マリヤのきつねうどん
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マリヤのきつねうどん
アントニオの手から箸がまばらに落ちた。拾おうとして、彼はうどんが並々と入ったドンブリを落としかけた。彼が真剣な顔つきで箸を一本、二本と拾うのを、食堂の女たちは嬉しそうに見守った。
ここへ来てから一月足らずで、アントニオはどんな失敗をしても叱られないようになっていた。彼の母親のような年齢の女たちは、競って彼に優しくしたがった。彼が妹思いの兄だと分かってからは特に。
うどんを一つ、ドンブリを二つ、箸を三本乗せたトレーを抱えて出て行こうとする彼を、おばさんが呼び止めた。
「出しな、」
また何か失敗したのかと思って、彼が訝し気にトレーを持ち上げると、そのドンブリのなかに、彼女は銀色の大きなお玉で何かを注ぎ入れた。
ハンカチを畳んだような具が、黄金色のスープのなかに沈んでいた。これが入ると「素うどん」が「きつねうどん」に進化する。値段が三十円高くなるはずだった。アントニオは彼女におもねるように黙って目を上げた。
想像した通り、彼女はもう知らぬ振りで、忙しく厨房での働きに立ち戻っていた。
アントニオは小腰を屈めて、小さくアリガトウと呟いた。こんな憐みには慣れっこだった。またどんなに飢えていても、彼はこの手の女の愛情を好きになれなかった。ただ憐みを反射して返す、己の反応の鋭敏さを自分で愛した。
アントニオがトレーを持って外に戻ると、一番隅のテーブルに赤いショールを被った「妹」の姿が見えた。背後からでも分かるほどに、寒そうに背中を丸めている。
(また食わなさそう、)
その姿から、口をきく前から彼には想像がついた。隣にトレーを置いても、物音も感じないのか赤いショールは身動きもしない。アントニオが一つのドンブリからもう一つのドンブリに麺とスープをよそうと、テーブルに微かに滴がこぼれた。麺に遅れて、橙色の具がねるりともう一つのドンブリの麺の上に落ちた。
アントニオがドンブリを置く直前に、
「そんなに要らない」
という声がした。
「食えよ、」
と彼も言い返した。
「食わねえと、お前大きくなれねえぞ、」
ゴリ、と音を立てて彼がドンブリを目の前に押しやっても、赤いショールは身動きの波紋さえ浮かべなかった。アントニオが黙って食事を掻き込み出すのもいつものことだったが、横で音がしようが匂いがしようが、彼の「妹」が頑なに食おうとしないのもいつもと変わらなかった。
「あ、そうだお釣り、」
そう言って彼がポケットから金色、銀色、赤色の小銭を取り出して卓上にざらりと置くと、赤いショールが震えてなかから白い手が伸びた。白い指は小銭を一枚ずつ引き剥がし、その内側へと引き寄せた。硬貨の色ごとの小さな塔がいくつも出来上がった。
ふと、そのことに気づいたらしい黒い瞳が、はっきりとアントニオを睨んできた。来た、と思いつつアントニオはまず頷いてみせた。疑いにはすぐ反応しないと、この小さな伴侶はとても怖いのだ。
「天婦羅うどんにしなかった、高いから、それは素うどん、」
指先が塔の一つにぶつかり、小銭が高い音を立てて二枚落ちた。
「――じゃなくなったんだ、見ろよ、それ」
そう言ってアントニオは、温かいドンブリをそちらの方へと押しやった。スープが揺れて、麺の塊の上に柔らかい具材が滑り、微かに水面を割った。具材そのものは傷つかず、半透明なスープのなかで溜息をつくように微かに上下していた。
「きつねの、にく」
アントニオはそう言うと、慌てて麺を掻き込んだ。黒い瞳が身じろぎもせずに自分を見ていることを感じると、彼はドンブリの内側で、
「おばさんが『妹に』ってくれたんだよ、だからお前の。旨いぜ、でも肉じゃねえな、確か、きつねのどの部分だろ、尻尾だったか。待ってろ今思い出す」
と言ってなお啜った。
