虚無の中で

 静寂。

 暗闇。

 浮遊感。


 浮かんでいるのか、沈んでいるのか。それすらもわからない、生温かい虚無の中を、僕は漂っていた。

 漂流していた、と表現したほうが正確かもしれない。どこに向かっているかのはわからないけれど、ゆっくりとどこかに流されているような感覚はある。その時知覚することができたのはただそれだけで、視覚も、聴覚も、触覚すらも、全く機能していなかった。


 これと同じ感覚を、僕は以前にも味わったことがある。脳死状態になった時、麻梨丫の協力によって目覚めるまで、僕の意識はずっとこの虚無の中を彷徨っていたのだ。

 例えるならば、深い眠りから覚めようとして、しかし体だけが言うことをきかない状態、だろうか。それは一瞬だったようにも思えるし、気が遠くなるほど長かったようにも思える。身体感覚の喪失は時間の感覚をも麻痺させてしまうらしい。


 でも、それと似たような感覚を、僕は遥か昔に一度経験しているような気がする。完全な暗闇と、心地よい浮遊感。でも音だけは、うるさいぐらいずっと鳴り続けていた。

 ドクドク。ゴーゴー。ギュルギュル。そして時々人の声。


 そう、それは母親の胎内の記憶だった。


 個人差はあるだろうけど、僕にとって、子供の頃の記憶は、霧のようにひどく曖昧なものだった。はっきり思い出せたのは、せいぜい小学生ぐらいまでだっただろうか。それ以前の記憶は紙吹雪のように断片的で、像を結ぶことはなかった。

 もともとそんな状態だったのだから、外部ストレージに保存されていたものしか残されていない僕の現在の記憶では、少年時代なんて完全な空白期間である。きっとろくな思い出がなかったのだろう。子供の頃の記憶なんてなくても生きる上で何ら困らないし、思い出したくないことは、わざわざ思い出さなくていい。忘れたいのに切り捨てられない記憶に比べたら、些細な事である。


 子供の頃の記憶すらないのに、母親の胎内の記憶なんてあろうはずがない。だから、この浮遊感に対して不思議な懐かしさを覚えたことに、僕は心底驚いていた。

 鮮明に蘇る胎児の頃の記憶。もちろん、外部ストレージに保存した覚えもない。いったいこの記憶は今までどこに眠っていたのか。どうやって僕の意識に昇ってきたのか。あるいは、僕の意識は既に無意識の領域にあって、これから穏やかな死を迎えるのか――。


 人間は死ぬ間際、それまでの人生を走馬灯のように振り返るのだという。否、振り返るというよりは、生命の危機を感じた瞬間に、どうすれば死を回避できるのか、過去の記憶の中から必死で探ろうとする。それが人間の意識には走馬灯のように感じられるものらしい。

 何ともはた迷惑な話だ。僕は自分のろくでもない人生なんか、振り返ろうとは思わないのに。


 『人は死んだらどうなるの?』


 これは子供が必ずと言っていいほどする質問で、尚且つ、極めて返答の難しい問いでもある。僕も子供の頃に同じ質問をして、随分大人を困らせたものだ。

 何か特定の宗教を信じている人なら、その教義に則った明確な答えを出せるのかもしれない。判断力がまだ十分でない子供に宗教的教義の刷り込みを行うことの是非はさておき、僕は他人の信仰そのものに異を唱えるつもりはない。思想も信条も自由だ。


 その自由に基づいて僕の意見を述べさせてもらうとすれば。

 人は死んだらすべからく無に還る。

 霊魂もない。死後の世界もない。輪廻転生もない。神もいない。

 それらの概念は全て、無に還ることを恐れる人間が創り出した幻想に過ぎない。

 生きるという行為はあらゆる情報の蓄積であり、死はその喪失である。生きていた頃に数十年かけて築き上げてきたものが、死の瞬間水泡に帰す、それが怖くて仕方ないのだろう。死後の世界や輪廻転生が存在すれば、死後にも自分という存在が何らかの形で残されるかもしれない。そして、神という人智を超越した存在に、自分の人生を褒めたり叱ったりしてほしい。全てはそういう卑小な願望が生んだ支離滅裂な幻想なのだ。


 死んだことのない僕が死後について語ったところで、説得力は皆無だろう。科学的に存在を証明できないものは存在しないと言い切れるほど、僕は科学至上主義ではない。だから、これだって僕の単なる願望に過ぎない。

 僕にとっては、死んでも尚僕で居続けなければならないなんて苦痛でしかない。

 死後の世界やら輪廻転生なんて破綻した幻想を抱くタイプの人って、どうしてそこまで自分に執着できるのだろう。そんなもの、あるわけないじゃないか。冷静な判断力を持つ大人なら、それぐらいのことはわかりそうなものだ。

