東京サルベージ

ふぐりたつお

Tokyo


 サルベージ船は自動操縦で板橋から練馬を経由して池袋へ向かっている。甲板に仰向けに寝そべっていると、船と並走する海鳥たちのまっ白いお腹が見える。背景は悲しいくらいの群青色。真上には雲ひとつない、いいお天気だ。甲板の床が生ぐさくなければもっと気持ちいいのだけれど、サルベージ船と言ったって中古の漁船に機材を積んだだけなのだから仕方がない。


「見てごらん」

 船首の方で潜水服の点検をしていた教授が、そう言って不意に前方を指差した。私は上体を起こしてそちらを見る。

「あれがサンシャイン60」

 海面のさざ波が陽光にぎらぎら光ってよく見えない。手で庇を作って目を細めてみると、かなり先のほうにかつての高層建築がほんの先っちょだけ海面から頭を覗かせていた。

「で、あっちが新宿ですね」

「はー、新宿」

 適当に相槌を打ちながら私はろくにそっちを見ていなくて、かわりに教授の背中を凝視してしまう。ウェットスーツの上半身を脱いで、生白い肌を晒している。宝探しに出ていない時は研究室にこもりっきりだから、ろくに日焼けをしていない。それでも最近はずいぶん逞しくなった。サルベージを始めた頃は酸素ボンベ一つ持ち上げるのもヒィヒィ言っていたものだけれど。変わるものだなと思う。


 でも変わったのは私も同じだ。誰もが一度別の人間になるくらいでないとやっていけなかったのだ。一昨年の夏からこっちずっと変わらぬままの人がいるとしたら、それは海の底で白骨化している人たちだけだろう。


 この二年間で、私たち人類はかつてない規模の海面上昇を何度も経験した。その結果、世界中の大都市の大半は海底に沈んでしまったし、日本などは本当に小さな島の集まりになってしまった。もちろん多くの人の命が、生活が、歴史が、無残にも海の底に消えた。

 何が原因だったのか。これほど大量のH2Oがどこに存在していたのか。議論は尽きないけれど、しかし実際のところ必要な観測記録があらかた海の藻屑となっているために、今後しばらく結論が出ることはなさそうだ。


 教授もその謎の解明を目指す機関のメンバーということになっている。そして、たとえ人手不足のせいであっても若くして教授を名乗ることになった手前、富士エリアに移された大学の研究室でちゃんと仕事を続けてはいる。

 ただ、彼の場合は限られた予算をいかにサルベージ事業に振り分けるか、その一点に心を砕いているように見える。海の底に沈んだ旧首都の遺物、多くは復元の見込みのある記録媒体を引き上げ、解析して公開するのは教授のライフワークで半分は趣味みたいなものだった。


 でも……と私は思う。

 彼は本当はそれを自分一人でやりたいに違いない、と。


 どうしてそう思うのか、と聞かれると、私は言葉に詰まってしまう。なんとなくとしか言いようがないのだけれど、海の上にいるときの教授はにこやかにしながらもどこかずっと遠くを見ている様な感じがする。そりゃあ、視界の開けた海上なんだから遠くを見ることになるんだけれど、そういうことではない。

 先生はいつも遠い目で、例えるならこの世界と二重にダブって存在する、もう一つの別の世界を見ているみたいだった。

 そしてそれは私には見えないのだ。


「早希ちゃん、座標をお願いします」

 ぼんやりしていた私は教授の声で我に帰る。船はいつの間にか止まっていた。

「あ、はい。今日はこの辺で潜るんですか」

「ええ。資料館のあった場所でね」

 私はタブレット端末を取り出して地図サイトを表示させ、URLのパラメーターから座標を抜き出して教授に伝えた。

 増水後は情報が全然更新されていないから、地図の中ではここが練馬区と中野区と豊島区のちょうど中間地点あたりであると表示されている。大きな幹線道路の上空数百メートルに私たちの船は浮かんでいることになる。


