サイケデリックでクレイジーで刹那的な前奏曲

 麻梨丫の名前を一目で解読できる人間は、果たしてこの世に何人いるだろう。


 彼女の名前を初めて教えてもらったとき、僕はそれを『まりわい』と読んだ。だって、他に読みようがないじゃないか。漢字とアルファベットを混ぜた名前を自分の子供につけるなんて、彼女の両親はよほどクレイジーな人物なのだろう、と僕は思ったし、エキゾチックな彼女の容貌やミステリアスな雰囲気も、そうした解釈に一役買ったと言えよう。実際に彼女は日本人の父親とウクライナ人の母親の間に生まれたハーフで、明らかに母親の血を濃く引いているからだ。

 しかし、これは後から知ったことなのだが、日本では人名にアルファベットを使用できない。日本に帰化したサッカー選手が名前に無理矢理漢字を当ててDQNネームみたいになっていることからもわかるように、外人だろうがハーフだろうが、日本国籍を持っている以上は名前を日本語にしなくちゃいけないわけだ。


 で、一見するとアルファベットのYにしか見えない『丫』という字は、音読みで『あ』と読む漢字らしい。

 画数は三画、部首はたてぼう。訓読みすると『あげまき』で、この字が表す意味は『ふたまた、また、先端が分かれたもの』あるいは『髪の毛を左右でたばねて巻き上げた子供の髪型』なのだそうだ。ネットで調べてこの漢字の意味を知ったとき、読めるわけねえだろ、という悪態と共に、僕は苦笑を禁じ得なかった。彼女の名前を知るより先に、僕は彼女の『丫』に自分のたてぼうを差し込んでいたからだ。


 ああ、そこら中からブーイングが聞こえてきそうだ。あらゆる方面からの非難を承知で白状すると、僕と麻梨丫は肉体関係から始まった。


 きっかけは、よくある出会い系サイトだ。それまで割と実直な人生を送ってきた僕がいきなり出会い系サイトなどといういかがわしいものに登録するなんて、今思えば、本当にどうかしている。きっと、三年間交際していた以前の彼女から一方的に別れを告げられたばかりで、とても寂しかったのだろう。

 ああいったサイトで本当に出会いを求めている相手と巡り合うのは、実は非常に難しい。サクラ、ネカマ、冷やかし、サバ読み、その他諸々何でもござれの無法地帯。テクノロジーが高度に発達した現代においても、こればかりは対策が立てられないらしい。最先端技術はどちらかといえばヴァーチャルな空間に相手を求める方向に向いていて、生身の人間同士のコミニュケーションは半世紀前からほとんど進歩がないのだ。

 だから、出会い系サイトで本当に出会いを求めているまともなユーザーを見つけるだけでも一苦労だし、その中で気が合う相手、そして実際に会える距離にいる相手を探すのは困難を極める。僕がサイトに登録してすぐに麻梨丫と知り合えたのは、奇跡と言ってもいいぐらいによくできた偶然だった。

 ちなみに、当時の僕のハンドルネームは『ユダ』で、彼女のハンドルネームは『マリア』だった。なんて皮肉なハンドルネームだろう。彼女は自分の本名を使っているだけだったのだから、責任は僕の方にあるのだけれど。何故こんなハンドルネームを選んだのかは、自分でもよくわからない。ひょっとして、罪悪感なのだろうか。どうだい、僕の深層心理。


 僕と麻梨丫には読書という共通の趣味があり、その中でも特にニッチで特殊な分野の小説、しかも未だに紙の本を好んで読むという共通点があった。

 個人的に、本を読む人間とそうでない人間とでは、二次元と三次元ぐらい暮らしている世界が違うと思っている。僕の前の彼女は本を読まないタイプの人間で、住む世界が違ったのだから、上手く行かないのが道理というものだ。どんなに強く恋焦がれたところで、スクリーン越しでは伝わるわけがない。僕と彼女と、いったいどちらが二次元の住人だったのだろうと今でもよく考える。