 自分の認知を歪めてしまうほど、どうして自分を好きになれるのだろう。

 僻みみたいに聞こえるかもしれないけれど、僕にはそんなつもりは毛頭ない。死を恐れるような生き方をしてこなかっただけ。だから、ただただ不思議で仕方がないのだ。

 死んだらそこで全て終わり。それでいいじゃないか。

 僕は跡形もなく消え去りたい。

 それが、僕にとって、世界にとって、

 最も幸福な結末だと思うからだ。

 立つ鳥跡を濁さず。


 ああ、それにしても。

 なんて心地よい、

 浮遊感。

 浮かびながら、

 沈んでゆく。

 一瞬、

 のような、

 永遠、

 のような。


 どちらでも

 変わらない

 のなら、

 このまま

 永遠に

 なっ

 て

 も

 いい

 か


「八雲! 八雲!」


 誰だろう?

 僕の名を呼ぶのは……。

 この生温かい場所よりずっと温かいものが、

 胸の内からこみ上げてくる。

 人はみな一人だし、肉親だろうが恋人だろうが、自分以外の人間は皆他人だ。

 しかし、この世に存在する人間が全て他人だとしても、他人と呼ぶにはあまりにも近すぎる存在。

 麻梨丫。

 ようやく彼女の名前を思い出せた。



「八雲! 目を覚まして!」



 突然、意識の表層に、駅のホームでぐったりと横たわる僕の姿が映し出される。

 麻梨丫の脳との接続が復旧したんだな、と僕は思った。

 瞼を開くと、悲壮な表情をした麻梨丫の顔が視界いっぱいに広がり、麻梨丫が見ている僕の顔と重なって、まるで福笑いのようにグチャグチャになった。これが視覚の混線。僕たちが見つめ合えない原因である。ほんの数秒なら問題ないが、この状態が十秒も続くと、3Dに酔ったみたいに気持ち悪くなってしまうのだ。

 しかし、それは長くは続かなかった。麻梨丫が目を閉じたからだ。彼女の美しい顔がすぐ目の前にある。なかなか悪くない目覚めと言えるだろう。


「八雲……よかった……!」


 麻梨丫の閉じられた瞳から、僕の顔に温かい涙のしずくがぽたぽたと落ちてくる。

 僕は答えた。


「麻梨丫……ありがとう……それと、ごめん」


 麻梨丫はでんでん太鼓のように激しくかぶりを振った。でんでん太鼓なんて、随分懐かしい連想だな、と僕は思った。きっと、彼女の頭の動きに合わせて振り乱された長い髪が、そんな連想を呼び起こさせたのだろう。


 気付けば、僕たちの周りには人だかりができていて、その人だかりの外から、異変を察知した数人の駅員が駆け寄ってきた。


「お客様、どうされましたか? 今、医者を連れてきますので……」

「……ああ、僕のことなら大丈夫です。もう全然平気ですから」

「し、しかし……」


 なおも不安気な駅員が本当に医者を連れて来そうだったので、僕は急いで体を起こした。立ち上がるにはまだ少し体が不安定で、麻梨丫に肩を貸してもらうことになってしまったが。


「すみませんね、ちょっと、こういう体質なもので……」


 僕が懐から障害者手帳を取り出して見せると、駅員はしばらく眉根を寄せてそれを眺めていたが、わかりました、と頷いて、業務に戻っていった。だが、本当はきっとわかっていない。何かややこしい体質なんだろう、ぐらいの理解だと思われる。

 立ち上がった僕たちを見て、周りの野次馬もあっという間にいなくなった。割合としては、心配してくれた人と人の不幸が見たいタイプの奴が半々ぐらいだっただろう。いや、それはちょっと楽観的に過ぎるか。


 人混みの中を、僕たちは寄り添いながら歩いた。なかなか泣き止まない麻梨丫に、僕は声をかける。


「ごめん、麻梨丫」

「……なんで?」

「面接、もう間に合わないから」

「……いいよ、そんなの。仕事はまた探せばいいんだから」

「すぐに見つかるかな?」

「何とかなるよ、きっと」


 感覚の喪失というのは恐ろしいものだ。

 一切の情報が遮断された完全な虚無の中にいると、思考がどんどん破滅的な方向に導かれてゆく。どうにかして生きようと決めたはずなのに。こんな重荷を背負いながらも僕の命を救ってくれた、美しい彼女のために。


 もしかしたら、そのまま面接に行って遅れた事情を説明すれば何とかなったかもしれないけれど、僕にはそんな気力がなかったし、麻梨丫のメイクもボロボロだったし。というわけで、僕と麻梨丫は真っ直ぐ僕たちのマンションに戻った。

 部屋に戻った僕たちが、それから激しく求めあったことは、言うまでもないだろう。

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