第03話 仙氣の使い手
一台の馬車が、陽も落ちた暗い山道を走っていた。
時刻は夕四つ(午後七時頃)。
空に浮かんだ月のあかりは、草木に阻まれて道まで落ちていないため、馬車は暗闇に溶けるようにして進んでいた。
乘っているのは御者がひとりと、武人がふたり、それに老人と子供の五人であったが、子供は老人の膝を枕にするようにして横になっていた。
年の頃は十歳くらいであろうか、まだあどけない顔は赤く染まり、粗い呼吸を苦しそうに繰りかえしている。向かい合うようにして座っているふたりの武人は、絶えず後方に目を光らせてはいるものの、時おり、心配そうな顔を子供に向けていた。
「おいたわしや、太子さま。なぜ、よりにもよってこのような時に……」
夜の森はまだ冬の気配を残していた。屋根のない馬車には冷えた空気が直に流れこみ、それが老人の不安をいっそう狩り立てた。
二日前から高熱が続く太子のもとに、とつぜん舞いこんできた梗猿急襲の凶報。病状の悪化を恐れてしばらくは宮廷で様子を見ていたが、さすがにそうも言っていられなくなった。
「もうしばしのご辛抱ですぞ」
先に走らせた兵には現状を伝えるよう言ってあるため、
と、馬が突然いなないて足をとめた。
「なにをしておる」
「いや、それが……」
御者はひきつった声をあげて前方を指さした。
みっつの影が闇と同化するようにして立っていた。それは筒状の黒衣をまとい頭巾で顔をかくした、得体の知れない不気味な人影だった。
ふたりの武人はすぐに白刃をぬいて馬車をおりたが、それを見計らっていたかのように両脇から別の影があらわれて、武人の腹を持っていた刀で串刺しにした。
「い、いけ! 馬車を走らせろ……!」
武人は血を吐きながら叫んだ。
御者は悲鳴をあげて馬の尻にムチを打った。
競走馬のような速さで馬が駆けはじめた。
「な、なにものなのだ」
うしろを振りかえった老人はぎょっとした。
三人の影が追いかけてきていた。
馬車とはいえ、馬はかなりの速さで走っているにもかかわらず、影はぐんぐん近づいてきて横に並ぶと、車輪に棒のようなものを突き刺した。
車が宙を舞った。
乗っていた三人は投げだされ、地面に体を打ちつけた。
うめき声を漏らしながら老人が顔をあげると、横たわっている御者に、影が刀を突き刺しているのが見えた。
「太子さま……太子さま!」
老人は太子の姿をさがした。すぐ近く左手側に、太子はうつ伏せで倒れていた。
粗い息をしているのがわかって老人は一瞬だけ安堵したが、目をかっと見開くと頭をおとした。
影は老人の背中から刃をぬいた。
闇夜に浮かぶその姿はまるで幽鬼のようだった。
影のひとりが太子に近づいて手をのばした。
そのとき、茂みの中から光がはしり、何かが影の手を貫いた。
それが小刀だと気づいた影たちは、茂みに向かって身がまえた。
「どこ見てんだ、おい」
その声は茂みとは逆の方からあがった。
あわてた様子で真中にいた影が振りかえった瞬間、その影の体がすさまじい勢いで後方へふっ飛んでいき木に激突した。
さすがに虚をつかれたのか、残りのふたりはしばし呆然としていたが、すぐに気を戻すと、声の主に対して武器をかまえた。
薄汚れた下履きを履いただけの男が、そこに立っていた。
様相からして下民だろうか、しかしその肉体は闇夜でもわかるほど鍛えぬかれており、岩がついているかのように隆々としていた。頭を覆うように巻いている布の下から覗く眼は、強靭ともいえる光を宿しており、人とは思えぬほどの異様な灰色をしていた。
「やっとだ。やっと見つけたぜ」
男は、まるで懐かしいものでも見るかのように倒れている太子を見つめた。
ふたりの影はじりじりと近寄りながら隙をうかがっている。
木に激突していた影もゆらりと起きあがり、おぼつかない足取りで男のほうへ歩いてきた。
「なるほど、ただの輩じゃねえってわけか」
男は不敵な笑みを浮かべると、左手を右腕にあて、すうっとすべらせた。
一瞬だけ、ほのかに光る赤色の文字が右腕に浮かびあがったかのように見えた。
「時間がねえ、まとめてきな」
ふたりの影は同時に動いた。
左は剣をふりおろし、右は突きにかかっていた。
体を左にはしらせた男は、剣を握っている影の手首をつかむと、ふりおろす力を利用して右の影に投げつけた。ふたりの影が重なりあい、さらにその向こうにいる影にも直線状に重なったとき、男の右こぶしが手前の影の腹にむかって放たれた。
ずん、と重い圧が男を中心にして波紋のように広がった。踏みこんだ右足は地面に沈み、右の拳は影の腹に深々ともぐりこんでいた。
「ぐぉ……!」
と、はじめて人とおぼしき声をあげた影は、すぐ後ろにいた影ごと一緒にふっ飛び、さらに少し離れて後ろにいた影までもを巻きこんで木に叩きつけられた。
三人まとめてふっ飛ばした男は手首を軽くふりながら、ふてぶてしい笑みを浮かべている。
影たちは弱々しく起きあがるも、さすがに分が悪いと思ったのか、闇のなかへ姿を消した。
少しばかり意外な顔をした男であったが、やれやれといった様子で太子を肩にかつぐと、転がっていた小刀に目を向け、
「よう、やっぱり礼は言っといたほうがいいか?」
と、茂みのほうに視線を移しながら言った。
