第06話 忘却の壁画
そそり立つ岩壁に挟まれた場所で、たき火の炎がちらついていた。
時刻は夜みっつ(午前0時)を過ぎた頃である。
大なり小なりの岩がそこらに転がっている他は何もない場所だった。上空にいくにつれ狭まっている岩壁の隙間からは、ちょうど半円の月が姿を見せているが、明かりは彼らのいるところまで届いていない。
「思ったより時間をくっちまったが、明日には
たき火に薪をくべながら
源が会った時は下ばきを履いただけの下人のような姿だったが、いまは白黄色の作務衣を肩に羽織っている。巻いていた布をとった頭は髪が一本もなく見事に剃られており、こめかみから頭部に渡って、細く稲妻状の刺青が入っていた。
「石赤には
そばで眠っている
「信用はできるのか」
「親父の旧友で、おれが子供の頃から知っている。悪い人ではない」
「すまねえな。
「なに、おれもその人に用事があったところだ。それに、いい抜け道も教えてもらったしな」
まさか本当に
実際には道と呼べるようなものではなく、切りたつ岩場を乗り越え飛び越えしながら進まなければならない悪路であるが。入口にたどり着くまでにも、ほぼ垂直の壁を登らなければならなかった。普段からよく旅をするだけに、そのようなことは別に不得意ではない源だったが、僅かな窪みだけを使って崖を登っていくのはさすがに骨が折れた。それを陸鋭は背中に子供を縛りつけて、まるで蜘蛛のようにすいすい登っていたのだから大したものである。なにかと苦労を要する抜け道だが、それでも本来の遠く長い道のりのことを思えば楽であることに変わりはなかった。
「しかし、いまだに信じられんな」
「
源はうなずいた。
今まで源は、竜推山は界壁から伸びた山脈であると思っていたのだが、ここに来てそれが間違いであったことを知らされた。いま源の前方にそびえ立っているのは界壁の岩壁で、後方でそびえているのが竜推山の岩壁だった。一見すると何の変哲もない、ただの山の切れ目のように思えるが、陸鋭いわく、ふたつの岩壁はまったくの別物であるとのことだった。源も実際に地質を見て、すぐにそれが本当であることに気づいた。
これはつまり、竜推山の山脈が走っているところに、下から界壁がせり上がってきたということになる。地殻変動によるためか分らないが、竜推山は分断されてしまったのだ、この雲より高くそびえ立つ界壁によって。
「それほど感動するもんでもねえだろ」
陸鋭は笑いながら言ったが、源の目に興味の色が消えることはい。
「そういえば、おまえは旅の帰りとか言ってたな。なんの旅をしていたんだ?」
ふと陸鋭が聞いた。源は小枝を火の中に放ると、
「己を見つけるような旅……か」
自分に問うているような口ぶりで答えた。
「なんだそりゃ、よくわからねえな」
「おれ自身がわかっていないからな」
顔をしかめる陸鋭を見て軽く笑った源は、静かに爆ぜる炎に視線を戻すと話をつづけた。
「子供のころ、
源の家は平民でも暮らしぶりの貧しい農家であったため、親は保仙を呼ぶこともできずにいた。毎夜毎夜見せつづけられる耐えがたいほどの悪夢に、源は死への恐怖から精神が崩壊しかけ、もはや普通には生きられないほどにまでなっていた。しかし、何者かが夢の中に現われて、源に言葉を発したのである。
『死というものなどない。あるのはただ、在るということだけ――』
その恩寵に満ちた言葉を聞いたとき、源の心に巣食っていた死の恐怖や苦しみの影は、まるで明光が照らされたかのごとく消え去り、憑りついていた暴流も消滅していったのだった。
「夢の中でか」
「ああ、あまりよく覚えていないがな」
源の回復を見た村の者は不思議がっていたが、最終的には肉体が本来持っている自己治癒の能力で治ったのだろうということになった。しかし源は絶対にそうではないと確信していた。あの言葉を浴びたときに感じた波動は、そういったものとは明らかに違っていた。うまく言葉にできないが、あえて言うならそう、
