慶應4年12月15日 オテル・キャトルセゾン

 箱館市街はたいそう賑わっていた。幕府軍の上陸で流血戦が想定されたが、実際には街まで災禍が及ぶこともなく、行政や貿易については今まで通り引き継がれていたし、箱館の人々は年末に向かう時期を普段と同じように過ごしていた。

 今日は盛大に仮政権樹立を祝う日とあって、どの店も飾りつけを派手にし、煌々と提灯をぶら下げて、客を呼び込んだ。

 金太郎は椿の手を引いて雑踏の中を分け進み、外国人が好む店の集まる一角に向かった。

「ちょっと寄り道しよう」

 二人は小さな装飾品店の前で立ち止まった。何も身に着けていない椿は十分可愛らしいのだが、金太郎としては椿にも少し飾って今日のめでたさを共有してもらいたかった。

そこで簪を買ってやろうと思ったのだ。ざっと値を見てみたが、有り金が底を尽きてしまうくらいの高値だった。それでも簪は椿に必要だと思った。金くらい後でどうにか工面すればいいだけの話じゃないか。

「ほらよ、椿」

 ずいと差し出された鮮やかな色合の簪は、何年も侘しい暮らしをしてきた椿には一際輝いて見えた。凝った細工が施されているわけではないが、先端の漆黒のガラス玉に椿の絵が描き入れられているもので、まさに彼女のために作られたような飾りである。

「素敵ね……。ありがとう」

 長らくこんな上等な簪を持っていなかったから使うのが躊躇われてしまう。椿は商売が繁盛していて何でも買い与えられていた頃を思い出しながら、結い上げた髪に丁寧に簪を挿した。

「そのうちもっといいヤツ買ってやるよ」

 目的地へ急ぎ歩きながら、さっきから金太郎はしかめ面をして椿を見ている。

「どうしたの?」

「幸せすぎて気味が悪くてさ」

 金太郎は椿の眩しい笑顔に視線を逸らした。

「幸せ?」

「……そうだよ。おまえは?」

「すっごくね!」

 ロシア教会が見える通りを少し過ぎた辺りに洋食屋オテル・キャトルセゾンはあった。二階が宿泊施設になっているため、オテルという名前がついている。ここも今日はいつもよりも客入りがよく、金太郎たちが到着した時には既に満席だった。

「おーい、こっちだ、金ちゃん!」

「待たせたな」

 金太郎の隣に色白で癖毛の見知らぬ少女が立っている。六つの好奇心に満ち満ちた視線が向けられると、椿は慌てて軽く頭を下げた。

「こいつ、椿ってんだ。俺たちの長屋の隣に住んでるお針子。女だけど、俺たちと同じ志を持ってるんだぜ」

仲間が増えるのは嬉しいが、恋人と喧嘩別れしてしまった一にしてみれば、堅物の金太郎がいつの間に可愛らしい娘を手に入れて連れてきたことはちょっと癪に障った。

「ようこそ、箱館政権へ! チクショウ、金ちゃんは隅に置けねぇなぁ」

「うるせぇ。こいつは佐々木一、新選組の隊士だ。で、こっちはアンリとフェリックス。椿はフランス語がわかるから仲良くできると思う」

 ひゅーっと、一は口笛を鳴らした。愛らしい上にフランス語もできるなんて、ますます金太郎許しがたし……。

 物腰の柔らかいアンリはすぐに立ち上がって侍のようにお辞儀をしてみせた。

「椿姫、こちらの席へどうぞ。俺たちの合言葉は『自由、平等、友愛』なんだ。だから箱館政権はお嬢さんも歓迎するよ」

「全くその通り! ワインでいいかな?」

 フェリックスは椿にワイングラスを手渡し、テーブルを見回した。そして、各々がグラスを掲げると乾杯の音頭を取った。

「ヴィヴ・ラ・メゾン・トクガワ! ヴィヴ・ラ・フランス!」

「箱館政権の勝利を祝って――」

「乾杯!」

 テーブルの上は祭りだった。鹿の燻製、牡蠣のワイン蒸し、オムレツ、サラダ、フランスパン……。椿には全てが初めての味覚だった。洋書調所で働いていたけれども、実際に西洋の食べ物を口にすることはなかったからだ。