「かまわない。むしろ余計なことをしたようだ」
茂みの暗がりから、どこか品のある声がした。
わずかな月あかりのもと、岩の上であぐらをかいて座している男の姿が浮かびあがった。
二十代後半とも思える容姿は旅装束姿で、短い髪に端正な顔だちの、気品を感じさせる男であった。影に向かって小刀を投げたのは、この男であるようだった。
「そうでもねえさ。あいつらの気がそれたのは助かったぜ」
「見事な
それを聞いて、太子を担いでいる男は自信ありげに笑った。
仙氣とは己が宿している
「しかし何者だったのだ。気配からするに、人とも思えぬ風だったが」
仙氣の強さは術者によってさまざまであるが、人間を三人もふっ飛ばすとなれば相当なもので、相手が常人であるなら意識を失っているはずである。
「さあな、知らねえ。それより、おまえはそこで何やってたんだ?」
「国へもどる途中だったのだが、南方で戦がはじまったと聞いてな。どうしたものかと思案していたのだ」
「国はどこなんだ?」
「
「なるほど、それは不憫だな」
男は太子を担いだまま肩をすくめた。
ここから榴へ行くには、南下してまずは梗の国へ入らなければならないが、その道が戦で通れないとなれば柊の国を経由するか、でなければ舟で蓮の湖を渡るしか方法がない。どちらもかなりの遠回りとなる。
「あんたは護衛か何かか。見たところ、その者は王族のようだが」
担がれている太子に目を向けて男は言った。
「護衛か……まぁ、そんなとこだ」
「そうか。病に臥せっているようだな」
「らしいな。体もずいぶんと冷てぇ」
「体が? 気になることを言う。少し見せてもらってもいいか」
男は警戒の色を浮かべた。
「案ずるな、おれは
「氣病だと?」
「顔か手足に熱は出ていないか」
「額はかなり熱い。汗がでている」
やはりな、と岩の上にいる男は低いを声をあげた。
「高熱であるのに体が冷えきっているのは氣病とみて間違いないだろう。すぐに戻って治療した方がいい」
男の顔に浮かんでいた余裕のある笑みが、一瞬にして消えた。
氣病とは、体内を流れる生氣に何らかの不具合が生じて発生する病のことだった。薬で治るような病気は単なる生氣の乱れによるものだが、氣病は生氣の流れに欠陥が生じているため医者では治せない。治療できるのは治癒を専門とする保仙しかいなかった。
「適当なこと言ってんじゃねえ、こいつはまだ十歳かそこらだぞ」
「おかしなことをいう。氣病に年は関係ないと思うが」
「ああ……いや、まぁそうなんだけどよ」
あきらかな動揺が見てとれる。さきほどの豪快な戦いぶりが嘘のようだった。
「おまえは保仙といったな?」
「そうだが、おれに治療を期待するのは無駄だぞ」
「なら、症状を和らげることは」
ふむ、と男はあごに手をやり思案した。
「もし生氣が滞っているのなら、そこに氣を当てて流れを繋いでやれば多少は楽になるだろう。しかし――」
言いかけているとき、近くの茂みが揺れ動いた。
「
茂みの奥から、まるで喉をつぶしたかのような、ひどくしゃがれた声がした。
陸鋭と呼ばれた男は舌をうつと、
「向こうはどうなった」
「敵わぬと思ったのか、姿を消してしまった。ふたりいた武人はともに息絶えている」
それを聞いた陸鋭は、岩の上で座している男に目を据えた。
「おまえ、確か榴に戻る途中だって言ってたな。都はどこだ?」
「
石赤とは榴国の最北、ちょうど界壁に面するようにして広がる都の名であった。
「いい場所だ、ひとつ取引しないか」
男は眉をひそめた。
「ここから梗を介さずに榴へ抜ける道を教えてやる」
「犀から直接……? あるのか、そんな道が」
「ある。それも着く先は石赤だ」
「まさか」
男の驚いている顔を見て、陸鋭はにやりと笑った。
石赤はここからだと東の方角になるが、高々とそびえる
「条件は、その者の治療か。しかしさっきも言ったが――」
「わかっている、症状を和らげるだけでいい。しかし王都の
「やはり、あんたは犀の者ではないのか」
「だとすればどうする。このままここにいて、梗国のやつらにこのことを話すか」
なかば脅すように陸鋭は言った。
しばらく考えていた男は陸鋭に目をむけると、その目を肩に担がれている王族の子供へと移し、
「いいだろう、案内してくれ」
あぐらを解いて岩からおりた。
男の身長は陸鋭よりも顔半分くらい高かったため、陸鋭は少し見上げるような形になって右手をあげた。
「陸鋭だ。訳あって
「
ふたりは軽く手を打ち合わせた。
陸鋭は茂みに目を向けると、
「聞いたとおりだ。おれは、この源と一緒に紅革まで行く。おまえは一足先に戻って、このことを
「承知した。梗猿は近くまで来ているゆえ、くれぐれも気をつけられよ」
声はそういうと気配を消した。
「しかし見られていないとはいえ、嗅ぎまわられるのも面倒だな。どうしたもんか」
「それなら、そこの小刀を置いておけばいい」
荷物を担ぎながら、源はいたずらに笑った。
「あれを? なぜ?」
「旅の護身用に柊国で買ったものだからな。多少の時間は稼げるだろう」
「……なるほど、そういうことか」
陸鋭もいたずらに笑った。
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