言った。
「子供の頃は婆ぁから耳にタコができるほど聞かされたもんだが、まさかここで聞くことになるとはな」
「おまえがいないと駄目なのか」
源の疑問に、陸鋭ははっとした。
「そうか、そうだったな。葛が求めているのは蘭龍による支援……混乱して肝心なことを見落とすとこだったぜ」
顔に笑みをもどした陸鋭は甘祢に目をむけた。
「
「はい、面識がございます」
「それなら蘭に戻って伝えてくれ。この件は了承した、あとはすべて一任すると」
「承知しま――」
甘祢が頭を下げかけた、その時だった。
ずん、と大地に衝撃が走りぬけ、地面が大きく突き上げられた。
「地震か、でかいな」
よろけて池に落ちそうになった知来を源は支える。
激しさを増す揺れに池の水は飛散り、広場の石畳には蛇がうねるように亀裂が走りはじめた。
恐れおののく烈火の悲鳴。
あたりにいた人々はしゃがみこんで頭を抱えている。
街路の木々は鞭のようにしなり、建物は今にも崩れそうな音をあげていた。
やがて、しばらくしてそれは止まった。
埃っぽい空気のなか、源は周りを見渡した。
捲れ上がった石畳に、根が盛りあがり傾いた木々。壁が崩壊している家もあった。
オオォォォン――。
何かが聞こえた。
それは低い唸り声のようでもあった。
オオォォォン。ォォオオオン。
「なんだこの音……いや、声か?」
陸鋭は警戒した様子で周囲に目を配っていた。
「わからん、下から聞こえてくるようだが」
地の底から響いてくる禍々しいそれは、源の背筋をぞくりとさせた。まるで心の中にある恐怖という感情を鷲づかみにされているような気分だった。
「お、おい、なんだあれは!」
広場のどこかで声が飛んだ。
何人かの者が、宙を指さし凝視していた。
家の屋根より少し高いところの空間に、刃で裂いたような切れ目ができていた。
「
源は目をみはった。大人の腕ほどある裂け目の奥で、黒い影がうごめいている。
「まずいな、人を非難させた方がいい」
「なにかいるのか」
「
ぼとり、と氣裂から落ちてきたそれは、石畳のうえで潰れて目玉が飛び出した。獣のような姿形をしているが、体の均整が著しくおかしい。むくりと起きあがると内蔵が垂れていた。犬のように後ろ足で顔を掻きはじめる。顔の一部が剥がれおちた。
「なんだこいつ、気色わりぃ」
陸鋭が不快をあらわにしたとき、ぼとり、ぼとり、ぼたぼたぼた、とそれは次々に氣裂から落ちてきた。
絶叫が広場を引き裂いた。
わらわらと沸いて出てくる暴流に混乱した人々は我先に逃げはじめる。
暴流は散歩でもするかのような足取りで周囲に散らばりはじめた。
騒ぎを聞きつけた警備兵が応戦をはじめる。
知来を甘祢にあずけ、源と陸鋭もそれに加わることにした。
しかし数は減るどころか増える一方だった。
「街にいる
源の言葉に、警備兵のひとりは早馬をはしらせた。
「あぶない!」
知来が叫んだ。
広場の隅で座りこんでいた親子に、何匹かの暴流が襲いかかろうとしていた。
甘祢は腰の短刀を抜くと黒髪をなびかせた。
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