「で、椿姫。こいつから何かもらったの?」

「うん。簪をね。金太郎くんは私のほしいものがわかるのよ。こんな風に大切にしてもらえるなんて嬉しいわ」

「うっわー。俺、今、長州の不逞浪士に斬り殺された方がマシって思っちゃった」

 悪気のない椿の惚気に、一はテーブルに突っ伏して恨めしそうな視線を金太郎に向けた。

「まぁまぁ、一。そんなに気を落とすなよ」

「愛の女神は気まぐれだからさ」

 アンリは苦笑して、かわいそうな盟友のためにパイを切り分けてやった。さきほどから店のステージでバイオリンとピアノの二重奏が始まり、食事に華やかさが加わった。椿は隣の席を空けてくれたアンリに訊ねた。

「ねぇ、どうしてフランス人が徳川様を助けようとしてるの?」

「簡単なことだよ。フランスはずっと幕府を助けてきた。金太郎の伝習隊はフランス陸軍のやり方を倣ってるし、新選組だってフランス式の戦い方なんだよ」

「それだけじゃない。俺たちは自分たちの意志で幕府の味方であることを選んだ日本人の高潔な態度に、大いに感銘を受けた。南の勢力の奴らは卑怯だよ。イギリスなんかと手を組んで正当な幕府を追い詰めてさ」

 フェリックスは殊の外イギリスが嫌いのようで、何かにつけてイギリスがフランスのやることを妨害していると考えていた。

 金太郎がフランスパンを噛りつつ話に加わる。

「椿、箱館政権がどうして仮政権なのかわかるか? いずれ天子様が俺たち徳川家臣団に蝦夷地開拓を任せてくださるとお許しくださったら、徳川家からしかるべき御方をお迎えしてちゃんとした統治機構を作るからだ。でも、今までのように出自で人生が決められることはない。農民の出だったとしても、入札で一番の信任を得たら、そいつが総裁になることだってできる。俺たちは誰かのためじゃなく、自分たちのために統治をして、豊かな暮らしを得る。それが俺たちの目指す蝦夷地の政権さ」

 熱心に語る金太郎の瞳は生き生きと輝いていた。

椿には難しい言葉ばかりでよくわからなかったが、金太郎たちが何か新しい仕組みを作ろうとしているのだということは理解できた。

「本当は日本一国の中で二つの勢力に分かれて争うなんて馬鹿げてるんだ」

 金太郎は椿のグラスにソーダ水を注ぐ。橙色の明かりに照らされて、細かい水泡が黄金色に立ち上っていった。

「早く平穏を取り戻して、外国に日本が文明国であることを示さなきゃいけねぇ。そうでなきゃ、外国から笑われちまうんだ。こんな恥ずかしいことはねぇよ」

「おい、椿姫がきょとんとしてるぜ。難しいことは今は止め止め! 金ちゃんの悪い癖だ」

 一は苦笑して、まだまだ続きそうだった金太郎の熱弁を遮った。

 残りのワインを飲み干そうとした一は、店の入口に見てはいけないものを見つけ、激しく動揺した。

「俺はもう毒をあおりたい……」

「え、どうしたんだよ?」

 呆然とした一を見たフェリックスが訊くと、一は視線を店の入口にやった。

 ビロードの赤紫色の洋装に身を包んだ日本人の娘が、背筋を伸ばし、つんと澄ましながら店内に入ってくるところだった。うっすらと浮かべた笑みは挑発的で媚を含んでいる。それが意識的なものなのか自然なものなのかはわからない。

 彼女に目を留めた客たちがざわついているのが、遠目にもわかる。娘の後ろには、両手に荷物をめいっぱい抱えた外国人の中年男がひいひい言いながらついていた。荷物持ちなのかと思ったが、その男の身なりはかなり良い。しかし、高価な生地を使った派手な服はあまり趣味が良いとは言えない。「おいこら、どきたまえ!」などと言いながら進む態度は横柄そのものだ。

