要介護者、鎌倉八雲

 かつては、つまり日本がまだ曲がりなりにも先進国としてその末席に名を連ねていた頃には、一日の利用者数が世界でも最多を誇った新宿駅。しかし、日本の、そして東京の衰退と共に、その利用者数は減少傾向にある。


 移民の流入と所得格差の拡大によって、公共交通機関を標的としたテロが増加したことも一因として挙げられるが、最大の要因はやはり、東京全体の経済が衰退したことだろう。開発が遅れスラムと化してしまった地域を歩こうと思う人は少ない。安全上の問題から、治安の悪くなった地域の駅には電車も停まらなくなり、それがまた利用者の足を遠ざける。これは電車に限った話ではなく、バスやモノレールなどの公共交通機関全体が負のスパイラルに陥っているのだ。


 そもそも、家の外を出歩く機会だって、僕が子供の頃と比べたらかなり減っている。

 今は何でもネット通販で買えるし、運送業も機械化されて、小物ならドローン、大きいものは自動運転のトラックが家の前まで運んで来てくれる。だから、買い物のためにわざわざ金と時間をかけて外出する必要はなくなった。便利といえば便利な世の中だ。


 そして、僕も麻梨丫もどちらかといえば元々インドア派の人間。職探し以外の理由で外に出ることは滅多にない。


 大通りを抜けると、巨大な新宿駅の歪んだ威容が目の前に姿を現した。

 昔から内部の複雑さを『ダンジョン』と呼ばれ揶揄されて来た新宿駅であるが、その複雑ぶりは年々さらに酷くなっている。原因の最たるものは、やはり都政の混乱だろう。

 二度目の東京オリンピック・パラリンピック前から混乱を極めた都政は、五輪以後さらに混迷の度を増し、知名度はあるが実績のない候補が都知事になるものの、任期を全うすることなくその座を追われるという事態が頻発した。東京の心臓部とも言える新宿駅の再開発計画は知事が変わるたびに変更を余儀なくされ、資材価格の高騰とテロの頻発も相俟って、いずれも完遂されることのないまま、都の財政状況の悪化によって大部分が頓挫し、そのまま放置されている。

 ゴテゴテと中途半端な建物がくっついた新宿駅の歪な姿は、都政の混乱と、それを招いた未熟な民主主義がこの世に産み落とした怪物のようだった。


 新宿駅の周囲には、街中よりさらに多くのホームレスたちが屯していた。

 人通りの多い場所ほど物乞いの数は増える。しかし、物乞いに恵んでやれるほど裕福な人間は、電車などあまり利用しない。貧すれば鈍するとはよく言ったものだ。

 そう考えれば彼らのしていることは非効率この上ないのだが、そうかといって、彼らにはきっと他に行くべきところなどない。公共スペースだからこそ、彼らも追い払われることなくここに居られるのだ。


 駅前といえば、昔は募金活動や何やらが随分うるさかったものだが、最近では全く見なくなった。そりゃあ、これだけ多くのホームレスや物乞いがいる中で募金活動などできたもんじゃないからだろう。海外の恵まれない人々に、と言うその足元に、貧困に喘いでいる日本人がゴロゴロしているのでは、説得力が皆無なのだ。

 それに、かつて日本が経済支援を行った発展途上国と呼ばれていた国々の中には、既に経済成長率で日本を追い抜いた国もある。貧しくなれば募金詐欺すら成り立たない。世知辛い世の中だ。


 東口改札から駅に入り、まさに迷宮のごとく入り組んだ通路を通って、僕たちは山手線のホームに立った。ホームには既に多くの人間が並んでいて、スクランブル交差点のような混雑ぶりだった。そこで視界がぐるりと回転し、再び視覚野が僕の姿を捉える。


「八雲、疲れてない?」


 僕は小さく肩を竦めて答えた。


「全然。体は至って健康だからね」


 得意げに言う自分の姿が、我ながら滑稽に見えてしまい、僕は思わず苦笑した。自分なりにニヒルを気取ってやっているつもりなのだが、僕の容姿でやっても全く様にならず、どちらかといえば癪に障るというか鼻持ちならないというか、とにかく完全に逆効果だった。もう金輪際人前ではやるまいと僕は心に誓った。


