第09話 彩伶の言

 らんの国――。

 山岳地帯に広がる棚田の先には南海が広がっていた。潮の香りをのせた風が、田んぼで立ちぼうけしているカカシの衣服をはためかせている。そこかしこにある家々はどれも藁ぶき屋根のつくりで、小川沿いでは水車を回している家屋もあった。

 山頂付近に広がる平地にはひときわ大きな屋敷が建てられており、その屋根から突きだした棒には、淡紫色の旗地に蘭の花と龍の影絵が印された旗が掲げられていた。


 その屋敷の一室で、ひとりの女が忙しなく動いている。歳の頃なら二十歳くらいの、小柄ではあるが丈夫そうな体つきをした女だった。頬くらいまで伸びた髪はうしろで束ねているが、雑なくくりのためにところどころで跳ねている。血色のよい肌や精悍な顔つきは、年頃の女というよりも少年を思わせるものがあった。

 

 広さにして四畳くらいの板間に所せましと置かれている調度品を片づけているようだが、いかんせん置き方に規則性がなく、物の上に物があるような状態であるため、なかなか苦労をしているらしい。いまも棚の上に詰まれた妙に怪しげな壺を背伸びして取ろうとしているのだが、足場が悪く態勢を崩してしまい、前につんのめったところに、その怪しげな壺が落ちてきて頭に直撃したところだった。


「んもう! いい加減にしろ!」

 頭をおさえて叫んだ。

「あのくそ兄貴、人には道具は綺麗にして片づけておけ、なんて言っておきながら、これはないだろ!」

 束ねた髪をほどいて、やってられないと言わんばかりにわしゃわしゃとかき上げる。ちらと覗かせたこめかみには、細い稲妻状の刺青が入っていた。

「なにを吠えている」

 と、床の下あたりで声がした。まるで喉がつぶれているかのような、ひどくしゃがれた声だった。

「やあ沙炎しゃえん、おかえり。思ったより早かったね」

 明るい声で女は応えた。

「たまには掃除でもしといてやろうと思ったんだけど、もうやめた。帰ってきたんならいいや。んで、兄貴は?」

「事情があり私だけ先に戻ってきた。対象者たいしょうしゃが氣病らしく、ひとまずは紅革くかくへ向かうとのことだ」

「氣病? だってまだ十歳でしょ?」

 女はひどくあわてて聞き返した。

「それが原因かはまだわからぬ」

 沙炎と呼ばれた声は、なだめるように言った。

「それに、いまは保仙の者がついているゆえ、大事には至らぬであろう」

「そう……ならいいんだけどさぁ」

 心配そうに呟いたときだった。


彩雪あゆきさま、かつの国より使者が参られておりますが」

 部屋の外で女中の声がした。

「葛から? なんだろ」

 客人が来ること自体あまりないため、不思議な思いで彩雪は応接の間へ向かった。

 部屋にはいると、ひとりの女が正座をして待っていた。歳は彩雪と同じくらいであろうか、旅装束姿で前髪を綺麗に切りそろえた、どこか影のある澄んだ瞳をした色白の女だった。

「ああ、あんたか。久しぶりだねぇ、元気にやってたのかい?」

 彩雪は女の前に置かれてあった座布団に、どかっとあぐらをかいて座った。

 股のあいだに手をつっこんで、どこか嬉しそうに揺れている。


「……?」

 女は困惑した表情で小首をかしげた。

「ん、覚えてないの? まぁいいや。んで、今日はどうしたんだい?」

 そう聞くと、女は改めて、

「申し遅れました。わたくし、葛国かつこく水隠みぞがくし相慈そうじ様よりの遣いで参りました、甘祢かんねと申します。この度は我が主の相慈様より重要な言伝をお預かりいたし、それを伝えに参った次第でございます」

「相慈さんかぁ。あの人は元気にやってるの?」

「え、ええ……お体変わりなく」

「はは、まぁ病気だけはしなさそうだよねぇ、あのおっちゃん」

「お、おっちゃん……?」

 あまりにも遠慮のない応対に、甘祢は戸惑っているようだった。

「で、どんな話なんだい?」

 甘祢は咳払いをひとつたてると、顔を引き締めて話はじめた。

 