また『妹』でもなかった。赤いショールを被っている少年は、実際にはアントニオ・マリヤといった。彼もまたアントニオではあったのだが、同じ名前であるアントニオと組んだこと、また二つ目の名前がマリヤという、女のような名前であったことから、尻尾の方の名前を取ってただマリヤと呼ばれていた。ショールと、つま先まで続く長い衣装を全て取ったところを見た者でないと、誰も彼をアントニオだとは信じなかった。彼はむしろ、子供にしては珍しいほどの美貌を隠すためにショールを被っていた。
アントニオとアントニオ・マリヤが組んだのは偶然だった。アントニオは遊びに勝つために、出来れば他の強い少年と組みたかったが、強い少年は皆群れのもっと強い少年に奪われていた。アントニオ・マリヤには少女の美貌があるだけで、しかもそれが十二歳以下の少年の群れでは奇妙に見えることから、誰もその手にも触れたがらなかった。浮浪児の仲間で、彼を友達として評価する者はおらず、彼は少女と同等に少年たちに忌み嫌われていた。
「ん、」
と言ってアントニオが、アントニオ・マリヤに手を差し出した時も、彼はただ手を取れと短く命令しただけだった。実際には、マリヤの方が一つ年長であり、少年たちの群れの上下関係で言えばアントニオが拾われる側であるはずだったのだが、マリヤの見た目と彼の群れにおける地位の低さが、彼らを自然な上下の関係に導いた。長い階段を下りていく間、マリヤが長いスカートの裾を引きずるのを見かねて、アントニオが背負って駆け下りた。それもただ、アントニオは仕方のない荷物を背負っているという気分で、彼に従ったつもりはなかった。
ルールは日暮れまでで、それまでに元の階段の上まで戻らなくてはいけない。アントニオ自身、十一歳の少年のなかでは小柄な方で、彼が殴って手に入れたお金の量など高が知れていた。この遊びのルールでは、手に入れたお金の金額が一番でない限りは、得たお金を全て没収されてしまうことになっていた。アントニオ自身、狩りの途中で何度も獲物を奪い返された。鼻血を出し、痣をいくつもこさながら、かろうじてポケットに残した小銭をすり合わて、彼は足手まといにしかならないアントニオ・マリヤを残していた小屋に向かった。
一瞬、彼はアントニオ・マリヤもまた、この遊びの渦中にあるのかと思った。ただし今彼の相手になっているのは、彼らの群れにはいない、遥かに年長の大人だった。時折小さな悲鳴が上がる他は、彼らの間にこの遊び特有の威嚇も、交渉も何の会話も見られなかった。アントニオは、無力で陰気なアントニオ・マリヤが見知らぬ男の下で、白い雷になっている光景を目撃した。
殆ど日没が終わる頃になって、アントニオ・マリヤを背負ったアントニオが現れた時は、彼らの遅刻を責める声が上がった。アントニオが謝るより先に、彼らのポケットから多くの小銭が零れた。彼らの間には咄嗟に盗もうとする者もいたが、年長の少年がこれを制した。
「俺らの、勝ちだ」
数えられるより前に、金色の水溜まりを前にしてアントニオが叫んだ。彼は物乞いや、また物乞いをする少年を殴って、金色の硬貨を手に入れたことなどなかった。それをアントニオ・マリヤは、日没までの間に三つも手に入れていた。
「こいつのお陰だよ――、アントニオ・マリヤが、お前がやったんだ、なあ、見ろ」
アントニオは自分が背負っているくたびれた荷物に向かって、喜べと叫んだ。
その後、彼らの組はアントニオ・マリヤのお陰で、出れば必ず勝つというほどになっていた。強くなるにつれて彼らの地位は上昇し、群れのなかではマリヤの美しさすらを認める少年すら出て来た。また奇妙なことではあるが、女ではないこともまた評価されていた。彼らはあくまでも女は嫌いだったから。強い雄の部下であるアントニオの地位こそ羨ましがられるものらしかった。
だが実際、群れのうちで最も弱く、独りで階段を下りることも覚束ないアントニオ・マリヤが、どのようにしてその金を手に入れていたか。
マリヤはその交渉中は、小屋からアントニオを締め出し、厳しく見張りを命じるようになったため、アントニオは目撃して知ることは出来なかった。
