奴隷のように弱い僕の立場と蝶のように脆弱な僕の体
マンションの部屋を出た僕と麻梨丫は、そのまま駅へと足を向けた。
季節は夏。温暖化の進んだ地球、集積化の進んだ都市。外はまるでサウナに入ったかのような蒸し暑さだった。
外出する際、僕はいつもサングラスをかける。何故ならば、基本的に僕はずっと目を閉じているからだ。
僕と麻梨丫の視覚情報が両方一気に脳に流れ込んでしまうと、視覚野が混乱して何が何だかわからなくなる、ということは前にも述べた通り。だが逆説すれば、僕たちが一緒に行動している限り、目を開けているのはどちらか一人でいい。僕と麻梨丫のどちらが目を開ける役になっても問題はないのだけれど、麻梨丫がサングラスを嫌がるから、僕がサングラスの役をやっているわけだ。
麻梨丫はサングラスどころか眼鏡すらかけたがらない。僕も彼女も本の虫だから、お互い視力は弱いのだが、彼女は部屋の中でもずっとコンタクトレンズだ。コンタクトをつけたままではおちおちうたた寝もできないし、手入れも必要。眼鏡派の僕から見ると面倒臭いことこの上ない。だから、僕は彼女に尋ねてみたことがある。
「ねえ、どうしてそんなに眼鏡を嫌がるの?」
「いや、別に眼鏡が嫌いなわけじゃないんだけどね……」
「じゃあ、なんで?」
「思い出しちゃうんだよね……SMクラブで働いてたときのことをさ」
つまり、SMクラブで女王様をやっていた時の彼女は、顔の上半分を仮面で隠すことが多かった。それが正装だからだ。眼鏡をかけると、その時の感覚がフラッシュバックしてしまう――もっと直接的に言うと、スイッチが入ってしまいそうになるらしい。
僕だって、たかが眼鏡のことぐらいでビシバシ叩かれたくはない。それよりだったら、サングラスをかける役になった方がよっぽどマシだ。僕が目を閉じサングラスをかけるのは、そういう理由による。
目を瞑ったままでいられたら視覚障害者のように見えるかもしれないが、眠ってもいないのにずっと目を閉じているとそれはそれで疲れる。時々は目を開けたくなってしまうのだが、そうすると、周りにいる人間にぎょっとされてしまう。彼らからしたら、視覚障害者だと思っていた人間が突然パチッと目を開けたのだから、驚くのも無理はない。クララが何の伏線もなしに立ち上がったら僕だって驚く(たとえが古すぎる?)。それを防ぐために、わざわざサングラスで目を隠しているのだ。
目を閉じて歩いていても、麻梨丫が見ている風景がそのまま僕の脳にも伝わってくるのだから、特に危険はない。問題があるとすれば、ちょっと自分の周りを見たいときに、麻梨丫に見てもらわなければならないこと。そして、そう、もしかしたら、視覚を共有してこれが一番困ることかもしれないのだが、僕たちはパートナーの視線の動きがはっきりとわかってしまう。
椎名林檎の若い頃の曲に「違う制服の女子高生を目で追っているの知っているのよ」という歌詞があるが、知っているどころじゃない。何を見ているかが丸わかりなのだ。
だから、街中で目を開ける機会があったとしても、制服の女子高生や露出の多い服を着た女性に目を奪われてはならない。これはかなりのストレスだ。
しかし一方で、外を歩くときの僕は麻梨丫の視覚に頼って行動しているから、麻梨丫の目の動きを追っている時間が圧倒的に多い。つまり、僕の視覚が筒抜けになるのと逆の現象が起こっているのだが、これがまたストレスの種となる。何しろ麻梨丫は僕のことなどお構いなしに道行くイケメンを注視するのだから。
斜め後ろ頭らへんに痛いほど視線を送ろうにも目を瞑っているのだからどうしようもないし、仮に凝視してみたところで、彼女には何の効果もないだろう。彼女に生殺与奪の権利を握られている僕の立場は奴隷よりも弱いのだ。
さて、西暦2040年、少子高齢化が進み衰退した日本の首都東京はどうなっているか。この東京に漂う空気を一言で表すならば、『退廃的』である。
社会保障システムが崩壊し、老人のホームレスが急増。AI普及までの過渡期、日本政府は、労働力不足を解消するため、大規模な移民及び難民の受け入れを無理矢理実施した。しかし、その直後に進んだ労働の機械化でその大半が職を失い、結果として、移民の受け入れは失敗した。
狭い東京の中でも地域格差はさらに拡大し、もともと老人世帯が多かった地域には空き家が増加。行政で管理しきれなくなった空き家には不法移民やホームレスが住み付き、スラム街を形成し始めている。そこには世界一安全な国と謳われた日本の面影はもはやなく、犯罪や反政府活動の温床となっているのだ。
僕と麻梨丫が暮らしているマンションは旧新宿区にあり、都内でも比較的安全な地帯になっている。
かつて東京で一番治安が悪いと言われていたこの新宿界隈が現在では相対的に安全とされていることからも、事態の深刻さがわかってもらえるかもしれない。まあ、まともな住民は経済的に発展している人口密集地に集まり、怪しげな連中がスラムに移住する、いわゆる住民の二極化が進んでいるから、旧新宿区の治安も昔よりはだいぶ良くなっているはずだけれど。
生活道路のような細い道から大通りに出ると、平日の昼間だというのに、老若男女(比率で言えば老老若男女ぐらいか)問わず多くの人間が往来していた。
人口密度が高くなればなるほど平均所得は低くなる傾向にあり、新宿に限らず、都内にある大通りの道端には決まって物乞いが座り込んでいる。一休さんでもないのに『このはしわたるべからず』状態になっているせいで必然的に歩ける範囲が狭くなり、そのことも、歩道の混雑に拍車をかけているのだ。
僕の手を握る麻梨丫の手の力が強くなる。
不意に風景がぐるりと回転し、視界の中心に僕の姿が映し出された。麻梨丫がこちらを振り向いたのだ。サングラスをかけた、中肉中背の冴えない男、鎌倉八雲。ヨレヨレのTシャツとジーパン。よく見ると、右側頭部のあたりに少し寝癖がついている。
「気をつけてね、八雲」
と、麻梨丫の声。目の前にいる僕は小さく頷き返し、彼女の手を強く握り返す。
彼女の手の痛みが電波に乗って伝わり、僕は少しだけ力を緩めた。
もしもこの雑踏の中で彼女とはぐれて、この体が動かなくなってしまったら、僕は大勢の人間に踏んづけられて死んでしまうかもしれない。
互いの握力だけを頼りに、僕たちは歩き続けた。
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