 宿敵である梗国こうこくに復讐を果たすべく、葛の国は兵力を増強し、軍備の拡大に国費のほとんどを費やしていた。武具の強化、主城の建造、兵糧の確保はさることながら、北のせい、東のりゅうとの外交のために投じた財も相応なもので、下人や中人に限らず、武人や官人、果ては王族までもが極貧の生活を余儀なくされるなか、それでも内乱が起きず着々と軍備が増強されていったのは、ひとえに皆の思いがひとつに向けられていたからであろう。

 

 そのかいあって葛羊かつようはめざましいほど強くなったが、それでも梗猿こうえんが相手となると軍配は上がらない。いまの見立てだと六分四分、これがせめて五分五分になるまで事は起こさぬ方がよいというのが葛国の判断であったのだが、ここのきて飛びこんできたのが、梗による犀国制圧の急報だった。

 

 葛の国内は騒ぎ立ち、よもや梗はその勢いで攻めてくるのではないかという憶測が飛び交うなか、事態の把握に努めていた参謀の相慈は、全貌が明らかになるにつれてますます理解に苦しんだ。

『どうやら梗の目的は犀国の太子であったようです』

『馬鹿を申せ、そのために戦を仕掛けたというか』

 髪と口髭に白髪の混ざりはじめた初老ともとれる相慈の言葉に、若さを脱し大人の威厳を身につけつつあった葛王豆江かつおうとうえは驚きを隠せなかった。

『間者の話ですと犀は了承し、その見返りとして長葉の都を梗より献じられるとのことでした』

『ますますわからぬ。梗は何を考えておるのだ』

『検討がつきませぬ。ただ、その太子は行方がわかっておらず、いまは交渉が滞っているようです』

『行方がわからぬとは、どういうことか』

『何者かにさらわれたとの噂が。一説によると、柊国しゅうこくの犯行ではないかとの話も』

『柊国が? であるなら、梗はどう動く。よもや柊と戦をするつもりはあるまい』

『梗は我々の軍備拡大に対して警戒を抱いておりますゆえ、その可能性は低いものと思われますが、もしも梗が後方を顧みずに戦をはじめたのであれば――』


『好機……か』

 葛王の目にぎらついた炎が宿った。しかし、

『だが梗にも名将が何人かはいよう。さすがに、そのような愚策はとるまい』

 冷静に自らの炎を鎮火した葛王であったが、やはり口惜しいのか拳を強く握りしめていた。

『大王、私はどう転んでも好機であると考えております』

 相慈は言った。


 仮に梗と柊が戦をしなくとも、長葉が犀の領土となれば、梗の国力低下は目に見えて明らかとなる。交渉といったところで梗の行いは侵略と変わりなく、犀もはらわたが煮えくり返っているに違いない。もしもいま、葛が梗に攻め入ったとしても、犀鳥せいちょうは硬猿を助けたりはしないであろう。

『しかし、それでは今の六分四分と変わらぬではないか』

 犀が静観を決めこむだけなら、互いの兵力に違いはない。だが、

『制圧した領土は犀に明け渡すとすれば』

 その言葉に葛王は驚きの色を示した。


『我々の目的は、かつての王都、裏見りけんの奪還に相成りません。それ以外の領土の割当てはすべて犀の取り分とすれば、犀鳥は味方となりまする』

 裏見は葛国の最西端にある、かつての王都の名であった。先々代の頃に梗の侵略によって奪われ、今では雛桔の一端に成り果ててしまっている。そこを奪還して、ふたたび王都で暮らすことこそが葛王の目的であり、民たちの願いでもあった。


『確かにそうなれば五分と五分……。しかし相慈よ、葛はもう負けられん。ここに至るまで、どれほどの苦しみを民に強いてきたか。余は、それらすべてが無駄になることだけは避けたい』

