明治2年正月 椿と幕府軍

 新年の諸行事が終わると、正月の余韻に浸る間もなく軍事的な態勢固めが再開された。陸軍は四つの連隊に編成され、一が属する新選組は第一連隊の中の第三小隊として組み込まれた。

 海軍に関してはアンリが引き続き訓練を監督し、フェリックスは新たに防衛施設工事の指揮を任され五稜郭を離れた。

 市中はいたって平穏そのものだ。仮政権の行政が大きく崩れなかったことから、控えめだった流通は元に戻り、正月の明るい雰囲気も手伝って市街地は活気を取り戻している。

 そういうわけで、ありがたいことに椿のお針子の仕事も途絶えることなく続き、今日はフランス領事関係者の家族から繕い物と仕立ての注文を受けてきたところだ。

(仕立ての注文は本当に助かるわ。まとまった収入になるし、気に入ってもらえると異国の珍しいお菓子や小道具をいただけるし)

 これまでにも椿は外国人の客から、帰りがけに駄賃として食材をもらったりしていた。

 市街地から五稜郭方面へ向かう途中に、砲術演習場はあった。行きに見た時には訓練の最中だったが、今、通りすがりに様子を見てみると休憩時間のようだった。

(金太郎くん、いるかな……)

 邪魔になりそうだったらすぐに帰るつもりで垣根の隙間から覗いてみると、後ろから声を掛けられた。

「マドモワゼル・椿じゃないか。田島くんを探してるんだよね?」

 驚いて振り向くと、大鳥陸軍奉行が微笑んでいた。

「こんにちは、大鳥さん。お休み時間なのかと思って……。でも、ご迷惑なら帰ります」

「いやいや、中へどうぞ。田島くんなら、あっちの大砲の横にいるよ」

 そう言って大鳥は椿を手招きして歩いて行ってしまう。陸軍奉行が許してくれるならと、椿は慌てて後を追った。

 伝習隊を率いてきた大鳥は一時期、椿の勤め先であった洋書調所――すぐに開成所という名に変わった――の教授を兼ねていたこともあり、互いに顔は見知っている仲だった。それがこんな形で再会するとは思ってもいなかったが、ともかく大鳥は椿が知っている頃から変わらず、優しくて大らかで笑顔を絶やさないお兄さんのような男だ。

 金太郎は椿が陸軍奉行に連れられてきたことに一瞬驚き、ぎこちなく微笑んだ。なんとなく気まずい。自分の隣には土方陸軍奉行並もいるし、たまたま見学に来ていた海軍士官の東三郎だっている。

(大鳥さん、空気読んでくれよ……)

 金太郎の悪い予感は当たった。

「噂には聞いてたが、可愛らしい娘さんだな、田島。責任持って面倒見てやれよ」

 整った顔立ちの土方が面白そうににやにやと笑っている。大砲の台にもたれ掛かって立っているだけでも様になっていて、椿は土方に見惚れていた。金太郎はそれも面白くなかった。

「椿ちゃん、だっけ? 田島のこと、頼んだよ。砲術の腕は悪くねぇんだが、思い詰めちまう性格でな」

「はい……」

 かつて薩長の横暴から京を守っていた新選組の副長から金太郎を任せたと言われて、椿の胸はドキドキと高鳴った。

 新選組の名は江戸にも聞こえており、土方副長と言えば、泣く子も黙る冷酷な男として知られていたから、こんな風に笑顔で優しい言葉をかけてもらえたのが信じられない。

 鼓動が速まると急に呼吸が苦しくなり、椿はこほこほと咳き込んだ。深く息を吸おうとして一瞬、意識が遠くなる感覚がして上半身が後ろへ引っ張られた。

「まぁ、田島くんに女の子を守る余裕があるとは思いませんけどね」

 不意に冷徹な声が聞こえた。椿の体を支え、値踏みするように見ているのは東三郎だ。

「風邪なら早く暖かい部屋へ戻った方がいいですよ」

「ありがとう」

 東三郎は椿から両手を離すと、姿勢を正して軽く頭を下げた。

「失礼、お嬢さん。僕は佐藤東三郎と申します。田島くんと同じ通訳も担当しているんですが、僕は英語でね」

 そこで挨拶を止め、東三郎は椿の耳元に顔を寄せて囁いた。

「田島くんはフランスに心酔しているみたいだけど、これからは大英帝国の時代ですよ。僕はきっと日本をあの帝国と並びうる国にしてみせる」

「おい、佐藤。その辺で止めておけ。田島が殺気立ってるぞ」

 土方に窘められた東三郎は「わかってます」と答えると、体を離す間際に椿の頬に軽くキスをした。一瞬のことだったので、気づいた者はいないだろう。

「じゃあ、椿さん。よかったら今度はゆっくりお話しましょう」

「え、あのっ……?」

 椿は顔を真っ赤にしてうろたえているが、東三郎はまたいつものポーカーフェイスでその場を去っていった。

 金太郎はもやもやした気持ちの原因がどこから来るのかよくわからなかった。

 東三郎から小馬鹿にされたことに腹が立ったし、椿も椿だ。土方陸軍奉行並に目が引かれるのはともかく、東三郎にあんなにひっつかれても抵抗しないとは。そして何より、椿が会いに来てくれたのに、すぐに嬉しいことを伝えなかった自分に嫌気が差した。もう心の中はぐちゃぐちゃだ。

「椿、俺さ、しばらく砲術の訓練とかで忙しいから。もう休憩時間も終わるし」

 せっかく来てくれたのに、また素っ気ない言葉しか出てこない。椿は風邪を引いているらしく、それも気がかりだが側にいてやることもできない。どうしようもないなと金太郎は絶望的な気持ちになった。

 だが、椿は素直に頷き、大鳥と土方にも挨拶をして、金太郎に手を振った。

「がんばってね、金太郎くん!」

 薄曇りの空の間から射し込む日の光が、椿の後ろ姿を照らした。

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