ある日の夜、マリヤがどこかから塒に戻って来て、寝ていたアントニオを揺り起こした。頬に押しつけられた、小銭の冷たい感触がアントニオの目を覚ました。彼は暗闇のなかで、金色の硬貨が落ちているのを目撃した。それには所々黒い汚れが付いているようだった。アントニオが起き上がってマリヤを見ると、その頬と、まだ硬貨を握っているらしい指に、彼の血らしいものがべっとりと付着していた。アントニオが声を上げかけると、マリヤが血まみれの手でアントニオの口を塞いだ。
「黙って。アントニオ、これを見て」
そう言って彼が差し出した掌には、大粒の金色の硬貨が二枚乗っていた。しかしそれ以上にアントニオが目を奪われたのは、マリヤの右手の親指の付け根の怪我だった。そこには何かに噛みつかれたような、骨が見えそうなほどに深い裂傷があった。
ぱっくりと開いた傷口から止めどなく流れる血が、掌だけに留まらず、手首までをもしとどに濡らしていた。野良犬にでも噛まれたのかと思ってそう尋ねると、彼は黙って首を横に振り「ニンゲン、」と言った。
「違うの、アントニオ。これだけで金貨がもらえる。物乞いで金色まで行ったこと(彼らは『赤で止まる、銀になる、金に届く』という言い方でこの国の硬貨を数えた)ある? ないでしょう、ねえ、数えてみて、僕の指、あと何本ある?」
アントニオは九本、と言いかけて、慌てて十本と口のなかで言い直した。
マリヤは何かを容認するように頷いた。暗闇のなかで見るその顔は、見知らぬ少女のもののように見えた。
「ね、僕たちお金持ちになれるよ、ずっとずっと。だってあんなに強く噛まれたって僕の指、まだ十本も残ってるんだから」
そう言って彼は、傷ついた指を揃えて、姉のような優しさでアントニオの両頬を挟んだ。彼の大きな黒い瞳が微笑のなかで潰れた。アントニオはなぜか胸に痛みを感じ、視線を引き剥がすように彼の美貌から目を背け、背中を引き寄せて抱きしめた。アントニオの頬や耳に、熱い涙の滴が付いた。彼はマリヤが泣いているということに、この時初めて気づいた。日頃、大人しいマリヤがここまでお喋りになることはなく、その話し方もどこか浮かれているようだったというのに。
何度も勝つから、彼らは次第に仲間から疎まれ出した。また彼ら自身、子供の群れにいる必要をさほどに感じなくなった。また、大人との繋がりのあるマリヤと接していると、アントニオでさえ、子供の群れにいることに妙に馬鹿らしさを感じもした。彼の手を握る前は「アントニオ・マリヤとなんか手を繋ぎたくない」と思うほどに愛着のある群れだったというのに。今やアントニオは、密かに傷を負いつつ、他の誰にも真似の出来ないやり方で金貨を掴んでくる美しい少年に対し、かつて群れの上位にいたどの乱暴な少年に対するよりも強い尊敬と、思慕の念を持つようになっていた。
ただし、彼には憧れの念はなかった。アントニオは、火が水を恐れても憧れたりはしないように、アントニオ・マリヤはただの男ではなく、また女でもなく、ただの男でしかない自分とは違う種族に属すると信じていた。彼の頭にあった認識をそのまま言葉にすれば、アントニオ・マリヤは「男であり女でなく、また女のようなことが出来るらしいが、それによって男すらも支配できる、だから一番強い」と思っていた。「男」を「子供」に、「女」を「大人」と言い換えても、彼にとっては同じだった。彼が愛し、育ったのはそういう群れであった。
最も強い雄を手に入れたアントニオは、群れにおける地位を気にするのではなく、ただ彼にのみ仕えていればいいことを知った。彼はいつものゲームと同じように、足元の覚束ないアントニオ・マリヤを背負って階段を下りた。そして二度と戻らぬつもりで駆けた。
少年たちの群れで最も大きな罪は脱走だった。彼らは新しい悪を創造される悪よりも、古い体制に傷をつけられる悪の方に敏感だった。均質な群れを築いていた彼らは、別にマリヤは惜しくなかったが、少年であるアントニオの流出を許さなかった。まるで彼らが走り出すのを予め分かっていたかのように、いっそ彼よりも早く、追手の少年たちが走って来たようにアントニオは感じた。
彼らは舟に乗った。
それから幾つも国を跨いだ。アントニオには分からなかったが、マリヤが指さして言うには「水の色が違う」ということらしかった。
『あれはあんたの妹?』という言葉は、国が違ってもどこでもよく訊かれた。アントニオは考えたこともなかったが、いつも彼の背後に隠れているマリヤが促すように沈黙していることで、どこへ行っても最初に覚える「そうだ」という返事で通した。
マリヤは群れにいる時もそうだったが、他所に出ると黙っていることが余計に目立った。彼は腹心の部下であるアントニオとのみ意思疎通が出来ればそれでいいらしく、まるで王様が家臣を通じてしか他人の声を聴かないように、誰とも直接に会話したり、ましてや友達を作ろうともしなかった。
あの交渉の時にどうしているのか――アントニオはあれ以来何も目撃していないものの、彼の沈黙との遣り取りを重ねるうちに想像がついた。恐らく彼はただの指になって、肉の内側に閉じこもり、皮膚の弾力によって押し戻したり圧迫したりして、相手の血流を絞り、そのうちに自分の意志と同じものを相手の体内に、鬱血させるように形成してしまうのに違いないと思われた。彼が握っている手を強く抓るだけで、その意志を自分に通じさせるのと同じように。
次第に、アントニオは『妹?』という言葉も覚えて「妹」と自分で言うようになった。彼は妹思いの兄として、ただの浮浪児の二倍の憐みを貰えるようになった。
しかし流浪してばかりもいられない。長い船旅を経て、マリヤが目に見えて弱り出した。また彼の強い勧めがあって、アントニオは彼とともに定住をすることにした。
マリヤが流浪の初めから『家』を欲しがっていたということも、この時になってアントニオは初めて知った。可笑しなことに、彼は熱を出して倒れて、何が欲しいと訊かれて水でも食べ物でもなく『僕らの他に誰も来ない家が欲しい』と言ったのだった。アントニオは予期いなかったその答えを、熱に浮かされた戯言のように感じて笑ったが、マリヤには思い出という強い根拠があって言うことらしかった。
「お母さんと『家』に住んでいたことがある、その時は毎月お金払ってたから、多分どこでもそうだと思う」
と彼は説明した。それ以上詳しくは彼は自分の思い出を説明しなかった。
アントニオはマリヤの口利きを経て、寺という宗教施設の石を運ぶ仕事をするようになった。そこには滅多に使わない巨大な鐘があったり、殆ど裸に近い神像があったり、人々が小銭を捨てていく池があったりとアントニオの目を驚かさない物はなかった。彼はマリヤとその昂奮を分かち合いたかったが、彼は外界の一切に関心がなく、またそれらを珍しいとも感じないらしかった。
「あんなもの、昔いたところにもあったじゃない、忘れたの?」
と彼は言ったが、アントニオはそんな物を見た覚えがなかった。それよりも、彼が新しい土地で感じた昂奮をそのまま伝えようと喜びきって話す時、マリヤの瞳の奥にかつてなかった恐れの影らしいものが過るのを、アントニオは密かに驚きながら見守った。
何となく、自分たちは『家』を手に入れた途端、不幸になってゆくような予感が彼にはした。しかし、マリヤが口に出してまで欲しがる物は、それ以外に何もなかった。
〇
きつねの肉は、相変わらず箸をつけられずに、マリヤの前のドンブリのスープのなかに沈んでいる。それが頬の肉か、尻尾の肉か、アントニオはまだ想像のなかで答えが得られない。
マリヤはそもそも「天婦羅うどん」を買ってくるように、アントニオに命じていた。その金額は四百十円もする。素うどんならば三百円だった。天婦羅の入ったうどんを買ってくることがどういうことか。
それはマリヤの指を一本多く食うということだった。薄い黄金色のスープのなかに沈んだ、白くて柔らかい麺をアントニオはつくづくと見る。箸でほぐさないうちは、それは女の髪のように柔らかく束ねられ、同じ方角に揃っている。いつかの、傷ついた指もそうでない指も揃えて、頬に押し当ててきたマリヤの指の冷たさをアントニオは思い出す。
『ねえ見て、アントニオ。僕の指はあと何本残ってる? ――十本もある、ねえ大人が本気でやっても僕の指は噛み千切られなかった、僕らはお金持ちになれるんだよ、ずっと、ずっと!』
決して彼は気が狂って言うのではなかった。彼が気が狂っているのに近い状態になるのを、船旅の過程でアントニオは度々見たが、それはいなくなった母親を思って泣くのに限られた。彼は人前では迷子のような涙しか流さず、彼自身が密かに切り拓いている生活の上での苦労や、苦痛や、心細さを吐露して泣くことはなかった。
所詮、アントニオが子供の力で石を運ぶ程度では、大人がするように金は手に入らない。しかしそれでも月末になると彼らの壺は満ちている。マリヤが密かに戸を開けて抜け出す物音をアントニオは聞いている。その身動きの鋭さに、詮索することを禁じる厳しさが含まれていることも彼は感じ取っている。マリヤは時折妹を辞め、子供を辞め、雷に化けてまた戻って来る。
一体何が彼の本当の姿であるのか、アントニオにもよく分からない。しかし少女のように微笑んでいる時も、たた大人しい少年でいる時も、年増の女のように黙っている時も、不思議と彼は、それが一時の姿であると思えないほど本物らしく見えた。あるいは赤いショールを引っ被って赤い姿になるように、少女も少年も女もどの姿も、彼にとっては意図的に纏う外出着に過ぎなかったせいかもしれない。
「食えよ、」とアントニオが言う時、この正体の掴めない不思議な伴侶を、ただの人間にしてしまいたい欲望を密かに吐露していた。いっそ「妹」のように、背に負って守るべきものになってくれたら。己の食わせるもので、現れたり消えたりする身体を支配してしまえたら。
「食わないと大きくなれねーぞ、」
と言う時は、密かに彼が青年になってくれる夢を吐露していた。アントニオは彼が好きだったが、やはりどこか女じみたものは怖かった。マリヤがこれほど小柄ながら、自分よりも遥かに大きな雄を支配できる点は尊敬していたが、この先年を経るにつれて、彼がますます華奢になったり美しい女のようになったりする未来をアントニオは拒んだ。
「食えと?」
と、マリヤは低く呟いた。その声には怒号に匹敵する反発が含まれていて滲んだ。
「僕がこれ以上大きくなったら二人とも飢え死にする」
と、彼は既に彼のなかで確定しているらしい未来のことを言った。
アントニオがスープを啜る音が響いた。
「じゃ、一口でいいから」
「嫌だ」
「旨いぞ、ほら俺がフーフーしてやるから、熱くないからほれ」
「火傷したって食わないものは食わない」
「天婦羅うどんじゃなかったから怒ってんの? じゃ今度給料もらったら俺の金でおごってやるよ、俺の分の天婦羅もお前にやる、だから、」
「きみの稼ぎなんかじゃ、一鉢三百五十円の月見うどんが精一杯じゃない」
そう言うと彼は立ち上がって、アントニオの顔に自分の箸を投げつけた。それらはぶつかって音もなく転がった。煽るように風が吹いて彼のショールが頭からずれた。彼のガラスを思わせるような白い肌と、ぴかぴかと光る黒い瞳とが、糸の切れた首飾りの玉のように転がり出た。彼は怒りのために息を切らせていて、睫毛には早くも霞が掛かっていた。
アントニオは「一鉢」という耳慣れない言い方の方に耳を奪われていた。
「子供だけで暮らすのにどのぐらいお金が要るか――何にも分かってないくせに。食べ物の値段しか分からないくせに。それで分かった気にならないでよ。きみがひと月で稼ぐお金なんか、僕だったら二日で稼いでやる。僕がいなかったら素うどんも食べられないくせに、他人の気も知らないで『大きくなれ』だなんて――馬鹿じゃないの、勝手に大きくなって、勝手に飢え死にしたらいいんだ」
アントニオはマリヤの首根っこを掴み、強引にその首を抱いたまま座らせた。マリヤが立ち上がったことで、彼のよく目立つ顔や話しぶりに注目する人々が出て来た。
「へー、知らなかった、これ『ヒトハチ』って言うんだな」
