慶應4年12月15日 仮政権樹立

 十二月になると、幕府軍の幹部たちは蝦夷地に仮政権を作る方向で動いた。従前から幕府軍は天皇に対し、徳川家による蝦夷地開拓の許可を求めてきた。そして許可が下りるまでという期限付きで十五日に仮政権を樹立し、前日にそれを箱館に駐在している外国の領事たちに向けて伝えることになった。

 金太郎は榎本から宣言書の草案を渡され、翻訳作業のため五稜郭の執務室に引きこもった。今朝から粉雪が降り始め、窓枠に雪が張り付いている。

「えーっと、『我々は蝦夷全島を事実上、我々の占有としたことを厳かに宣言しようと思います』。次は……」

「おい、君。少し黙ってくれないか。気が散る」

 向かいの席から東三郎の苛ついた声が飛んできた。

「ごめん」

 素直に謝り、金太郎は作業を続けたが内心では競争心が燃えていた。

(あー絶対こいつには負けたくねえ。言語は違うけど、俺の訳文の方が勝ってるんだからな)


 十二月十五日、青い空の下、奉行所の前に徳川家の御紋とフランスの国旗が掲げられ、蝦夷地領有宣言式が行われた。

 同時に役職を決める投票もあり、榎本が総裁に選出された。

「今頃、船上でお偉いさんたちは飲めや歌えや、騒いでるんだろうな。芸妓たちもたくさん来てたぜ」

「いいじゃねぇか。鳥羽伏見の戦いからここまで来られたのも、あの人たちの苦労があったからこそだぜ。俺みたいなのを通訳に取り立ててくれたし」

 昼間の式典には出席していた金太郎と一は、夕方になると寒々とした長屋に戻り、甘酒をすすっていた。

「そういや、新選組は市中取締の任務になったんだろ?」

「おう。俺は三番隊だから明後日からな」

 こうやってごろごろしている一だが、甲州勝沼の戦いでは敵陣に斬り込んで生き残った猛者である。

「なぁなぁ、金ちゃん」

「ん?」

「さっきから何書いてんの?」

 かじかむ手をなんとか動かしてペンを走らせている金太郎の横から一が覗き込む。

「万国公法を和訳してるんだ。大鳥陸軍奉行がなるべくみんなに万国公法を理解してほしいって言ってたからさ」

「ばんこくこうほう……」

 初めて聞いた単語に、一は首を傾げた。どんな漢字を書くのか見当がつかないと言うと、金太郎は余白に四文字の漢字を書いてみせた。

「簡単に言えば、全ての国が守らなきゃいけない公式の規則だよ。西洋諸国はこの規則に従って他国と付き合ってる。守らない国は野蛮だって思われちまうんだよ」

「ふーん」

 説明を聞いて満足したのか、一はそれきり黙って干し芋を口に放り込んだ。そして、フェリックスのスケッチブックの空白のページに落書きを始めた。ペンが紙をこする微かな音だけが部屋に響く。

 しばらくして、金太郎が大きな溜息をついた。

「寒いな。冷えすぎて手が動かねぇや」

 悲しいことに、火鉢の炭を潤沢に買う金がない。江戸から脱走してきた幕府軍の財政は厳しく、今のところ給金はあってないようなものだ。

「金ちゃん、俺のふかーい心のうちを明かそう」

「なんだよ」

「寒い。とてつもなく寒い」

「俺もだ」

「凍えちまうね。俺の指先は永遠にお景ちゃんの心という氷水に浸ったままだ」

 突然詩人と化した一は床に大の字に寝転がった。お景ちゃんというのは箱館で最も栄えている妓楼・武蔵野楼の芸妓で、幕府軍が箱館を制圧してすぐに一と付き合うようになった娘である。

