引退勇者の静かで哀しい小さな田舎暮らし

木戸実験

夏牡丹

 仕事もせずに何ヶ月も過ごしていると、なんだか脳が蜜のように溶けて流れているような、そんな感覚になることがあった。まあそのうち社会復帰をするから大丈夫だろうと悠然としていたのだが、そのまま何日も家でひとり深酒とふつか酔いを繰り返していると、このまま自分は廃人になるのではないかと、少しずつ妙な焦りが出てきた。

 破鋼はこう戦争から早数年。

 『聖香』なんて技術を持ってしまったがために、最前線に行かされて何人も人を殺めてしまった僕は、いまだに自分が生きる価値を見失っている。

 退役軍人連盟からたまにふられる仕事を糧として、酒と午睡を重ねる日々。それがあまりよくないことも分かっているのだが、退役以来、どうにも気力が湧かず、部屋の隅にワイン樽を転がし続けている。戦争の頃はわれながら精悍だった身体も、この頃のいい加減な暮らしのせいで、筋肉が落ちてきているように思う。

 少し働いたほうがいいだろうか。蓄えも底が見え始めた頃だし。

 ベッドで大の字になり天井を見つめながら、もやのかかった怠惰な頭で、金策について考えていると、遠くから音が近づいてきた。

 すたんすたんすたん……

 町はずれの山の麓に暮らしているとなかなか耳にしない、大地を叩く躍動感のあるリズム。僕はベッドから身を起こした。別に何かやる気を出したわけではなく、それが来訪者の音であることを知っているからだ。

 家の戸を開けると、はたして来訪者が木にダバラをつないでいた。

「こんにちは、T君。ご機嫌いかが?」

 コルハは手綱を木に結わえながら、僕に挨拶をした。彼女はいつも僕のことを、なぜかミドルネームの『T』で呼ぶ。

 テンガロンハットに眼帯をした色黒なコルハは、ブラの上から革ジャケを羽織っただけの格好で、ホットパンツから生脚をさらしている。彼女のいつもの腹出しカウガールルックだが、何度見ても僕は目のやり場に困ってしまう。

 僕は目を宙に浮かせながら、ぼさつく頭を掻き、

「ご機嫌はそんなに良くないな。ダバラの足音で起こされたからな」

「あらそう。馬よりは静かだと思うんだけどな、ダバラ」

 ダバラは、近年生命奏式ライフ・セリーによって生み出されたダチョウと馬の合成獣キメラだ。見た目はおおむね馬なのだが、胴部を羽毛が覆っており、足もダチョウだ。羽毛の乗り心地の良さと、蹄がないゆえの足音の静かさが人気で、最近普及してきているらしい。僕は、見た目が気味悪いので苦手なのだが。

「どう、最近は? ちゃんと食べてるの?」

「ああ。畑の野菜でヘルシー生活さ」

「嘘ね。また痩せてるわよ。きゅうりとトマトだけでヘルシーなわけないでしょ」

「ワインも呑んでる」

 コルハは額に手をあて、ため息をついた。

「しっかりしなさいよ。そんな自堕落じゃ、せっかくもらった勇者報奨が泣くわよ」

「勇者報奨ね……あの勲章、質屋に持って行っても現金にならない。困るんだが」

 戦争で働きがあったと評価された僕は、国から勇者と認定されていた。といっても、メッキでぎらぎらの勲章をもらっただけ。酒代の足しにもならない。

「もう、いちおう栄誉なんだから現金化しちゃダメよ……あなた、本当なら学校に行ってておかしくない歳なんだから、そんな枯れたこと言っててどうするのよ。そろそろ貯えが尽きる頃でしょ? 仕事持って来たから、報酬でパンかお肉を食べて精力つけなさい」

 コルハは、退役軍人連盟の職員で、社会復帰できない元軍人の生活相談係だ。僕がかろうじて生活を保っているのも、彼女がたまに連盟の仕事をくれるからだ。とはいえ、まるで母親のようにおせっかいな彼女の言動に、僕は少し閉口している。もう少しドライに仕事だけくれないものか。

「仕事か……がぼっと儲かるやつがいいな」

「バカ。あんたはまず働くことを考えなさい。儲けることを考えるのは、まず働いてから」

 そう言って僕をたしなめる。彼女のいつもの調子だった。

 仕事はいつも通りの破鋼兵はこうへい狩りだったが、場所が少し遠かった。


   ***


 蝉の声が遠い。

 そんなふうに感じるときは、だいたい天気が変わる前ぶれだけど、今日は何か違う気がした。ここは山の奥地で、夏でも比較的涼しい気候のはずなのに、今日はじっとりと汗ばむほどだ。私はテーブルを拭きながら、どこか身体が重いような気がしていた。

 今日はお店を休もうかと思ったけど、お母さんがどんなときも休まなかったことを思うと、気が引ける。お客さんなんて、一日にひとりかふたりだけど。

 ここは、森林カフェ『こもれび』。

 お母さんが死んで、私が切り盛りしているお店。

 山の中にぽつねんと建つ小さな喫茶店で、この先の渓流で釣りをする人が、主なお客さんだ。渓流は蜜マスが釣れる名所だけど、そこまでの道がけっこう険しいので、行きも帰りもここで休んでいくお客さんが多い。ちょっとしたご飯と、このあたりでとれる清流茶を出してあげると喜ばれる。

 今日のランチメニューは何にしようかと、キッチンの貯蔵庫を確認する。

 トマトのピューレに干しピーマン。蕗の漬物に行者ニンニク。干しシイタケにタマゴタケ……この山は高原野菜や山菜が豊富に採れる。そんな豊富な山の幸がたっぷりある貯蔵庫は、宝箱のようでわくわくする。何が入っているかなんて、だいたい分かってはいるんだけど。

 ちょっとだけキノコが少ないかなと思ったけど、ひとりかふたりのお客さんをもてなすには、まあ十分な量かなと思い直した。パンでも焼こうと思い、戸棚から小麦粉を出したそのとき、嫌な声がした。

「よお、アーシャ。今日も学校休んだんかよ」

「セージ……うちは遊び場やないて言いよろうが」

 窓のほうを見ると、セージがのぞいていた。いつものように、どこで拾ったのか分からないべこべこの鉄兜をかぶっている。

 去年から山の麓では学校が開校していて、セージは私の同級生……らしい。学校に行ってない私は、それが本当なのかどうか分からないけど。国が急に、子どもはすべて学校に行くものと決めただけで、腰の曲がったばあちゃんとふたり暮らしの私は、そんなものに行っている余裕なんかない。働かないと。

「ほれ、アーシャの宿題。持って来てやったで」

「何度持って来ても、学校には行かん」

「ああ、せやから、店の合間におらが勉強教えてやるて」

「勉強なんていらんて。銭が数えられれば、この土地では生きていけるわえ」

「先生が、勉強は悪い奴にだまされんためにやるんだと」

「そう言う先生が、悪い奴かもしれんでよ」

「アーシャは頑固やな……」

 セージは、以前から私を登校させようとしてくる。私を登校させれば成績が上がると、教師にそそのかされているにちがいない。

「しかし、アーシャ……なんか具合悪そうやけど」

 少し心配そうなふりをして、そんなことを言うセージ。

 言葉をかけるだけの優しさなんていらない。私のいらいらは募るばかりだ。

「セージには関係なかろ。帰りや」

 私は木のボウルに小麦粉を注ぎ、パン作りを始めた。


   ***


 蝉の声に混ざって、どこかから笛の音が聞こえる。

 山に住む子どもが戯れに吹いているのだろうか……そんなことを思いながら、僕は釣竿を持って山道を歩いていた。釣りが目的というわけではなく、連盟の仕事で来ているのだが、この山の渓流では蜜マスが釣れるという噂を聞いたので、気まぐれに釣竿を持って来たのだ。

 蜜マスとは、海に出ずに生涯を沢で暮らすマスの一種なのだが、運動量が極端に少ない品種で、しかもこのあたりの沢は苔が豊富なため、蜜のように脂を蓄えた肥満体のものが釣れるという。釣り人がその身を握ると、葡萄の皮でも剥くようにつるっと皮がはげたという逸話もある。

 あまり脂っこいものは得意ではないが、焼いた蜜マスは至上の逸品との噂もあるので、ものの話に一匹食すのもいいだろう。幸い、釣りも割と好きな方だ。

 まあ、最悪、釣れなくともかまわない。

 木漏れ日に揺れる濃緑の森林。木々の間から眼下に広がる渓谷の、どこまでも透き通った青い清流。陽光をさえぎる木々と、清流から生まれる柔らかい霧で、夏だというのに清涼な空気。

 いい山林が、荒んだ心をすすいでくれる。

 戦争が終結し、まだ一年。

 勇者報奨なんてもらったところで、僕の心はこの国から離れたままだ。ずっと、穏やかで自然豊かな国だと思って生きていたのに、国の首長が手前勝手な正義を詠いだしたばかりに、あんな凄惨な殺し合いが始まったのだ。どんなに優しげな社会を保っていても、ヒトは狂気を秘めている。

 だから、僕は隠遁した。

 狂気を秘めたヒトの社会と、自分なりの付き合いかたが見つかるまで。

 連盟のコルハは心配して仕事をくれるが、正直仕事への意欲はあまり高くない。しかも今回の仕事は、あまり報酬がいただけなさそうだ。だから、成否にはこだわらず、ほどほどにやれることだけやればいいと思っていた。あとは川魚でも釣って、生活の足しにするさ。

 蝉の声と時折聴こえる笛の中、山道を歩いていると、少し開けたところに出た。

 そこは、傾斜もなく、草もよく刈られており、ちょっとした広場のような場所だった。そして、広場の片隅には、木造で『こもれび』と看板の出ている可愛い建物が建っていた。喫茶店だろうか。ここまでの道で少し息があがっていた僕は、ひと心地ついたような気持ちになる。

 建物に近づくと、大きな鉄兜をかぶった少年が、窓から中をのぞきこんでいるのが分かった。見た感じ、十二、三歳くらいだろうか。

「なあ、君。そこはお店かい?」

 僕が声をかけると、少年は鉄兜をぐらぐら揺らして振り返る。

「アーシャ、お客やぞ」


 鉄兜の少年は店員ではなかったようで、僕を店内に案内すると、アーシャと呼ばれた少女に追い払われてしまった。アーシャは、少年と同じくらいの歳の頃のようだから、友達なのだろうか。

「お客さん、釣りですか?」

 僕が席に着くと、どことなく板についていない口調でアーシャは言った。店の中には他に店員の姿も見えない。

「ああ……まあ仕事もあるんだけど、メインは釣りかな。このへんは蜜マスが釣れるって聞いてさ」

「蜜マスは、ちょうどいい時期ですよ。それに魚だけじゃなくて、山菜もたくさん採れます。果物もいいですよ。すもももやまももも」

 アーシャの声は風鈴のように綺麗に響き〝も″の連呼で舌が少しもつれたのさえも、可愛らしく思えた。

 それにしても、あらためて見てみると驚くほど可憐な少女だ。少女らしいあどけなさはあるものの、流麗なブロンドヘアや端正な目鼻立ちが、将来美女へと開花していくことを予感させる。どうかこの静かな山間地でひっそりと咲いてほしいものだと、勝手なことを思った。

「お茶と昼食が出せますけど、いかがしますか」

 他に店員もいないことからすると、少女が調理するのかと少し不安に思うところもあったが、僕は両方を注文した。腹は減っているから、食材がまともならたいがいの料理はうまいと感じられるはずだ。

「うけたまりましたぁ」

 また舌をもつれさせると、アーシャはちょこんと頭を下げて、奥へ引っこんでいった。

 本当にこの店は少女ひとりなのだろうか。両親が食材を採りにでも行っているのだろうか……そんなことを思いながら、木々のさざめきや蝉の声を聴いていると、少女が木の盆を持ってやってきた。

「お待ちどおさまです」

 盆に載っていたのは、実に色とりどりの山の幸だった。

 オレンジ色のソースのかかった山菜に、猪肉のトマトピューレあえ。焼きたてのヤマメの塩焼きや、ふっくらとしたパン。横に添えられたお茶も、控えめながらすがすがしい香りを立ち昇らせている。なかなかに食欲をそそられる。

 思わずがっつきたくなる気持ちになるのを抑え、猪肉をひと切れ口に運んでみると、豊饒な野山の香りと甘みの強いトマトが融和して、口いっぱいに広がっていく。

 当初の不安などどこへやら、僕は手を休めることなく、盆の上の料理を口に運び始めた。山の幸の滋養が、体中に染みわたっていくような心地よい感覚。食事に夢中になるなんて、いつ以来だろうか。

 そんな僕の様子を見てか、少女はくすりと笑った。がっついているように見えただろうか。僕は少し気恥ずかしい心地がした。

「いや、すごくおいしくてね。みっともなかったかな」

「いいえ。お口にあったなら、こんな嬉しいことはないです」

「アーシャ……だったよね。これ、全部君が作ったのかい?」

「そうです。お母さんに教えてもらった通りに作っているだけですけど」

「ああ、じゃあやっぱり、お母さんが店長で、アーシャはお母さんがいない間の店番って感じなのかな?」

「……いいえ」

 何かを言おうとして踏みとどまったような、そんな間を含んだ返答をすると、アーシャは表情を曇らせてうつむいた。それきり黙りこんでしまい、あたりは再び木々のさざめきと蝉の声で満たされる。聞いてはいけないことだったのだろうか。

「おめえ、アーシャに何やった!」

 突然、窓枠を乗り越え、先ほど追い払われた鉄兜の少年が店内に闖入してきた。そして、僕とアーシャの間に割って入る。

「何もしてない……と思うけど」

「それじゃ、なんでアーシャがこんな汗びっしょりなんやえ! 絶対なんかやりよったんやろがえ!」

 この地域の方言か、独特の口調で少年が僕を責め立てる。言われてあらためてアーシャを見てみると、確かに額や胸元に汗の玉が浮かんで見えた。先ほどまでは、穏やかに会話をしていたし、それほど疲労しているふうには見えなかったが。

「女の子を虐めるなんて、おめえ、ヘンタイや! ヘンタイは治安憲兵につれてかれて、みんな死刑になるがあ! 死ねや、ヘンタイ!」

 少年が好き勝手に、僕を責め立て続ける。アーシャを守ろうと必死になっていることは微笑ましいが、少々勇み足が過ぎる。軽くこづいてやろうかと思い立ち上がると、少年は肩をびくつかせ、急に声が弱々しくなった。

「な、なんや。ヘンタイのくせにどつくんかえ。ヘンタイがボーカンになるでよ」

 少年は明らかに怯えており、少し気の毒にも思ったが、口の悪さをとがめてやるのも大人の務めだ。そんなに歳は離れていないのだろうけど。

 僕が少年に向けて、一歩踏み出したとき、

「やめえや、セージ」

 アーシャまでもが方言を使いだした。

「お客さんになんて口をきくんや。仕事の邪魔すんじゃねえて言いよろうが」

「けんども……」

「あたしはたぶん夏バテや。その人は何もしとらせんわ。謝らんかえ、セージ」

 アーシャに言われて、少年はばつが悪そうに頭を下げた。僕も、少しとがめるくらいのつもりだったので、軽くでも頭を下げてもらえるなら特に言うこともない。少年に微笑を送ってやって、腰を下ろした。

「しかし、アーシャ。本当に体調が悪そうだけど、大丈夫かい?」と僕。

「大丈夫です。今日はまだ何も食べてないから、食べ物にあたったわけではないと思います。お召しあがりのお膳で、お客さんに迷惑はかかりません」

「君の心配をしてるんだよ。今、急に具合が悪くなったのかい?」

「朝から少し体はだるかったですけど、大病という感じではないです。今だって動けないほどだるいわけではないですし」

 そうは言っても、健康には見えない。子どもなのにお店で働いていることから考えると、もしかすると過労だろうか。

「医者に診てもらったほうがよくないか?」

「そうや、アーシャ。なんなら医者呼んでくるで」

「やめえや、夏バテくらいで医者呼ばんでええ。ちょっと横になれば、ようなるわ。それに、うちにゃ医者にかかる金なんかあらせんし」

 テーブルに手をつきながらアーシャはゆっくりと立ち上がり、僕らに背を向けた。

「セージ、お客さんを沢におつれせえ。そちらさん、蜜マス釣りに来られとるんや」

 そう言ってアーシャは、店の奥へよろよろ入っていった。


 セージという少年の後をついて、沢沿いの岩岸を歩く。

「す……すまない、セージ、ちょっとペースを落としてくれないか」

 兵役中はそれなりに訓練を受けた僕だが、最近の怠惰な生活でなまった身体と、足場の悪い岩歩きのせいで、みるみる疲労が蓄積していく。一方、先行するセージはさすがに地元の子どもだけあって、ぶかぶかの鉄兜をしたままなのに足運びは安定しており、息があがった様子もない。

「なんや、だらしねえの。いいおとながよ」

 さっきのことが気にさわったままなのか、セージの態度はどうにも険がある。アーシャの頼みだからしぶしぶ案内しているという感じがありあり伝わってくる。

「なあ、セージ。繰り返しになるけど、僕は本当にアーシャには何もしてないぞ」

「分かっとるよ。さっきはすまなんだ」

 ずいぶんとあっさり、セージは詫びた。ぶかぶかの鉄兜のせいで、その表情はよく見えないけど。

「アーシャは学校にも行かんで働いとるけ、心配でよ。おかあが死んで、一緒に住んどる婆さんも足が悪い耳が悪い言うて働かんけ、アーシャはあの店で昼間はひとりや」

「そうだったのか……お父さんは?」

「戦争行ったっきり帰らん。なんぞ知らせがあったかも知らんが、怖あてよう聞かん」

 そうか、アーシャは両親がいなかったのか。うかない様子になるわけだ。

「僕は悪いことを聞いたみたいだね……」

「まあの。知らんで聞いたもんはしゃあないが、終戦から何年もたっとらんけん、気はつかってくれろ」

「セージは、アーシャの様子をよく見に行くのかい?」

「ああ、幼馴染やけ、捨て置けんよ」

 さっきの激昂ぶりから考えると、少なくともこの少年のほうは、幼馴染以上の感情を抱いているように思う。まだ恋愛とも呼べないような、どうしようもなくそわそわとくすぶる感情。まあ、まともな恋愛をしていない僕が、経験者ぶって邪推するようなことでもないかもしれないが。

 息を荒くしながらセージの背中を追っていると、また笛の音が聞こえてきた。

「さっきからたまに笛の音が聞こえるけど、祭りでもあるのかな?」

「いや、夏祭りはまだ少し先や。あの笛は、このところ山のどこやらから聞こえよるが、朝も夜もおかまいなしでの。風がどこぞの洞穴を通る音やないかと思うが」

「そうか……人間の演奏じゃないにしても、なんだか綺麗な音色だね」

「そうかのう。おらあ、正体が分からんうちは、気味が悪いとしか思えんわ」

「正体なんてなんだっていいじゃないか、綺麗なら」

「もしよ、笛の音でエサを引き寄せる化物だったらとか、考えてしまうんさ。出くわしてしもたら、食われちまうでよ」

「いいじゃないか、ただ食われるわけじゃない。綺麗な音を聴いて死ねるんだし」

「あんちゃん……戦争行ったもんは、みんなそんな考え方になるんかえ? おらあ、死ぬのは恐ろしいことやと思うが」

 セージは僕のほうを振り返る。その目は、何か気味の悪いものを見るような目だった。僕は、荒んだ価値観を子どもにちらつかせたことを、少し反省した。

「すまない。死ぬのは恐ろしいことだよ。これからの時代は、そういう考えを大事にしていくべきだね」

 セージは僕の言っていることがまだ少しわからないのか、首をかしげた。

 それきり会話が途切れ、少しの間、岩岸歩きが続く。

 そして。

「沢についたでよ。ここやったら、素人でも少しは釣れるでの」

 少し開けた沢に着くと、セージはそう言った。僕はと言えば、その言葉を待ってましたとばかりに、岩場に腰をおろし、肩で息をする。

「あんちゃん、ほんに体力ないのお。戦争中は事務役やったんか?」

「い……いちおう、南部戦線だったんだけど……」

「激戦地やねえか。それでそのありさまかえ」

「だいぶ身体はなまってるけど……南部は山が少なかったし、ゲリラ的な作戦もなかったからな。山歩きは慣れてないよ」

「軍隊の訓練もたかが知れてんな。でも、その様子やと、呪いの木のとこに行く心配はなさそうやから、安心やで」

「呪いの木?」

「ほれ、あそこ見てみい」

 セージは、渓流のさらに先にある小高い丘を指さす。その丘の頂には、ぽつんと一本、黒い木が立っていた。黒い木は色々種類があるものの、南部に生育するものが多く、この地域では見たことがない。

「あれが、呪いの木? 確かにこのあたりで黒い木なんて珍しいけど」

「あの木だけなら、なんてことなく見えるかもしれんけど、あのへんはもともと林やったんや。それが今はあれ一本や」

「あの黒い木のせいってことかい?」

「ほうよ。事件があってよ。そん頃からあそこに生えとった木や。最初のうちこそ綺麗な紅い牡丹のような花を咲かせとったが、だんだん黒い靄を吐くようになって、ついには林を枯らしよったんや。事件の呪いに違いないて」

「事件って、なんだい?」

 僕の問いに、セージは少しだけ言いよどんだが、意を決したように言った。

「アーシャのおっかあが、あそこで死んだんや」

 その言葉は、空気に刺さるように響いた。

 セージは続けて言った。

「殺されたんや。黒い兵士に」


   ***


 頭がぼんやりとして、蝉の声と笛の音の区別がつきづらい。お腹に痛みがたまっていっているような気がする。

 さっきの釣り人とセージが行ってから、お店の奥で横になっているけど、頭はどんよりして身体も重いまま、治る気配もない。それどころか、お腹にじんじんとした痛みが出だして、しかも強くなってきている。ときどき肌を滑り落ちる汗をぬぐう気にもならない。

 お医者さんに診てもらったほうがいいだろうか。しかし、診療費なんか払えない。この店の稼ぎだけじゃ、かろうじて生活ができる程度だ。

 何もできないまま、苦しさに耐える時間がただ過ぎていく。射しこむ木漏れ日が、妙に目に沁みる。もしかしたらこのまま死んでしまうのではないか、そう思うと、お母さんのことが頭に浮かんだ。

 お母さんが死んだあの日のことが。


 戦争が終わった年だった。その日も、今日みたいな暑い日で、お母さんは朝からお店に行っており、私は家でお婆ちゃんとふたり、お留守番をしていた。

 お母さんの店は家からすぐ近くだけど、年中無休で開けているから、お母さんはいつも夕方にならないと帰ってこなかった。私は、それが少し寂しかった。お父さんが戦争に行く前は、お店を一年中開ける必要なんてなかったのに。

「アーシャや、へっけんさんなあ」

 窓際で安楽椅子に座るお婆ちゃんは、家の外で蟻を指ではじいて遊ぶ私にそう呼びかけた。お婆ちゃんの言葉は、今でもたまに分からない。お母さんも、お婆ちゃんの言うことはたまに分からないみたいだった。

 私に声をかけた後、お婆ちゃんはそのままきいきいと安楽椅子に揺られながら、居眠りを始めてしまった。そろそろお昼で、私はお腹がすいてきていたのに。

 寂しさと空腹から、私はこっそりお店に行くことにした。たまにお店に行くと、お客さんがいないときなら、お母さんはお昼ご飯を作ってくれていたのだ。

 寝ているお婆ちゃんをそのままに、私はお店に行った。

 だけど。

 お店に着いた私を迎えたのは、ドアにかかる「本日閉店」の札だった。

 いくらそんなにお客さんが来ない店だとしても、もうお昼だし、お店を開けていないのはおかしい、と思った。お店の中にお母さんがいる様子もなかった。

 もしかして、木の実か山菜でも採りに行って、怪我でもしてるんじゃないだろうか。そう思うと心配になり、私は捜しに行くことにした。

 物音ひとつ聞き逃すまいと耳を澄ましながら、木々や茂みを見て歩いた。時折、お母さんと呼びかけても、木々のさざめきが返ってくるだけ。いつもの静かな森が、かえって不安を募らせた。私は、お母さんが木の実や山菜を採っていそうな場所を捜して、森の奥へ奥へと進んでいった。

 どのくらい捜していただろう。森の中で歩き疲れて休んでいると、ふと、餓えた獣のような荒い吐息がどこかから聴こえた。熊か狼か……人間を襲う獣を連想して、私は手が冷たくなるのを感じた。

 でも、もしお母さんが襲われているんだとしたら助けなきゃ、そう思った私は、怯える気持ちを抑えながら、足を踏み出した。

 茂みをかきわけ、吐息の聴こえるほうへ。枝葉が身体をひっかき細かい傷ができるのも、まったく気にならなかった。心臓の音が早くなり、口の奥から血の味がしても、なお進む。やがて少し開けた場所に出た。

 異常な場所だった。不自然にそのあたり一帯の木々や草木が枯れている。そこに長くいてはいけないと、すぐに思った。

 ふいに、さっきの吐息が大きく聴こえた。

 吐息のほうへ目を向けた私が、そこで目にしたものは。

 黒い鎧の男の足元に、お母さんが倒れている光景だった。

「お母さん!」

 倒れているお母さんは服が破けていて、ほとんど裸で……顔が腫れ、脚が血でべったりと汚れていた。はだけた胸はゆっくり上下していたから息はしているようだったが、目を閉じてぴくりとも動かなかった。

 私は、前線から逃げてくる兵士が女や子どもを襲っているという噂を思い出した。黒い鎧に刻まれた鷹のマークは、そいつがこの国の上級兵士であることを示していた。

「お母さんに……何をしたの」

 私の問いに、黒い兵士は何も答えることなく、ゆっくりと私のほうを振り向いた。その異様な姿に、私ははっと息を呑んだ。

 夜行性の獣のように、らんらんと光を放つ眼。黒い鎧からゆらゆらと立ち昇る黒い靄。鎧からはつたが伸び、ミイラのように痩せ細った身体に巻きついていた。

 男は、人間ではない何かだった。


  ***


 セージ少年が去った後、僕は岩場でぼんやりと沢釣りをしていた。

 沢は青く澄んでおり、釣り針やエサがはっきりと見えるほどだ。ここまで透き通っていたら、魚からもこちらが見えそうで、エサに寄ってこないのではないかと不安になる。まあ、釣りが第一目的というわけではないから、別にいいと言えばいいのだが。

 それよりも、さっきのセージの言葉だ。

 アーシャの母親は、黒い兵士に殺されていた。

 今回の僕の仕事に関係する話なのは、間違いなかった。僕は、数日前のコルハとのやりとりを思い出す。


「いやあ、生きてるか死んでるか分からないんだよね。今回の破鋼兵は」

 僕の家のただひとつの椅子に、片膝を立てた変な座り方をしたコルハは、シナモンの樹皮を舐めながら、今回の依頼内容を語った。

「成果があがるか分からないんだけど、やる価値のある仕事でさ。T君は破鋼具のこと、ある程度は知ってるよね?」

「ああ、生命奏式で産みだされた黒い金属が破鋼で、それで作った鎧が破鋼具だ。破鋼は、産みだされるときに触媒になった動物の生命が宿っていて、破鋼具の装着者はその動物にまつわる能力が得られる」

「そう、おおまかにはその通りよ」

 破鋼を使用した兵器の開発が戦局に大きく影響したため、数年前の戦争は破鋼戦争と呼ばれている。しかし、使用者に発狂・暴走するものが続出し、破鋼が人間の精神を破壊することがわかったため、戦争終結後に破鋼の使用禁止に関する協定が多国間で結ばれた。

 口から取りだしたシナモンの樹皮をこちらに向け、コルハは続ける。

「でもね、少しだけ違うのよ。破鋼具にはいくつか種類があってね、その中でも、植物の生命を宿した希少な破鋼具があるんだ」

「聞いたことはあるよ。動物の脳とか心臓みたいな、生命の核になる機関が植物はいまいち分かってないから、生命を抽出しづらいんだよな」

「そうそう。それで今回は、貴重な植物系の破鋼具を装着した兵士が、一名行方不明になってたのが分かったんだって」

「行方不明なのが分かった? いないことが把握されてなかったってことか?」

「そうみたいなんだ」

 珍しい話だった。破鋼兵は理性が崩壊している者がほとんどで、その多くは終戦した今も、軍に拘束を受けている。拘束を免れた者たちも、多くは殺人や強盗を犯して逃亡しているはずだった。

 何の罪も犯さずに逃走を続ける破鋼兵は珍しいのだ。

「それで? 失踪兵の行方の目星はついてるのか?」

「いや、ないのよ。でも、手がかりはあってさ」

 コルハは、カウガールジャケットから地図を取りだし、テーブルに広げた。

「失踪した兵士の破鋼具に使われた植物、国境近くのこのあたりの山のものなんだって」

「それだけ?」

「そう、それだけ。帰巣本能や里心が植物にもあるかもと思って」

「目撃情報とかないのかよ? そのあたりの住民に不自然な行方不明が出たとか」

「そんなのわかんないわ。まだ終戦して間もないんだから、治安憲兵の目は田舎まで行き届いてないわ。だから、退役軍人に力を借りたいってわけ」

「だとしても、空振りの可能性が高いような話だと思うけど」

「そうね。でも、消息をしらみつぶししている状況だから、そこにいなかったということも重要な情報なのよ。どうせ家にこもって、お酒ばかり飲んでるんだからいいでしょ? 静養がてら行ってきてよ」

「旅費は出るのかよ?」

「現地への往復の食費くらいは出すわ。後は、破鋼兵を狩った場合の規定の報酬かな」

 野宿が前提と言わんばかりの条件だった。

「おいおい、破鋼兵がいなかったら、完全に経費倒れじゃないか」

「なんなら、あたしとデートできる権利くらいはつけるけど」

 それを報酬と言いきるコルハ。なかなかの大物だ。

 とはいえ、酒漬けの生活に多少の不安を感じてもいることも確かなので、彼女の言うとおりに静養旅行だということにして、不承不承に依頼を受けたのだった。


 釣り糸が、清流にさやさやと優しく揺れている。

 依頼を受けた時点では、どう考えても空振りだと思っていたのだが、あながち見当違いでもなかったらしい。何年か前に、黒い兵……破鋼兵はここに来ていたのだ。セージに詳しいことを聞きたかったが、アーシャの母親が殺されたこと以外には口をつぐみ、そのまま足早に岩場を駆けていった。

 まあ、数年前の事件ということだし、破鋼兵はとっくにこの山にはいないと思って間違いないが、足取りの手がかりをつかめば、わずかでも報酬交渉の余地があるかもしれない。しかし、痕跡を探って山を歩き回るには、少し時間が経ちすぎている。

 やはり、セージに近寄るなと言われたあの黒い木を調べてみる必要があるだろう。

 あたりに人がいないことを確認すると、僕は釣り竿を置き、丘に向かって歩きだした。


  ***


 お母さんを襲った黒い兵士は、ゆっくりと私に向かってきた。

 真正面からそいつを見ると、さらに異常な容姿をしていることが分かった。鎧の下から伸びるつたの他に、身体の全面が黒い樹皮のようなもので覆われており、その樹皮にはところどころ鋭い突起がついていた。

 まるで、身体が植物になりかけているようだ。

 しかも下腹あたりから伸びる突起に、べったりとお母さんの血。お母さんはこれで刺されたのだ、そう思うと、怒りが湧きあがってきた。

「あんたら兵士は、国を守るんやないんかえ! なんでお母さんを襲ったんや!」

 思わず、怒鳴ってしまった。

 黒い兵士は私の声に怯むどころか、表情ひとつ変えず、歩みを進めてきていた。

 もはやこの男は人間ではないのだ。そう思うと、私の怒りは恐怖へと変わった。急に足がすくみ、後ずさろうとすると、その場にへたりこんでしまった。

 黒い兵士が、私のすぐそばに立った。私が見上げると、その眼光が少し強くなった気がした。獲物を前に興奮しているのか、大きく伸縮する樹の突起。私の鼓動はとめどなく早く鳴り続け、冷たい血が全身を巡っていた。

 私は。

 助かりたい、生き残りたい……その瞬間、そう強く思った私は。

「お母さん……」

 そう口から漏らしてしまった。

 哀れな私を見て、黒い兵士はさらに興奮したのか、黒い樹皮や突起を波打たせた。そして、突起のひとつが蛇の鎌首のように伸びあがり、私に先端を向けた。

 殺される。そう思った瞬間、声が響いた。

「させんでよ!」

 見上げると、倒れていたはずのお母さんが、黒い兵士の首根っこに組みついていた。

 思わず私は、お母さんと叫びそうになった。でも。

「アーシャ、はよ逃げえ!」

 お母さんは、私にそう怒鳴りつけ、黒い兵士の首に思い切り噛みついた。すると、噛みついたところから、黒い靄が一気に噴きだした。その靄は、兵士とお母さんを丸ごと包みこんでいく。

 お母さんを助けなくちゃ、そう思った私は、靄に向けて手を伸ばした。

 でも、その手は伸ばしきれなかった。

 泣きながらお願いするような、そんな目をお母さんが私に向けていたのだ。

 私は立ちあがり、その場に背を向け、走りだした。お母さんごめんなさいと、心の中で何度も謝りながら山道を走り下りた。私がお母さんの名前を呼んだばかりに、お母さんが無理をしてしまったんだ……そんな罪の意識で、胸がいっぱいだった。


  ***


 山道を、息を切らせながら登り、僕はどうにか黒い木のもとにたどり着いた。

 丘の上に一本だけ立つ黒い木は、青空を背景に、少し物寂しい印象を与えている。

 僕は呼吸を整え、木に歩み寄る。この黒い木が、失踪した破鋼兵のなんらかの関わりがあって黒くなったのだとすれば、生命奏式の黒い靄がいつ噴きだしてもおかしくない。いつでも離脱できるように、おそるおそる木と距離を詰める。

 しかし、黒い靄が噴きでることもなく、あっけなく僕は、木のすぐそばまで距離を詰めることができた。

 詳しい状況は分からないが、アーシャの母はこのあたりで破鋼兵に殺されたらしい。

 少し及び腰になりながらも、僕はあらためて黒い木を見てみる。

 黒さゆえ遠目には分かりにくかったが、木はかなりしおれており、めくれ落ちてしまった樹皮が根元に散らばっていた。僕はナイフを取りだし、落ちている樹皮をこつこつと叩いてみる。すると、樹皮はまるで灰のように崩れてしまった。

 もしやこの木は……ある可能性に思い至ったとき、ひときわ大きな風が丘全体を叩き打つように、びゅっと吹いた。

 すると。

 先ほどの笛の音が、鋭く、甲高く、黒い木から鳴り響いた。

 間違いないと思った僕は、手に持ったナイフを、思いきり木に投げつける。

 乾いた音とともに樹皮が崩れ、木に大きな風穴が開いた。そう、ナイフは突き立ったのではなく、木の表面を破壊し風穴を開けたのだ。

 黒い木は、まるで笛のように、中が空洞だったのだ。


  ***


 お母さんを見捨て、私は逃げた。

 でもそれを、決して間違った選択だとは思ってない。私はあの黒い兵士を倒すことはできなかったし、お母さんはとてもじゃないが逃げられる様子じゃなかった。あのまま私が黒い兵士に抵抗していても、ただ死体がふたつになっただけだったろう。

 なのに。

 思い出すたびに、胸がちりちりと焼ける。

 あの場から逃げた私は、すぐに近くの集落の大人を呼んで、お母さんを助けに戻った。でも、お母さんがいたはずの場所にはもう誰もいなくて、ただそれまでなかった黒い木が一本立っているだけだった。黒い靄が立ち昇る、不気味に黒い木が。

 大人たちは、お母さんはどこかに連れ去られたんだと早々に決めつけ、まじめに探そうとしなかった。その頃は戦争中で、今で言う治安警察もなかったし、兵士の蛮行を避けようのない災害みたいに考える雰囲気があった。

 終戦した今も、お母さんの情報はまったくつかめないままだが、あの黒い兵士がなんだったのかは、学校に通うセージから少し聞かされた。なんでも、戦時中に開発された技術が暴走して、狂った黒い兵士が幾人も生み出されていたらしい。そいつらが軍隊を脱走して普通の人たちを殺して回っているのだとか。

 その話を聞いたとき、自分の中に戦争を憎む気持ちが吹き荒れるのではないかと思ったが、実際はなんとも言えないむなしい気持ちが胸を満たすだけだった。

 その後、私はただ自動的に、あの黒い木のもとへ足を運び続けた。

 つぐないなのか気晴らしなのか自分でも分からなかったけど、黒い木の近くに行くと、お母さんがそこにいるような気がした。お母さんにどんなことを言えばいいのか分からなかったから、ただ足を運びしばらくの間そこにいるだけだったけど、それだけで私の気持ちは少しだけ落ち着いた。

 そんなことを繰り返していたある夏の日。

 黒い木のところに行くと、紅い花が枝いっぱいに咲いていた。

 夏には咲かない牡丹のような、紅い花だった。

 すでに周りの草木はすっかり枯れていて荒野のような景色になっていたけど、花の紅さはとても鮮やかで、景色に生命を吹きこんでいるみたいだった。

 でも。

 花はすでに、ちらちらと花びらを散らせ、風に舞わせていた。

 私は、それが、綺麗で、哀しくて。

 もう自分がどんな気持ちになっているのかも分からなかったけど、胸が壊れるほど締めつけられるみたいで、とめどなく涙を流していた……


 どこかから声が聞こえた。何度も、私の名を呼ぶ声が。

 目を開けると、一瞬、射しこむ陽光で視界が真っ白になった。すぐに、自分が眠っていたことに気がついた。

「アーシャ、気がついたか! 大丈夫か、しっかりせえ!」

 私を呼ぶ声の主は、セージだったらしい。汗をびっしょりかいて、気が狂わんばかりの形相だ。何か事件でもあったのだろうか。

「どうしたんやえ、そがあに叫んで。人でも死んだんかえ」

 そう言って、自分の声がかすれていることに気がついた。

「あほぬかせ! おらあ、お前が死んだか思うて、肝つぶしたんがぞ!」

「あたしが、死ぬ?」

 セージの言うことが分からず、少し身を起こした。

「え……?」

 自分で自分の状態を見て、心臓が凍りつくような思いがした。

 スカートが、血でべったりと汚れていた。血はスカートだけでなく、脚にも伝っており、紅い蜘蛛の巣のような紋様を描いている。

 少し乾いてはきているが血はまだ脚を伝っており、出血してそれほど時間が経っていないようだった。

「なあアーシャよ、何があったんや」

「あたしも知らんよ。寝て起きたら血みどろでびっくりや」

 恐る恐る立ちあがってみたが、特に身体の動きにおかしなところはない。腰から脚にかけて、自分の手で触れて確かめたが、傷がついている様子もない。

 私は、さっきの紅い花の夢を思いだした。

「もしかしたら、お母さんがあたしを連れに来たんやろか」

 黒い木から散る花の色は、深い紅。私の脚を伝う血の色は、その色にとても似ている気がした。

「この血は……あたしの生命が散っとるんやないやろか」

 私は、射しこむ陽光の向こうにお母さんの姿を探した。

 でも陽光はただ白く、そこには何も見つからなかった。

「アーシャ!」

 セージが私の名を、声が枯れんばかりの勢いで叫んだ。その眼には、たくさんの涙が溜まっている。

「今から医者に行くぞ。おらあがおぶったるから」

「でも、医者にかかるお金なんか」

「そんなもんどうにでもしたる! どうにでもしたるから」

 セージが私の脚にすがりつく。

「止めや。血で汚れるで」

「死なんでくれや、アーシャ……」

 眼に溜まった涙をこぼしながら、セージは声を震わせた。

 陽光の中に、お母さんの姿は見えない。花は散っても、翌年にはつぼみをつける。私の生命は、花ではなく木の幹であればいいのかもしれない。

 お母さんがそうであったように。


  ***


 黒い木は、とうの昔に死んでいるようだった。

 僕は追悼の意をこめ、持ってきた聖香を焚いていた。香の煙が青空に溶けていく様子は、誰かの魂が天に召されるようにも思える。

 断片的な情報から判断するに、この黒い木は、植物を触媒にした破鋼具が人間の生命を巻きこんで、元の植物の状態に戻ったものなのかもしれない。破鋼具は、まれにこのような暴走を起こすとも聞く。

 巻きこまれたのが装着していた破鋼兵だけなのかどうかは、僕の得た情報からは判断できないが、いずれにせよ、失踪した破鋼兵の一件はすでに終わっていたようだ。

 ひとしきり黙祷を終えると、僕は丘の上からあたりを見渡した。

 すると、眼下の沢を、セージがアーシャをおぶって下りていくのが見えた。医者にでも行くのだろうか。アーシャはお金のことを心配して嫌がっていたが、母を殺された少女に対して医者もそう無慈悲なはからいはすまいと、希望的なことを思った。

 何気なく黒い木を見あげる。

 すると、牡丹のような紅い花が一輪咲いていた。

 どうやら『魂送り』の聖香の効果で、生命の最後の残滓が出てきたらしい。

 しかしそんな紅い花もすぐに散ってしまい、その花びらはどこか優雅にどこか哀しく風に流れていく。少年と少女を見送るように、山のふもとへ向け、静かにはらはらと。


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引退勇者の静かで哀しい小さな田舎暮らし 木戸実験 @kidominory

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