 それはそれとして、僕と『マリア』の会話はスーパーボールのように激しく不規則に弾んでいった。とても希少なゲテモノ仲間を偶然見つけてしまった僕たちは、お互いブラックホールのように底の見えない欲求を剥き出しにして相手を飲み込もうとした。住んでいる場所も割と近いことがわかり、実際に会うまでにさほど長い時間はかからなかった。


 待ち合わせ場所で三次元の麻梨丫と初めて会ったときの第一印象は、『とんでもない美人』だった。でも、どこか影があるというか、ネットで話していた時より若干暗い印象も受けた。女性にしては表情の変化が極めて乏しかったせいかもしれない。

 ゆるくパーマのかかった亜麻色の長い髪、意思の強さを感じさせる大きな瞳、すらりと伸びた鼻筋、コンパクトに結ばれた唇。身長は僕と同じぐらい、つまり170センチ前後で、女性にしてはそれなりに大きい方と言えるだろう。細い体を白いセーターとグレーのロングスカートに包み、ずっと伏し目がちだったのも影響したのか、顔の割には野暮ったい感じがした。

 ちょっと勿体ないな、とは思ったものの、それでもとびきりの美人であることに変わりはない。突然その辺から『ドッキリ大成功!』という例のプラカードを持った三流芸能人が飛び出してくるんじゃないかと、僕は気が気じゃなかった(誰が喜ぶのか知らないが、この種の娯楽は半世紀以上前から連綿と続けられている)。美人局の可能性も考えたけれど、あいにく、僕はそこまで裕福ではない。


 幸か不幸か、ドッキリや美人局といった大袈裟でバカげた懸念は全て杞憂に終わった。


 いきなり夜に会うことにしたのがまずかったのかもしれない。僕たちが食事をした店のすぐそばにホテルが建っていたのも悪かった。お洒落なレストランの近くには決まってお洒落なホテルがあって、水族館の順路みたいに、見えない矢印が続いているのだ。

 一時間膝を突き合わせてじっくり話し込むより、一回レースゲームをしたほうが相手の性格がよくわかる、というのが僕の持論だ。麻梨丫と一緒にレースゲームをすると、僕がガイド通りにセーフティな運転をするのに対して、彼女はいつも猛スピードでコーナーに突っ込み、常にギリギリで曲がって、時にはコースアウトしてしまう。

 今思えば、この夜だってそんな感じだった。レストランからホテルへと続くコースを、彼女は僕よりもずっと多く走り込んでいて、下手をしたら壁に激突して死んでしまいそうな危ういスピード感を、命がけで楽しんでいるように見えた。

 僕たちはそのままトップスピードでコースアウトし、食虫植物みたいにサイケデリックな色彩の妖しげなホテルに、みつばちのようにダンスをしながらピットインした。


 休憩という言葉の意味がわからないほど、僕たちはもう子供ではない。本当に休憩なんかしようものなら、たちまち相手を怒らせてしまう、矛盾に満ちた空間だ。でも、僕はその矛盾が嫌いじゃない。


 僕と麻梨丫のコースアウト前提のツーリングは、それからも何度か行われた。

 麻梨丫と会うたびに刹那的になっていく自分に気付きながら、でもそんな自分自身を心地良く感じてもいた。以前の自分から考えれば、これは驚愕すべき変化だった。たとえば、マジシャンが一瞬でシマウマの柄の向きを変えて見せたって、きっとここまで驚きはしないだろう。

 もしかしたら、僕は自分を壊したかったのかもしれない。あるいは、そのままバーンアウトしてしまいそうな刺激に身を投じることで、前の彼女との甘すぎて辛い記憶をトバしたかったのかもしれない。麻梨丫が美人で、しかも具合がよかったから、という極めて単純な理由ではなかったと思いたい。この辺の記憶がどうにも曖昧で、はっきりとは思い出せないのだ。

 恋人だったか、と問われると、そのような気もするし、そうでもないような気もする。恋人の定義は、人によって、時代によって、環境によって変わるもので、あるいはそれを隠れ蓑にして、僕たちの異常な関係を誤魔化したかったのかもしれない。


 僕の脳が死んだのは、そんな状態が三か月ほど続いたある日のことだった。

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