 夜の道端で酔ったどこかの国の船員に絡まれているところを、一が助けたのをきっかけに良い仲になったらしい。しかし、あっという間に喧嘩別れしてしまったのだ。

「何で別れたの?」

「……尻軽女だから」

「でもさ、芸妓なんだから客に愛想良くするのは仕方ねぇよ」

「それも限度があるだろ! 寒いな。ああ、くそ!」

 悪態をついているが、一が景と別れたことを後悔しているのは明らかだった。

「……いいことを思いついた。火がありゃいいんだろ」

 金太郎は少しでも惨めな状況を打開しようと、手元にあった万国公法の和訳の紙をぐしゃっと丸めて、消えかかっている火鉢に投げ入れた。

「金ちゃん! それ燃やしちゃダメだろ!」

「いーや、今の俺たちには文明よりも原始的な火が必要なんだ。……第一章。…………第二章」

 金太郎は原稿を丸めては火鉢にくべていく。小さいながらも勢いを増し不規則に揺らめく炎を、金太郎と一は無言で見つめた。

「まだ寒いな。お景ちゃんのぬくもりが恋しいぜ」

 第三章が丸められようとした時、戸口の開く音がして、金太郎は振り返った。

「アンリ、フェリックス! お帰り」

「寒くて死にそうだ! 冬のパリも寒いけど蝦夷地はどうなってんだ」

「あれ、それって金太郎ががんばって訳してたドロワ・アンテルナショナールじゃないの? 燃やしちゃったの?」

「そうさ、法は我らを暖めてはくれぬ」

「で、どうだった? 戦利品は?」

 アンリたちはまだ仮政権の一員として認められていないので、いつものようにファーブル氏の店で働いていた。

 しかし、今日が仮政権発足の祝いの日であることは箱館の外国人も知っており、ファーブル氏は二人の日当に上乗せしてくれたらしい。

「まぁ、戦利品はないけど懐が暖かくなったかな」

 アンリが給料袋を掲げて見せると、一は大袈裟に土下座をして感涙にむせんでみせた。

「ありがたやありがたや……。お代官様のお恵み、この佐々木一、ありがたく頂戴つかまつります!」

 するとアンリはどうだと言わんばかりに上体を反らし、フェリックスも調子を合わせる。

「この方をどなたと心得る。恐れ多くは……も?」

「うん。恐れ多くも、だよ」

「恐れ多くもアンリ・ニコール様でござる!」

「ははーっ」

 金太郎と一が床に突っ伏すと、しかめ面をしていたアンリが弾けるように笑った。

「フェリックス、おまえ、段々と侍っぽくなってきたぞ」

 一はフェリックスの頭から爪先までまじまじと眺めて感心した。ここ最近、フェリックスはなんと和装で過ごすようになったのだ。幕府軍の男たちは近代戦に適応するためもうだいたい洋装に切り替わっているというのに、フランスの若い軍人が袴を着て足袋と草履で歩く姿はなんだか不思議だ。

 だが、フェリックスは和装を気に入ったようで脱ごうとはしない。

「それはそうと、今日はお祝いの日だよ。街はすごくきれいに飾られてた。いい匂いも漂ってたし」

「じゃあ、決まりだな。俺たちも外で美味いもん食おうぜ。下っ端だって晴れの日を祝いてぇんだからさ!」

 それぞれがコートを着込むと、金太郎は何か思い出したように机に向かった。

「悪い、先に行っててくれ。ちょっと実家に出す手紙が書き途中だった。五分で終わる」

「ダコール。じゃ、いつものオテル・キャトルセゾンに向かうよ」

 三人が出てしまうと、金太郎は机の上の辞書や書類を脇にやり、胡座をかいて座った。外ではフランス語の会話とそれを真似する一の声が聞こえ、遠ざかっていった。

 手紙の末尾に署名を書き入れた時、戸口を叩く音がした。

(誰だろう……)

 金太郎は立ち上がって土間に降りた。

 そして、外から聞こえたか細い声に息を呑んだ。女の子の声だ。

「エクスキュゼ・モワ……? パルドン?」

(どうしてフランス語が……)

 フランス人でも訪ねてきたのかと思って戸を開けると、小柄な日本人の娘が立っているではないか!

「あ、日本の方だったのね。すみません……うちの蝋燭の火が消えてしまって……」

 女の子は冷え切っているのか蒼白な顔で、片手に蝋燭を持っていた。年頃の娘にもかかわらず余計な飾りをつけていないどころか、身なりも粗末で弱々しさが際立っている。

 予想外の訪問者に動揺し、金太郎は宙に視線を彷徨わせた後、ようやく言葉を発した。

「ど、どうぞ! 入ってください」

「それには及びません」

「でも寒いでしょう。ほら」

 女の子――小川椿は申し訳なさそうに土間に足を踏み入れたが、息苦しさを覚えて胸を押さえた。息をしようとして咳き込むとふらつき、驚いた金太郎は慌てて椿の体を支えた。

「大丈夫ですか? 風邪なら……、確か生姜湯があったはず」

 椿を火鉢の前に座らせ、金太郎は湯のみ茶碗を手渡した。

(なんてかわいい子なんだろう。みすぼらしい着物だけど、どこかの姫みたいにきれいな顔だ)

 椿は突然の訪問でも親切にしてくれた少年を見上げた。洋装がよく似合う凛々しい姿は、箱館の地元民とは思えない。

「あの……火を分けていただいたらすぐ帰りますから」

「あっ、そうでしたね」

 部屋の蝋燭から火を移してもらうと、椿は礼を言って出ていこうとした。

外はすっかり暗くなり、室内も弱々しい蝋燭の明かりでは心許ない。さらに、さっきまでかろうじて燃えていた火鉢の炭は中途半端に白く残り、もはや暖かさを提供する役目を放棄している。

「ごめんなさい、私、うっかりして。どこかに御守を落としてしまったみたい。権現様のなの」

 一度出て行った椿が土間から中を伺っている。戸が開いたままだったせいで、風が入り込み、椿の蝋燭の火はあっという間に消えてしまった。そして、慌てて戸を閉めようとしたが無慈悲な寒風は部屋の明かりまで奪っていった。

「どうしよう、本当に迷惑な隣人で――」

「気にしないでください。えーっと、御守。どこかな。……暗くて見えねぇや」

 金太郎は腰をかがめて床を手で探り、椿も部屋に上がって膝をついて手を伸ばした。

「……あ」

「ありましたか?」

「いや、違ったみたい」

 金太郎は嘘をついた。

御守は火鉢のすぐそばに落ちていて、金太郎は御守を探り当てると咄嗟に握り締めて懐に隠したのだ。

 顔を上げると、暗い中でも息遣いが聞こえるほど近くに少女の気配が感じられた。金太郎は考えるよりも先に手を伸ばし、彼女の手に触れた。

「……氷みたい。なぁ、俺が暖めてやるよ。探すのはもう諦めよう。暗すぎる」

「そう、ね」

 突然、手を触れられ、目の前に少年の姿が迫っていたことに驚いた椿だったが、手を振り払おうという気にはならなかった。それどころか、自分の凍えた手が彼の両手にすっぽりと包まれていることに安心してしまう。

「まだ名乗ってなかったな。俺は……田島金太郎ってんだ。伝習隊の砲術士官。仮政権のフランス語通訳もやってる。君は権現様の御守を大事にしてんだろ。俺も徳川家のために戦ってきたから、無駄な言葉なんかいらねぇな。俺たち仲間ってことさ。それに……、君のフランス語はすごくきれいだ」

 ただ、戸口で「すみません」と言っただけなのに、彼女のフランス語は天女の囁きに聞こえた。恥ずかしいから、そのことは告げなかったけれども。

「どうしてフランス語を? 今度は君のことを話してくれよ」

「ええ。私の名前は椿よ。本当は松という名前なんだけど、みんなそう呼ぶの。私はお針子をやって暮らしてるわ。裁縫は得意よ。きれいな衣装が大好き。私はこんなにみすぼらしいけどね」

 椿は夢見心地で微笑んだ。互いの鼻の先がくっつきそうなくらい近くに憧れの幕府軍の士官がいて、こちらを見ているのだ。やっぱりここは仮政権に関係する者たちの住居だったらしい。

 憎い長州を倒してくれる真の武士が、一人ぼっちになってしまった椿の手を一生懸命に暖めている。本当にこれは夢かもしれないと椿は信じられない気持ちでいっぱいだった。

「それで? もっと話してよ」

「生まれは江戸で呉服問屋だったんだけど、長州のせいで火事にあって、洋書調所のお針子をするようになったの。フランス語はそこで……。だって、こんなに美しい言葉ってないでしょう? 覚えずにはいられなくて。ジュ・テーム、って言葉も知ってるわ」

「俺も知ってる。ジュ・テーム」

 声がかすれてうまく言えなかった。椿の可憐な口が発する愛情表現の言葉は、金太郎の魂を抜いてしまうには十分すぎた。

 気が付くと金太郎の唇は椿の冷たくなった唇に重ねられていた。

そして自分でも驚いて、顔を素速く離した。どうしてこんな大胆なことができたのだろう。椿の瞳を見ているとよくわからない衝動が湧いてくる。

 椿が瞬きをしてこちらをじっと見つめていたので、金太郎は取り繕うように言った。

「そうだ。これから仮政権樹立を祝って、洋食屋で飲み食いするんだった」

「さっきここから出て行った人たちと? 仲間なんでしょう? 早く行ってあげて」

「つれないなぁ」

「一緒に行ってもいいの?」

「うん。たぶん運命なんだよ、俺たち」

 椿は微笑んだ。

 金太郎は自分のコートを椿に着せてやり、自分は別の羽織ものを引っ掛けると長屋街を抜けて市街地へ繰り出した。

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