「あれはマドモワゼル・ケイだよね?」

 アンリが呟くと、金太郎は頷いた。一の元恋人であり、武蔵野楼の人気の芸妓である。今更ながら、弁慶みたいに図体がでかくお調子者の一がどうしてあんな華やかな美人を五稜郭占拠後早々に捕まえたのかと思わずにいられない。

「ピョートル、遅いわよ! あたし、歩き回ってくたくたなんだから」

「いやはや、わしも疲れた……。予約した席があるだろう。ほら、そこだ」

 ピョートルと呼ばれた男は、箱館に長くから貿易商として住んでいるロシア人で、強引な商売で随分と懐を豊かにしているらしい。

 一と別れた景はそんな金持ちの外国人と付き合っているのだった。

「ロシアの商人か。あの国も油断ならねぇからな。ロシアの餌食にならねぇうちに蝦夷地の守りを固める必要があるぞ」

 深刻な顔つきの金太郎の隣で、一は悪態づいた。

「あの女狐、洋妾らしゃめん……!」

 どういう状況が起きているのか椿にはなんとなく把握できた。

「とても素敵な服だわ。ねぇ、何ていう子なの?」

 金太郎が答える前に、一が忌々しげに吐き捨てた。

「花森景。誘惑という国からやってきた妖婦さ」

 金太郎と二人のフランス人はやれやれと肩をすくめた。

 一方、元恋人と友人の姿を見つけた景は憤慨していた。

(どうしてこっちを見てくれないのよっ! でも、一くんはほんの一瞬、あたしを見た気がする)

 それなのに、一は頑なに景の方に顔を向けようとはしない。のろまなピョートルに辟易していた上に、一のそういう態度がますます景をイラつかせた。

(臆病者! 何が新選組隊士よ、笑っちゃうわ。いつも威勢のいいことばかり言うくせに)

 景は思い切り息を吸い込んだ。そして、テーブルの上に重ねて置かれていた取り皿を掲げて店の女中を呼ぶ。

「ねぇ、このお皿、汚れがちゃんと取れてないじゃない!」

 パリンと乾いた音が床に響いた。生演奏が一瞬止まり、そしてまた再開された。

 ピョートルは慌てふためいて景をたしなめた。

「いかんいかん。店の皿を割って、わしに恥をかかせるな! 落ち着け。そうだ、追加で料理を注文しよう」

「あたしが選ぶわ。お品書きを寄越しなさい。あたしはあたしの好きなようにするの!」

「大きな声を出すんじゃないよ」

「あたしに指図しないで」

 割れた皿が片づけられてしまうと、景はメニューを読むふりをして一たちのテーブルの様子を伺った。相変わらず、彼らはこちらを気にすることなく飲み食いし、歓談している。

「あんたはあたしを見てないでしょ!」

 思わず景は一に向かって大声を上げたが、自分に言われたと勘違いをしたピョートルが「いつでもおまえを見ているよ」と答えると、聞き耳を立てていたアンリとフェリックスが笑いを噴き出した。

「シュペール!」

「日本に来て初めてのコメディーだな」

「椿、頼むからおまえはあんなことしないでくれよ」

「どうして? 私はしないわ。他の誰かを旦那様にしたいと思わないし、私は金太郎くんのものよ」

 椿は金太郎に微笑むと、次に一に憐みの視線を向けた。かわいそうに、冷たくあしらおうとしているのだろうが、心はとっくに景の方に向いていることがありありと伝わってくる。

「大好きなのね、お景さんのことが」

 椿が景を見やると、ちょうど彼女と視線がぶつかった。かわいそうなのはこの美人も同じ。

 すると景は意を決したように立ち上がり、ピョートルに向けて話を始めた。だが、それは実際にはピョートルに聞かせたいわけではなく、一に当てこするような内容だった。

「あんたよく知ってると思うけど、あたしが街を歩くとみんなが振り返るの。だって、武蔵野楼の華と言えばこのあたし。頭のてっぺんから爪先までじーっと見たくなるでしょう?」

