第3章
慶応4年12月 アンリとフェリックスの入隊
オテル・キャトルセゾンの騒動から十日ほど経ったある日、長屋暮らしの四人は五稜郭の一室で直立不動で前を見つめていた。
アンリとフェリックスが前列に並び、金太郎と一は後方に控えている。彼らの目の前には、荒井海軍奉行、大鳥陸軍奉行、土方陸軍奉行並、ブリュネ、そしてブリュネの部下のフランス人下士官四人が立っていた。静粛な雰囲気ではあるが、若者たちへの眼差しは厳しいものではない。
「本日付で、アンリ・ニコール及びフェリックス・ウジェーヌ・コラッシュを、徳川脱藩家臣の一員として認める。共に戦おう」
ブリュネの宣言は、少年たちの頬をほころばせた。
アンリとフェリックスの日頃の真面目な働きぶりと日本語力の上達度合を鑑みて、仮政権の幹部たちは予定よりも早く正式に二人のフランス人を受け入れることに決めたのだ。ただし、軍服を着用しないという条件つきだった。
彼らは三人の軍幹部一人ひとりと握手を交わし、始まりの時と同じように敬礼をすると、部屋を退出した。
「おめでとう!」
「軍服は着ないことになってるけど、やることは軍事なんだろ?」
「そう、俺は海軍の編成を任されてて、フェリックスは要塞工事をね」
「なんとか雪解けの時期までに戦える状態を作らないと。五稜郭の改修工事も全然終わってないし、箱館そのものもまだ無防備なんだよなぁ」
アンリたちが正式採用されたことに伴って、住居も鶴岡町の小汚い長屋から五稜郭付近の兵営に移ることになった。一だけは市中にある新選組の広い屯所暮らしになってしまったが、それは仕方がない。
椿はというと、すっかり仲良くなった景の借家に一緒に住んでいる。あの長屋はひどかったから、椿の引っ越し先が見つかってよかったと金太郎は安心した。
景は勤め先からそれなりに給金を貰っていて、椿の日常生活の面倒くらい任せなさいと言ってくれている。奔放な振る舞いの景は、実は姉御肌で椿を妹のように思っていた。椿は彼女の好意に甘えつつ、今まで通り、市内を巡って裁縫の仕事を請け負って生活費を稼いだ。
大晦日の夜、六人は五稜郭付近の蕎麦屋で年越し蕎麦を食べた。
仮政権の財政は危機的で、豪商から芸妓に至るまで上納金を徴収しているのだが、年末になっても下士官以下への給金はないに等しく、こうして蕎麦を啜るのが精一杯だ。
「本当に冬が終わったら、あいつら攻めてくると思うか?」
「榎本総裁の嘆願書が拒否されるってことは、そういうことだろ」
一の疑問を、金太郎は遠まわしに肯定した。
徳川家による蝦夷地開拓の嘆願書は英仏公使館を通じて朝廷の岩倉卿に手交されたものの、蝦夷地に逃げた徳川の残党軍は新政権にとって目の上のたんこぶみたいなもので、到底受け入れられる存在ではないのだ。幹部の近くで翻訳作業を担当している金太郎は、新政府がこちらを討伐する兵を着々と整えているという情報を耳にしていた。
おまけに榎本総裁が頼みにしていた諸外国はつい先日、局外中立の立場を撤回すると通告してきている。
「場合によっては、イギリスやアメリカが新政府軍に手を貸すかもしれない」
「要するに、俺たちってものすごい不利な状況に追い詰められてるってこと?」
外交問題に疎い一に説明すると、一は頭を抱えて呻いた。
「榎本総裁がオランダから率いてきた開陽丸が座礁してしまったのは予想外だったな。でも、まだ使える軍艦はあるし、そのために海軍出身の俺とフェリックスが訓練を任されてる」
「ああ! そもそも薩長が独占してる今の王政なんて、インチキじゃねぇか。榎本総裁もそう言ってただろ」
暗鬱たる気分を払拭しようと、一は天ぷらを注文した。どういうわけか、一は常に無一文状態なので、こういう時、支払いは景がしてやることになる。
「もう! 少しは遠慮ってもんがあるでしょ、一くん」
「これでも申し訳ないと思ってるんだよ。俺たちが新政府軍に勝って徳川様の世の中になったら、ちゃんと給料ももらえるようになって、お景ちゃんの好きなもの買ってやれるようになるからさぁ」
職業柄、政治の話にも日頃接している景にはわかっていた。一は楽観的な見通しを言っているが、仮政権の置かれた状況は相当厳しいということを。
あらゆるところから金を集めようと躍起になっている仮政権は、実は箱館の住民からの評判があまり良くない。何をするにつけても金が徴収されるのはかなわんと、お座席に来る商人たちがよく愚痴をこぼしている。だから、いきなりやってきた徳川脱藩家臣団の戦に住民が協力的とは限らないのだ。敵対勢力だって潜んでいるだろう。仮政権が探索役を設けて密かに摘発を行っているというのは周知の事実だった。
それに、少し前のことだが、景は土方陸軍奉行並が武蔵野楼の座敷で連れの者たちに、こう言っていたのを聞いている。
――俺は最後まで幕府のために戦う。いつでも勝つつもりで戦ってきたし、これからもそうだ。だが、島田も相馬も覚えておいてくれ。幕府のために戦った先に、夢のような世界が待ってるとは限らねぇ。
たぶんこの人は、雪解けに待ち受けている戦いに勝ち目はないと思っているのだろう。でも、部下の士気に関わるから、はっきりとは言わなかったのだ。
景は新選組隊士の一が命懸けで戦ってきたことを知っている。だから、次の戦も死ぬ気で戦うことは目に見えている。ずっと仕えてきた幕府に対する忠義が並々ならない男だから。
景は一を失うのが怖くて仕方がなかった。いつまでも一緒にいたいと思うのに、将来が怖くて逃げたくなる。一ではなく、誰か別の、死とは無縁な男の元に走った方が幸せなのではないかと迷ってしまう。
自分と同じくらい自由気ままな一を、愛おしいと思いながらも反発したい気持ちになるのは、突然幸せが奪われてしまうのではないかという恐怖のせいだ。
「勝ったらみんな幸せになれるのね? 早くそんな時が来ればいいのに」
物思いに耽る景の耳に、椿の朗らかな声が飛び込んできた。少し酒を飲んだらしく、椿は頬を赤く染めて金太郎の腕に寄り添っている。
「フランス軍が鍛えてくれたんだもの。幕府軍が強いのは決まってる。私ね、蝦夷地が自由と平等と友愛の土地になったらすごく素敵だと思う。蝦夷地のあらゆる場所に葵の御紋とトリコロールを掲げるのよ。金太郎くんは、そうね……大鳥陸軍奉行の跡を継ぐんだわ」
「随分な出世だな」
金太郎は椿が語る未来にこそばゆい気持ちで苦笑した。
椿はどこまでも金太郎と仮政権の強さを信じている。彼らの陸軍と海軍の勝利を信じて疑わず、蝦夷地に訪れるべき華々しい行く末までも描いていた。
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