「凌駕していたのだ」
炎を見ている源ではあったが、その目には違うものが映っていた。
『それ』は完全にこの世界を超えたところから来ていた。『それ』が言葉にできないのは『それ』を説明する方法がないからだった。
「やっぱり、よくわからねえな」
「だから言っただろう」
源は軽く笑った。
暴流に憑かれた経験から、源は保仙になる道を選んだ。貧しい農村の出であったために、人並みを超える努力を必要とされたが、それを乗りこえて源は見事に保仙となった。専門としたのは、暴流に憑かれた者を癒す分野だった。
そうして仕事をしているうちに、やがて源は、自分と同じ体験をした者が他にもいることを知った。それは同じ保仙の者であったり患者であったりもしたが、共通していたのは、保てる精神が限界にまで達して壊れる寸前であったということだった。
やはり『それ』は存在することを改めて確信した源は、その道について調べはじめ、どこそこで詳しい人がいると情報を得ては、話を聞くためにその人のところまで足を運んだりしていた。
「それで柊まで行ってたってことか」
「そういうことだ」
その帰りに、戦で足止めをくらって陸鋭と出会ったのである。
「はじめに言ってた、己を見つけるってのはどういうことなんだ?」
「調べていくうちに、どうも『それ』は己の中にあるものというのが分かってきてな」
「だったらすぐに見つかるんじゃねえのか」
「そうでもない。自分が思ってるほど、人は自分のことをわかっていないからな」
「ふうん、そういうもんか」
陸鋭の反応は、どことなく子供のようだった。
「まだまだ知らないことが多すぎるな、この世界は。おれはもっと学ばねばならん」
ふと優越感をくすぐられたのか、陸鋭は立ちあがると、
「せっかくだ、面白いもん見せてやるよ」
火のついた薪を手にとり、ついてくるよう言った。
源は知来に目を向けた。
「心配ねえ、すぐそこだ。もとより、どうせ誰も来ねえよ」
確かに、この道を知っている者などそうそういないだろう。源もまた火のついた薪をとり、あとに続いた。
少し歩いて岩壁が大きく窪んでいるところに来ると、陸鋭はその窪みの中を照らすように火をかかげた。
「これは――」
おどろく源の顔を見て、陸鋭は満足そうに口元をつりあげた。
そこには壁画が描かれていた。
ずいぶん薄くなって見えにくいが、山の上に立つ人の周りに大勢の人がいる画や、空を飛んでいる者たちと下にいる者たちが武器のようなものを構えて戦っているような画などが、壁の一面に描かれていた。中には山と並んで人が立っているようなものまである。
「すごいな、これはいつの時代のものだ」
「さあな、知らねえ。まぁ千年以上は経っていそうだな」
陸鋭はそう言ったが、源はそれよりも遥かに昔であろうと思った。
おそらく、描かれている山は華山で、崇められている人は苑の民のことを示しているのだろう。まだ苑人の存在が信じられていた時代で、もしかすると信仰心のある者が、ここにこもって修行でもしていたのかもしれない。
源が鑑賞にふけっていると、陸鋭は先に寝ると言い残して戻っていった。
源は岩の隙間に薪をさすと、窪みの中に入ってあぐらをかいた。
ふと、横手に見える画が妙に気になった。
山の上に立つ人が、それよりも上にいる人を崇めているような画であった。山上に立つのが苑人であるのなら、これは何を崇めているのか。
そう思ったが、深くは考えないようにした。答えのわかりようのないことは、いくら考えても推測の域を出ることはない。
薪の炎が小さくなり、やがて炭火となった。
周囲は暗闇に包まれた。
目を閉じた源は、焦げた木の匂いを感じとりながら、己を探すため深い瞑想に入っていった。
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