 教授の助手としてサルベージに同行するようになったばかりのころは、古い地図を頼りに海へ出るのはとても変な感じがしたものだ。でも慣れてくると「なるほど」と思うようになった。陸から数十キロも離れて沖に出ているのに、自分たちのいる場所がはっきりしていると全然怖くない。

 もっとも今となっては海域に名前が付いているというだけで、その安心感にはなんの根拠もない。けれど人間はそうやって恐れを克服することができるのだ。


 気が遠くなるくらい昔、海の民が小さな船で大洋に漕ぎ出し地球の隅々までその行動範囲を広げていった。後世に生きる私たちはその冒険を途轍もない勇敢さというイメージで語ることが多いけれど、意外と彼らは平気だったのかもしれないと私は今では思う。月や星、風、潮の流れや点在する小島、渡り鳥の航路。そういったデータを何世代にもわたって蓄積し続けた彼らは、私や教授が漁船でかつての山手線の線路に沿ってぐるりと海を巡るように、見知った海を航海していたのかもしれない。


 潜水服は服というよりも重機と呼んだ方が良さそうなスクリュー付きのパワードスーツで、着込むと陸上では重すぎて一人では歩けない。だから私が台車に乗せて甲板の縁まで運んでぼちゃんと落とすのだ。実際、私の助手としての存在価値の半分はその作業に集約されている。

『では行きます。投入してください』

 潜水服でロボットみたいになった教授の声は肉声では届かずヘッドセットを通して聞こえる。

「はい。いってらっしゃい」

『…………』

「待ってますから」

『……はい。いってきます』

 ぼちゃん。

 アルミニウム外装そのままの銀色が、水しぶきを上げて入水した。

 重力に頼って潜水するので、教授の姿は意外にゆっくりと海の深緑に中に消えていく。

 

 一仕事終えたとばかりに私は一息ついて、また甲板に寝転がる。まだ五月なのにずいぶん日差しが強い。例の異変以降、気温も日差しもどんどん強くなっている気がする。ショートパンツに上はビキニという軽装では日焼けが怖くて、教授が着ていたパーカーをタオルケット代わりに胸にかけた。


 そうしてタブレット端末の映像に目をやる。

 画面は潜水服が送ってくる、要するに教授が見たのとほぼ同じ映像を受信している。細かなデータが白地で表示されているけれど私には水深と水圧くらいしか理解できない。

 まだ入水数十秒。太陽の光が小魚に反射してちらちら光るのも確認できる。

『25メートル。潜水、順調です』

 イヤホンから教授の事務的な報告が届く。

『50メートル。順調です』

 教授はだんだん日の光の届かない領域に潜行していく。青から深緑、そして濃紺に画面が染まっていく。潜水服の照明がついて細かな水泡がまた画面に現れる。白っぽいクラゲだかイカだかわからないようなものがたまにカメラの前を横切るだけだ。

 そして、

『海底に到着しました。節約のため、一旦通信を落としまーす』

「ねえ教授」

『ん、なんですか』

「私いま、全裸なんですよ」

『は? なぜ?』

「冗談です。ドキドキしました?」

『ばか』

 そして私は一人になる。


 タブレットに最後に映し出されていた光景……それは東京の街だった。ごちゃごちゃした雑居ビルに狭い道路。地図の情報が示す通り、私鉄の駅前のようだ。

 ライトに照らされた狭い範囲ながら、それは確かに見覚えのある風景だった。水の底に沈んでいなければ、ということだけれど。


 映像の途絶えた端末を放り出して、ぼんやりと空を見上げる。よく晴れているものの、空の西の端には夏っぽい積乱雲の兆しも伺えた。すぐに天気が崩れることはないだろうけれど、夜にはわからないな、と思う。教授はどれくらいで上がってくるだろうか。そう考えて、私はいつもの不安にとらわれる。教授は帰ってくるのだろうか。


 最近ずっと考えていることがある。

 教授が海底で通信を切るのは、本当に電力節約のためだろうか。はじめのうちは素直に信じていたけれど、よくよく考えたら不審きわまりない。

 だって通信に使用される電力は、積んでいるバッテリーの容量からしたら微々たるものなのだ。そして教授が一度の潜水でギリギリまでバッテリーを使い切ってくることはまずない。いざという時のために、と言われてしまえば、それはもう反論のしようがないわけだけれど……。