『わかっておりまする。私は先代にもお仕えさせて頂いた身ゆえ、民を慮り、私財を投げてまで葛のために奔走するお姿は感涙にむせぶほどでした。私も同じ思いでございます』

『贅沢は言わぬ。せめて四分六分、こちらに勝機があると見て挑みたい』

 相慈はしばらく目を閉じて黙っていたが、やがて長い息を吐くと、覚悟を決めた表情で言った。

『あるかもしれませぬ、大王。四分六分、いや、事によってはこちらが七分にまでなりうる方法が』

 ですが、と相慈は続けた。

『これは代々王族に仕えてきた私の父より聞かされた言葉。真偽のほどは不明でありますゆえ、確証を得るまで何卒お待ち頂きとうございます』

 そう言って相慈は甘祢を呼びつけたのだった。


「相慈様は私に蘭国へ向かうよう言われました。そこで言伝を伝え、返事を伺ってくるようにと」

「ふぅん、葛の国も何やら大変だねぇ。で、言伝って?」

 甘祢は懐より巻物を取りだすと、それを広げて書かれている文を読み上げた。


「今は亡き栖豆王すとうおうの名において蘭龍らんりゅうに命ずる。いまこそ『彩伶さいれいげん』を果たされたし」

 

 彩雪の目が見開いた。

「以上が、相慈様よりの言伝でございます」

「彩伶の言……か」

 膝に肘をのせ頬杖をついた彩雪は、困ったように歯噛みした。

「お返事を伺ってもよろしいでしょうか」

「……できない」

「それは言伝の内容を拒否するという意味ですか」

 はっとした彩雪は、あわてて弁明した。

「あ、ごめんごめん。そうじゃないんだ。ただ、あたしには決める権利がないってこと」

「……と、申しますと?」

「あたしは頭首の代理だからね。ある程度のことは勝手に決めてるけど、さすがにここまでとなるとねぇ」

「差し出がましいのは承知の上でお聞きしますが、彩伶の言とは……?」

 腕組をした彩雪は、う~んと唸った。


「実はあたしもよく知らないんだ。婆ちゃんが生きていた頃に何度か聞かされたことがあったけど、正直まだ小さかったからねぇ。ただ、いつも穏やかだった婆ちゃんがその時は厳しい顔をしてたから、重要な話だってことは子供ながらに理解してたけど」

「そう……なのですか」

「ごめんねぇ。兄貴がいれば詳しくわかるんだけど」

「兄上様がご頭首なのですか? いまはどちらに」

「それが、ちょうど今はいなくてさぁ」

「いつお戻りになられるのですか」

「ん~、いつだろ。とりあえずは紅革へ向かっているみたいだけど」

「紅革……榴の王都ですね。わかりました」

 甘祢はそう言うと立ちあがった。

「まさか探しに行くの?」

「はい、火急の件ゆえ」

「えぇ……待ってりゃいいじゃん。急ぎなのはわかるけど、むやみに探しても割りを食うだけだよ」

「いえ、大丈夫です。人を探すのは得意ですから」

 彩雪が止めるのも聞かず、甘祢は礼を言い残して足早に屋敷を出ていった。

「もう、せめてお茶くらい飲んでいけばいいのに」


「彩雪、あの娘は確か――」

 床下から沙炎の声がした。

「うん、でも覚えていないみたいだね」

 彩雪は縁側にでると、眼下に広がる風景をながめた。

「元気でやってて安心したけど……なんか心配だねぇ」

 甘祢の毅然とした態度の内に、どこか自棄的な雰囲気があるのを彩雪は感じていた。

「私が見ておこう。どのみち紅革へは行くつもりだったゆえ」

「ん、頼むよ。あんまり無茶はしないようにね」

「承知した」

 床下から沙炎の気配が消えた。

 しばらく物思いにふけっていた彩雪であったが、やがて空に向かってうんと伸びをすると、

「さて、また片づけでもするかねぇ」

 きゅっと髪をうしろでくくった。

 潮の匂いをのせた風が、彩雪の頬を撫でていった。

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