「本当に一人で大丈夫?」

「うん、電車ぐらいは平気だと思うよ。いざとなったら目を開ければいいんだし」

「そう……じゃあ、気をつけてね」


 麻梨丫は心配そうに時々こちらを振り返りながら、女性専用車両の列へと歩いて行った。

 今から二十年ほど前、痴漢の増加、および痴漢冤罪の増加への対策として、首都圏の電車には男性専用車両が設けられた。つまり、それ以前から存在していた女性専用車両と併せて、電車では完全に男女の住み分けがなされたことになる。

 全車両における比率は、おおよそ男性専用車両が6、女性専用車両が4といったところ。車両数には若干の偏りがあるものの、それは利用者数の比率とほぼ同じため、特に不満は出ていないようだ。男性・女性専用車両が設けられて以後、どんなに混雑していても、男が男性専用車両に、女が女性専用車両に乗り込むことはできなくなった。いつだったか、女装して女性専用車両に乗り込んだ猛者がニュースで取り上げられていたが、男であることがバレてしまったら、その場で男性専用車両への移動を余儀なくされるか、最悪の場合、強制的に電車から叩き出される。

 男性専用車両が導入されて以後、電車内における痴漢と痴漢冤罪の件数は激減しており、女性にとっては安心して電車を利用できるようになったし、男である僕としては冤罪のリスクを気にせず電車を利用できるため、大変喜ばしい――はずだった。


 はずだった、という文末から誤解を招かないよう言っておくと、僕は別に痴漢常習者ではないし、神に誓って、そんなことは一度もしていない。問題は僕のこの体質である。


 麻梨丫と離れられない僕は、電車を利用する際も、彼女の近くにいなければならない。そして僕は障害等級一級の障害者だから、特別に女性専用車両への乗車が認められている。


 だが、これはあくまで制度上の話だ。


 歩けないわけでもなく、目が見えないわけでもなく、音が聞こえないわけでもない。傍から見れば五体満足な僕が女性専用車両に乗り込むと、当然のように、周囲の女性たちから汚物を見るが如き険しい視線を浴びることになる。

 まあ、それはいい。僕に対する非難だけなら、僕が耐えればいいだけだから。しかし、僕に向けられた視線は、すぐに僕の手を引く麻梨丫にも向けられる。男連れで女性専用車両に乗ってくるなんて非常識だ、リア充アピールか(いや、後者については僕の偏見かもしれないが)、という具合に、僕だけでなく、麻梨丫にまでその被害が及ぶのだ。

 中には、『ここ、女性専用車両ですけど』と、わかりきったことを言ってくる女性もいるのだが、そういう人は僕の障害者手帳を見せれば納得してくれるので、まだいい方である。何も言わずジロジロとこちらを睨み付けてくるようなタイプが一番厄介で、僕たちが電車を降りるまでずっと、ねめつけるような気味の悪い視線に耐え続けなければならない。

 これは僕にとって耐えがたい苦痛だった。僕だけが辛い思いをするならば構わない。だが、僕のせいで麻梨丫にまで同じ思いをさせてしまうのは彼女に申し訳が立たない。本来なら脳死状態で植物人間になっていたはずの僕がこうして日常生活を送れるのは、ひとえに麻梨丫が僕を受け入れてくれたおかげである。できることならば、彼女に無用な迷惑をかけたくなかった。


 だから僕は、彼女に、今回から別々の車両に乗ろうと提案した。


 僕たちが離れられる距離のリミットは三十メートル。

 最近の電車は、前方の数両が女性専用車両、後方の数両が男性専用車両になっていることが多く、女性専用車両と男性専用車両の境目にあるデッキ部分からなるべく離れないようにすれば、別々の車両に乗っていてもどうにか三十メートル以内の距離を保てるはず。そう考えたのだ。


 だが、いざ一人で電車待ちの列に並んでみると、自分が言い出しっぺであるにも関わらず、僕は心細さを感じていた。

 三十路を超えたいい大人の男が、彼女と離れただけでこんなに寂しくなるなんて、何とも情けないものである。今、僕と麻梨丫の距離はまだ十メートルも離れていないのに、このところ四六時中麻梨丫とひっついていたものだから――。