「お行儀よくしてくれ、子猫ちゃん」

「嫌よ。あんたが苦しい思いをしてるのはわかってるわ。あたしに飛びつきたいってこともね。切腹した方がマシって思ってるんでしょう?」

 腕組みをして景に背を向けている一は舌打ちをした。だが、語りかけられているピョートルは「わしはハラキリなんてごめんだよ。座りなさい」と答え、それがまたアンリとフェリックスを笑いの渦に巻き込んでしまった。

 金太郎は椿にささやいた。

「あいつ、お景ちゃんに惚れてたんだ」

「お景さんもきっとそうよ」

「でも、俺たちは貧乏だから、お景ちゃんはあのロシアの金持ちに鞍替えしちまった」

 笑いを堪えたフェリックスは成り行きを見守り、しみじみと呟く。

「これはもう降参するしかないな」

 一はこの場から離れようと立ち上がったが、その時、後方から景の鋭い叫び声が響いた。何事かと振り返ると、景は床にうずくまっている。

「痛っ」

「どうしたんだね?」

「足が痛いの。あんたがくれた靴が合わなかったみたい。ああ、痛くて死にそう!」

「それはいかんな。見せてごらん」

 ピョートルが慌てて景の足を探ろうとすると、景はその手をぴしゃりと払って、美しい形をした足をわざと一に見えるように掲げた。ビロードのドレスの裾から覗く足は色気に溢れ、一の目を釘付けにしてしまった。

(あのロシア野郎、お景ちゃんの足に触んじゃねぇっ……)

「もうこの靴は履けない。ピョートル、これより大きい新しい靴を買ってきて! 今日は何でもあたしの言うこと聞くって言ってたじゃない! お願い!」

 景は片方の靴をピョートルに持たせた。

苦痛で眉を寄せた美しい娘に懇願されたピョートルは、周りの視線を気にしながらも女王様のお願いを実行すべく、疲れた足を引きずってオテル・キャトルセゾンを出て行った。

 邪魔者が去ったのを見届けた景は顔を上げて一の姿を探した。

「お景ちゃん!」

「一くん……」

 景は一の重さに押し潰されそうになりながら、彼の名前を呼んだ。一は床に座り込んでいる景を思い切り抱き締め、悪態をついた。

「馬鹿な女だな。あんなじじいにおまえが守れるかってんだ!」

「一件落着っと」

 金太郎が友人の幸せを確認しほっと溜息をついた時、アンリが気まずそうに勘定表を差し出してきた。

 目を疑うような金額だ。

「やべぇよ、誰だ、高級ワインなんて頼んだ奴!? 俺たちこんなに食ってたのか……」

 いくらアンリとフェリックスが割増で日給を得たと言ってもたかが知れている。金太郎の財布の中身は椿にあげた簪に変わってしまったし、どうせ一は財布すら持ってきていないだろう。

 仲間たちが蒼白になって勘定表を覗き込んでいると、一はにやりと笑ってそれを取り上げ、景が座っていたテーブルにおもむろに置いた。

「ロシア人は気前がいいらしいぜ! そうだろ、お景ちゃん?」

「そうよ。特に、ピョートル・アレクセイエフ商店は羽振りがよろしくていらっしゃるわ。ほほほ」

 なるほど、ピョートルに支払わせるというのは名案だ。よりを戻した二人はしたり顔で女中に事情を説明した。

「あいつが戻る前にお店を出ましょ」

「ああ。……新選組が来たよ。後ろについて帰ればピョートルが俺らを見ても何も言えないさ」

「そりゃいい考えだ!」

 オテル・キャトルセゾンが面した通りを、浅黄色の羽織の隊士たちが通り過ぎたのが見えた。今日は蝦夷地に来てから初の巡察の日で、一番隊の担当だった。

「お景ちゃん、おぶってやるよ」

「うん!」

 片方の靴を手放してしまった景は、おとなしく一の大きな背中に身を預け、金太郎と椿は笑みを交し合った。

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