マリヤは抱えられていかにも不服そうに「『イッパイニハイ』とも言うよ、意味はおなじ」と呟いた。また、彼はこういう時急に身動きしないだけの聡明さを持っていた。
風に煽られてショールが彼の肩から吹き飛びそうになった時、アントニオが曲芸のようにドンブリ、アントニオ・マリヤの背中を自分の身体に受けつつ、巧みに体重をずらして風のなかでショールを掴んだ。椅子の上で彼らの膝と膝とがぶつかって少し離れた。
「んじゃさ、こうしようぜ。お前食わなくていいから、俺が全部食う、お前の分も」
アントニオはそう言い、マリヤの後頭部をショールで包んでぐいと押さえつけた。その間に彼はドンブリを引き抜き、自分の方へと抱え込んだ。
「俺が食うから、俺がお前の分も大きくなる。で、お前は小さくなれ」
彼はそう言いつつ片手でマリヤの頭を包み直した。船旅の途中から、彼はこういう仕草に慣れた。
「馬鹿じゃないの……」
とマリヤが低く呟いた。こうして側で彼の声を聴くと、マリヤの杞憂のうち一つだけは本当だな、とアントニオは密かに感じた。
マリヤはこの頃自分が成長しすぎ、すっかり男らしく見えて来たと感じているらしいとが、アントニオには分かっていた。かつて彼が赤いショールを好んで被ったのは、一つには少女らしく見せるためと、ただの子供にしては目立ちすぎる美貌を隠して、子供に石を投げられたりしないためだったが、この頃は妙に男じみてきた風貌をごまかすために使おうとしているらしいことを、アントニオは彼の態度から感じて分かっていた。
アントニオから見てマリヤは露ほども男らしくなど見えなかったのだが、こうして顔を近づけてみることで一つだけ、もしかしたら彼自身はまだ気づいていないかもしれない違いを実際に感じ取った。
(前より声が低くなってる)
自分と以外喋らないから、気づいていないかもしれないが、とアントニオは思った。もっとも、マリヤは気にするほど急に男らしくなどならなかったし、アントニオはその進歩を全く悲劇になど感じないように出来ているのだったが。
本当だって、だから気にするな、とアントニオはいつも通り、快活に言った。
「出来るから、俺が大きくなったら、お前のこと小さく見えるだろ、そしたらお前は小さいってことになる」
それはマリヤが女のように見えることで、他人の間で女らしくも振る舞える、という発見から来たアントニオの発見だったが、マリヤにはその発見の喜びは通じないらしかった。彼は赤いショールの内側で俯いて黙っていた。最後にはその端をアントニオの手から引き抜いて自分の肩を包むようにした。
「ごちそうさまでした、旨かった」
アントニオはマリヤの首を抱えたまま、彼のドンブリの麺とスープをすべて平らげた。その後ふいにショールを引き抜いた。マリヤが怯えたような、また怒りを含んだ目ではっきりと彼を見返した。確かにそうして怒ると、以前よりも目鼻立ちの彫りが深く目立つようになった気がする。しかし成長したというより、ただ痩せすぎたせいであるような気もした。
アントニオは今度は自分の頭を赤いショールでくるみ、ふいにテーブルの上に突っ伏した。そしてマリヤの方を見ずに、肘でドンブリをぐいと彼に押しつけた。
「きつねの肉――じゃなかった、『油揚げ』。実際のところ何だか知らねえけど、多分肉ではないし、お前の嫌いな魚っつう感じでもない。甘くて、噛むとすぐ口のなかで破ける。旨いぜ。『きつねでも旨さが分かるぐらい旨い』っていう意味らしい。確か三十円。前に、お前に内緒で貰ったことあるんだ、ごめんな、確かに旨かった」
マリヤはアントニオが顔を上げないことを確かめて、そっとドンブリのなかを覗いた。麺もスープも飲み干されていてなかったが、柔らかい布を畳んだような黄金色のそれが、箸にも破かれずに眠るように底にあった。
「絶対天婦羅より旨いから、それだけ食え。見ないから」
そう言ってアントニオは向こうをむいたまま、ショールをより深く被り、耳を塞いだ。
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