 彼女の肌の感触がないだけで、これほどまでに不安を感じるとは。しかし、僕の後ろにも麻梨丫の後ろにも既に多くの人が並んでおり、もう彼女と同じ列に並ぶことは不可能だったし、今更『やっぱり一緒に乗ろう』なんて、恥ずかしくて言い出せなかった。


 電車はすぐにやってきて、夥しい数の人間が、巨大な灰色の蛇の腹へと吸い込まれてゆき、その様子から僕は蟻の行列を連想した。また視界がぐるりと回り、後ろの人につつかれるようにして電車に乗り込む僕の姿を捉えた。ここから先は彼女の視覚を頼ることはできない。麻梨丫が目を閉じると、僕は目を開き、僕が目を閉じると、麻梨丫は目を開く。そんな風に交互に瞬きを繰り返して、僕たちは自らの視界を確保しながらほぼ同時に電車へ乗り込んだ。

 あいにく席は全て埋まっていて、僕は人の群れに流されるまま通路に立ち、吊り革を掴む。目を閉じると麻梨丫の女性専用車両の様子が視覚野に映し出された。向こうも状況は同じだった。


『八雲、ほんとに大丈夫?』


 麻梨丫が小声で囁く。僕は少しやせ我慢をして、


『全然平気だよ』


 と囁き返した。


 最近ずっと麻梨丫と一緒に行動していたから、この狭い空間に男ばかりすし詰め状態というのも、かなり久しぶりだ。

 僕たちの今回の目的地は五反田にある飲食店。ホールスタッフとキッチンのスタッフをどちらも一名ずつ募集しており、同じ店内でずっと一緒にいられるのであれば、僕たちでも働くことができる。視覚の混線の問題はあるけれど、実際に働いてみれば色々工夫できる部分が見つかるかもしれないし……と、まあそういうわけで、僕たちはこの求人に応募してみることにした。これからその面接を受けに行くのだ。


 僕が子供の頃と比べたら、車内の風景も、車窓から眺める外の風景も、随分様変わりした。

 車内の風景について言えば、東京は昔から様々な人種の人々が暮らす都市ではあったけれど、少子高齢化も相俟って、大規模な移民の受け入れ以後、東京における日本人の比率はさらに下がっている。

 窓の外に広がる風景は、昔と比べるとかなり退廃的になった。スラムと化した地域には夜でもネオンが灯ることはなく、住宅街には空き家になってそのまま朽ちた家も少なくない。この山手線沿線は東京の中でも大体治安のいい方だけれど、それでもスラムになりかけた場所がところどころに見られる。

 スプレーの落書きだらけになったビル街。大きな穴の開いた看板。建物の窓ガラスは割れたまま放置されて、無残な姿を晒していた。人口密集地とスラムは夜になるとさらにハッキリと明暗が分かれるが、東京の夜は年々、少しずつスラムの暗闇による侵食が進んでいる。高速で流れゆく風景を車窓から眺めていると、その変化がよくわかる。


 代々木を過ぎ、原宿を過ぎて、車内アナウンスが渋谷への到着を告げると、車内が慌ただしく動き始める。

 やがて車体の揺れが収まり、窓の外には、ホームで電車を待つ人の長い列が見えた。その数は代々木や原宿とは比べ物にならない。扉が開き、乗客の半分ほどが一斉にホームへ吐き出されたかと思うと、その後すぐ、まるで掃除機で吸い込まれたかのように凄まじい勢いで、今降りていった乗客をも上回る人数の男たちが乗車口から雪崩れ込んできた。


 僕はその人の濁流に抗うこともできず、車両の中ほどから反対側まで押し出され……て……。


「八雲? 八雲? ちょっ……すいません、ごめんなさい、押さないで! 向こうの車両と……八雲!」


 麻梨丫の叫び声に、女性専用車両の乗客たちが一斉にこちらを振り向いた。こちら……とはつまり、僕が見ている麻梨丫の視点のことだ。彼女……もまた、駆け足で乗車し……てくる人の勢いに押さ……れて、男……性専用……車両の方向……から遠く押……しやられ……。


 ……あれ、おかしいな……。


 ふっと視界が暗くなり、僕の意識はそこで途絶えた。

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