明治2年1月中旬 ファーブル家
訓練が忙しいというのは本当のことで、金太郎はもう四日も続けて椿と景の借家を訪れていない。しかし、椿も外泊が続くことになっていた。
椿のお針子の仕事の評判を聞いたあるフランス商人の妻が、和裁を習いたいと言ってきたのだ。通うのも大変だろうからしばらく住み込みでということになり、椿は喜んで承諾した。
「あなたがフランス語を話せるのは知らなかったわ。腕がいいって商人仲間の奥さんから聞いただけだったの。あら、嫌だ、モップなんて持って! 掃除はいいのよ!」
「いえ、お掃除もやらせてください。謝金だけでも十分なのに、マダムの美味しい食事や高価な生地まで頂いてしまっては私の気が済みません」
実はこの夫人はあのファーブル氏の妻であった。ファーブル夫妻はよほど日本人と関わるのが好きらしい。
「そう、じゃあ、お願いするわね。私はお店の仕事や子供の世話があるから助かるわ」
本当のことを言うと、こんな素敵な洋館に住むことができるのに与えられた部屋だけに篭っているのはもったいないという気持ちがあった。箱館山の中腹に建てられた洋館からは港がよく見える。庭まで付いているのだし、せっかくだから隅々まで洋館を堪能したいではないか。
こうして椿は昼間は繕いものや掃除をしたりして、夜になると奥様に着物の縫い方や縮緬細工の作り方を教えた。
「マダム、フランスではいつもこんなレースがたくさんついた可愛らしい色の洋服を着てるんですか?」
洋書調所で見たドレスほど豪華ではないが、椿から見ればここの奥様の洋服はいつでも特別仕様だった。絹の柔らかい布地、襟や袖口のレース、腰の部分できゅっと絞られ飾られたリボン……。淡い鶯色は色白で豊かな黒髪の奥様によく似合っている。
「そうねぇ、だいたいこういう服なんじゃないかしら。でも、夜会の時はもっと飾りつけが増えるわね」
ちょっと待っててと奥様は言って部屋を出ていった。生地にアイロンを当てて待っていると、奥様は両手に嵩張るほどの服を抱えて戻ってきた。
広げられたその服はまさにドレスだった。錦絵で見たものよりもずっとずっと鮮やかな色彩と、触ったら煙のように消えてしまいそうな繊細さが詰まった憧れのドレスがそこにある。
「着てみる?」
「い、いえっ」
椿は頭をぶんぶん振った。裕福だった頃の和装すらすっかり遠ざかっているのに、綺羅びやかなドレスを着るなんて心の準備が必要だ。
「マダムの大切なドレスですから、マダムが着てみせてください」
奥様は意外そうな顔をしたが、椿に手伝わせて快く夜会姿を披露してくれた。
いつか自分も夜会というものに出てみたい。普段の質素な着物を脱いで洋装になったら、金太郎くんはどんな反応をするだろう。
(びっくりするわよね。喜んでくれるかな。自分でも想像できないけど)
この日、椿は美しい生地と装飾品に囲まれた幸せな夢を見た。
そして翌日の朝、よく晴れているのを確認した椿は今日は庭の掃除をしようと決めて外に出た。
この辺りには、箱館山の中腹という見晴らしの良い場所を好む外国人によって建てられた洋館がいくつも並んでいる。江戸の武家屋敷とは全く違う景色は不思議だったが、椿は気に入っていた。
霧が立ち込めていないので、港の様子もよく見えた。アメリカとフランスの軍艦が停泊し、いくつもの貿易船が出入りしている。
奥様はきれい好きなので、あまり乱雑なところはなく、椿は軽く庭の掃き掃除をした後、集めた枯葉を裏の林に捨てに行った。
(あれ、こんなところに小屋がある……)
外国人の男の背丈よりも高く、広さは六畳くらいの木材の小屋は最近使われたらしく、周囲に複数の人物の足跡が残っていた。
もしファーブル家のものならついでに掃除をしておこうと椿は考えて近づいた。
何気なく引き戸に手をかけたが鍵が掛かっていて動かない。
(誰かの部屋ってわけじゃないわよね。物置小屋かしら)
椿は単純な好奇心からぐるっと一周してみた。そして、横の壁の椿の膝の高さの辺りにちょうど壊れた部分を見つけると、椿は屈みこんで穴に額を押しつけた。
真っ暗で何も見えないのではと思ったが、天井や上方にもいくつか穴が開いているため、かろうじて内部が見えた。よく目を凝らした椿は息を呑んだ。
(銃だわ……)
小屋の壁際に大量の銃が立て掛けられている。先日、砲術演習場で見かけた砲弾というものも床に並んでおり、椿は背筋が寒くなった。
反射的に小屋から離れると、何事もなかったように洋館の庭に戻り、深呼吸を数回繰り返す。
私的な洋館が立ち並ぶ場所に、まさか幕府の陸軍の武器庫があるとは考えられない。ではあの大量の武器は誰の管理下にあるのだろう。確か外国からもたらされる物品は、運上所で監督を受けて、運上金が課されたりするはずだ。しかし、明らかに戦に使用するような武器弾薬の類がたくさん持ち込まれることはあり得ない。
(マダムに尋ねるのはちょっと怖いな……。何か訳があるのかも)
夕方までは奥様はここから離れた港に近い弁天町のお店に出ている。椿は掃除道具を片付けると、急いで砲術演習場に向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます