一心同体なのに隠し事が多い僕達

「八雲? 寝ちゃったの?」


 陽だまりの中で微睡む僕に、小鳥の囀りのように可憐な声が降ってきた。


「――ぅん……?」


 瞼を開けると、真っ先に目に飛び込んできたのは、雲一つない青空と、ギラギラと照り付ける太陽。そのあまりの眩しさに、僕は咄嗟に手を翳して日光を遮った。

 陽光で温められた白い砂浜が、ホットカーペットのように程よい加減で背中を暖め――急激に眠気が襲ってきたのはこのせいだ――、爽やかな潮風と、耳をくすぐる波の音、それらの感覚が一斉に意識に流れ込んでくる。

 そして次の瞬間、僕の顔を覗き込む彼女によって視界の大半が覆われ、眩しさは半減した。白地に花柄のワンピース、艶のある長い黒髪。時代錯誤感のある麦わら帽子が、彼女には不思議とよく似合う。表情は陰になってよく見えないが、きっと少しだけ拗ねているだろう。ノスタルジー、という、使ったこともない単語がふと浮かんだ。


 はて、僕はどうしてこんなところで寝転がっているんだっけ、という疑問はあったが、この心地良さの前では、どうでもいいことだった。きっと彼女に海へ誘われたのだろう。いずれにしても、理由なんてどうでもいい。彼女の存在は常に僕に幸福を与えてくれたし、彼女さえいれば、海でも山でも、バリアンでも安いホテルでも、天国に成り得るのだ。


「ほら、起きて八雲。綺麗な海だよ」

「あ、ああ……」


 彼女は僕の手を掴んで引いた。それほど強い力ではないはずだけれど、僕の体は発泡スチロールみたいにふわりと砂浜から浮き上がり、海に向かって走る彼女に引っ張られて、足も自然と駆け出していた。

 砂浜の砂は粒子が細かくて、まるで綿の上を走っているみたいにふわふわと柔らかかったが、それでいて、足が取られるわけでもない。不思議だな、と思いつつも、何故かそれ以上深く考える気にはならなかった。


 彼女はそのまま僕の手を引いて海に入り、心地よい温さの海水が足に触れる。


「あ~、気持ちいいね」


 彼女が言った。


「本当だ。ここは天国かもしれない」


 僕が答えると、彼女はまた微笑む。


「八雲はそればっかり。天国って、もっと高いところにあるものでしょう?」

「そうかもね。でも、ここが高くないって絶対に言い切れる? もしかしたら、この砂浜の下に、もっと辛くて厳しい、地獄のような世界が広がっているかもしれない。それに比べたら、ここは天国だよ」


 なんて無意味でとりとめのない会話だろう。でも、こんな会話が楽しく思えてしまうほど、僕は上機嫌だった。尤も、彼女も同様に楽しんでくれているという保証はない。現に、彼女の反応はあまり芳しくなかった。


「ふぅん。そんなことよりさ、ね、ついてきてよ」


 彼女は僕の手を強く握りながら、ざぶざぶと海へ向かってゆく。


「ちょっと、そんなに行ったら……」

「大丈夫大丈夫」


 という間にも、水面は僕のくるぶし、脛、膝まで上がって来て、彼女の濡れたワンピースは水面の高さでふわりと広がっていた。でも、もっと足を取られてもいいはずなのに、水の抵抗は思いの外弱く、すいすいと歩が進む。

 やがて水位は腰を超え、胸を超え、口を超える。僕たちは完全に海に入った。頭上を仰ぎ見ると、水面に残った彼女の麦わら帽子がぷかぷか揺れているのが見える。彼女が何か言ったけれど、聞こえてくるのは彼女の口から飛び出す泡の音ばかり。


『何? 聞こえないよ』


 と尋ねようとしても、やはり口から泡が出るばかりで、声はちっとも伝わらない。ただ、かなりの空気を吐き出しているにも関わらず、息苦しさは全く感じられなかった。

 水面は少しずつ上方へ遠ざかり、差し込む光も弱まってゆく。沈んでいるはずなのに、むしろ浮き上がっているみたいな浮遊感。水面へと昇ってゆく細かい気泡が、僅かな光を受けて星のように輝き、まるで夜空を漂っているかのような錯覚に陥った。


 深く深く沈んでゆく僕達。

 彼女はずっと微笑んでいる。

 足の裏に水底の感触がなくなったのはいつからだったか――。

 やがて光は途絶え、辺りは完全な暗闇に包まれて、すぐそこにいる彼女の表情すら見えなくなり、

 そして、彼女は言った。


「ねえ八雲、私と一緒に死ねる?」


 ついさっきまで何も聞こえなかったはずなのに、彼女のその一言が、暗闇の中で何度も反響する。急激に息苦しさを覚え、夥しい量の気泡を吐き出しながら、僕は彼女の名を呼んだ。


『あ……』



!i!i!i!i!i!i!i!i



愛芽璃あめり……!」


 動悸。

 冷や汗。

 僕はベッドの中で目を覚ました。隣では麻梨丫が寝息を立てている。彼女の寝顔を見て、僕は安堵した。それは、今見たものが夢でよかった、そして、彼女に今の寝言を聞かれなくてよかった、という二重の意味での安心感だった。

 しかし同時に罪悪感も覚えた。僕は今、彼女の脳を使って、前の彼女の夢を見てしまったのだ。


 愛芽璃は、僕が麻梨丫と出会う前に付き合っていた彼女。僕にとって初めての彼女で、彼女の言葉を信じるならば、彼女にとっても僕が初めての相手だった(愛芽璃は処女だったから、それはおそらく真実だろう)。


 それにしても、夢というのは不思議なものだ。実在する人間が、見たこともない場所で、有り得ない行為に及ぶ。身近な人ばかりではない。例えば、芸能人が出てくる夢などは、誰もが一度は見たことがあるのではないだろうか。だが、一般的に、夢とは記憶を整理する過程で生まれるというから、芸能人がノーギャラで出演してくれること自体は理解できるし、有難くもある。

 最も不可解なのは、知人でも芸能人でもない誰かが現れることがある点だ。人物だけではない、見たこともない場所、有り得ないシチュエーションについても、同じことが言えるだろう。記憶の中にいないはずの場所や人物を、脳が勝手に作り上げているということだろうか。そう考えると、夢は一種の創作活動と解釈することも可能かもしれない。


 話が随分逸れてしまったが、愛芽璃はもちろん架空の人物ではない。実在する人間だし、今もきっとどこかで、僕よりは元気に暮らしているだろう。しかし、少なくとも彼女は白いワンピースに麦わら帽子を被るような牧歌的な女性ではなかったし、僕だって『天国』なんて歯の浮くような台詞を軽々しく口にする人間ではない。海の近くには何度か行ったが、遠巻きに眺めるだけで、水に入ったことはないはずだ。その点、大いにフィクションが混じった夢であると言える。

 そもそも、あんな海は僕の記憶にはない。沖縄とか南国とか、あまり人の手が入っていないところまで行かなければ、あれほど綺麗な海は存在しないのではないだろうか。ネットでなら見たことはあるかもしれないが。


 いずれにせよ、今の僕が愛芽璃のことをここまで鮮明に覚えているのは、僕が彼女の思い出を未練がましく外部端末に保存しており、そのデータを直接麻梨丫の脳に書き込んだからに他ならない。

 麻梨丫は、自分の脳に書き込まれた僕のデータの内容を知っているのだろうか。いや、そもそも、僕が見ている夢が、彼女の夢に流れ込んだりはしていないだろうか。そう考えるとゾッとする。僕が愛芽璃の夢を見るのはこれが初めてではないからだ。今日の夢はまだ軽い内容だと言えるが、当然、もっと際どい夢を見ることもある。

 夢に登場したのが芸能人だったら、麻梨丫も知っている相手なのだから、単なる夢の出来事と解釈してくれるだろうし、後ろめたさも感じない。しかし、相手が麻梨丫の知らない女で、尚且つ僕が以前交際していた子だと知ったら、話は違ってくるかもしれない。


 僕の夢が、仮に麻梨丫の意識に共有されているとしたら、彼女は僕を詰るだろうか。まあ、詰るまではいかなくとも、今日こんな夢を見たんだけど、と話題にはするかもしれない。が、実は同じ夢を見ていたのに黙っている、というのが最も恐ろしいケースで、それが有り得ないとも言い切れないのがまた恐怖を煽る。

 夢が共有されていないかどうか、直接尋ねれば話が早いはずなのだが、麻梨丫が本当のことを答えるとも限らない。感覚を共有するようになってからずっと一緒にいるというのに、彼女は僕にとって未だに最もミステリアスな存在なのだ。何を考えているかわからないし、妙に天邪鬼なところもあって、掴みどころがないというか。彼女の過去についても、僕はほとんど何も知らない。


「ん……」


 麻梨丫が小さく唸りながら寝返りをうつ。眉根を寄せ、少し顔を顰めて。

 毎晩というほどでもないが、麻梨丫はよく悪夢を見ている。彼女が自らそう言ったわけではなく、あくまで推測に過ぎないのだが、麻梨丫の寝顔はいつも辛そうだし、魘されていることも珍しくない。稀に、涙を流していることさえある。

 何の夢を見ていたの、と尋ねても、麻梨丫はいつも『忘れた』と答えるし、夢のことだから本当に忘れているのかもしれない。だから、どのような夢を見ているのかはわからないが、こんな表情で見ている夢が楽しかろうはずがない。


 僕と麻梨丫は、物理的には、世界中の誰よりも『一心同体』という四字熟語に相応しい関係だと思っている。何しろ同じ脳を使って思考し、同じ脳の司令で体を動かしているのだから、一卵性双生児よりずっと近い存在と言えるのではないか。

 しかしそれでも、僕たちは互いのことをよく知らないし、彼女に対して隠している事もある。麻梨丫だってきっと、僕に隠していることはたくさんあるだろう。それが悪いとは思わない。お互い子供じゃないのだから。


 しっとりと冷や汗を浮かべた麻梨丫の額を撫でながら、僕はそんなことを考えた。

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