 でも仮に、先生が増水の資料以外を探索しているとしたら。

 それを私にも秘密にしているとしたら。

 辻褄が合いはしないだろうか。


 最近の私はほとんどこう結論付けている。

 先生は機関の予算を使って個人的な何かをサルベージしようとしている。お金のためか、それ以外の何かのためかはわからない。でもだぶん後者だ。それが教授に遠い目をさせる正体に違いないのだ。……あるいは、サルベージしようとすらしていないのかもしれない。私がもっとも恐れているのはそのことだった。


 教授に関する疑惑を突き詰めていくと、とても悲しい想像に行き当たってしまう。情けないことに私はそれからずっと目を逸らしてきた。たとえ内心ででも、それを言語化することをずっと躊躇ってきたのだ。自分の醜い身勝手さに直面する羽目になることがわかっていたから。

 けれどその逃避も限界に来ていた。陸から離れた場所でひとり空と海に囲まれていると、どうしたって脳みそが独り言を始める。


 教授の近しいご家族は内陸部でご健在だ。

 都内に家屋敷もない。

 だとすれば、こうまで彼を掻き立てるのは……。


「あぁ、もう、ばか」

 想像通りの下世話な終着点に自己嫌悪が極まり、私は飛び起きて頭をかきむしった。それでなくても日差しと潮風でばさばさの髪が、鳥の巣状態になる。


 私は気を落ち着けるために釣りをし始めた。

 単なる気分転換というわけでもない。助手としての仕事のもう半分は、これだ。私と教授のおかずをゲットするのだ。最近は陸では新鮮な魚介類なんてなかなか食べられないのだから、この機会に味わっておくに限る。


 と、意気込んではみたものの、まるっきり釣果は振るわなかった。

「そりゃっ。……あー、またこういう……」

 さっきから針にかかるのは小さなアジやサバの仲間ばかりだ。こいつらも唐揚げにすれば美味しいのだけれど、船の上で揚げ物は危ないので持ち帰ることになる。

 ピチピチと跳ねる小アジをクーラーボックスに投げ込んで、新しい餌をセットする。もっとこう、食い出のあるのがきてほしいものだ。できれば白身魚でお願いします……そんな勝手な希望を込めながら糸を落とす。まあでも、海釣りなんて半分は運のようなもの。ましてや群れを追いかけるわけにもいかないのだから、小魚が得られただけでも大自然に感謝しなければならない。

 そう諦念に身を任せた瞬間だった。

「ひゃっ」

 思わず声が出た。おろしたばかりの竿が、がくんと急激に引っ張られたのだ。

「こ、これ、来てる? 食いついてる、よね?」

 こんなに強い引きを経験するのは初めてのことだった。ぐにゃっとしなった竿の先から、釣り糸がピンと張り詰めている。不幸にも私なんかの仕掛けにかかってしまった大物は、逃れようと右に左に糸を引っ張る。油断すると海に引きずり込まれてしまいそうだった。しかし助けれくれる教授はいない。

 私は深呼吸をして、以前教授に教わったように糸の緩んだ一瞬を見逃さずに素早くリールを巻いた。またすぐに引っ張られるので、糸を切らないようにいなしながら機を見る。そしてまた緩んだら巻く! その繰り返しだ。


 お魚との攻防は二十分を超えた。私は汗だくになりながらも、徐々に徐々に糸を短くして、獲物を水面下数メートルというところまで引き寄せることに成功していた。はっきり言って私は疲労困憊していた。しかし銀色に鮮やかなイエローのラインが入ったその魚の方にも、食いついた当初のパワーはもうない。おとなしく巻き上げられながら、時折足掻くように暴れるだけ。それにしても大物だ。目測で40センチ以上はある。

「これは教授もびっくりじゃない?」

 と、ほとんど釣り上げたような気分で私は得意になった。けれど次の瞬間、さっと血の気が引く。

 ——網がない。

 小魚ばかり釣り上げていたために、大物を水面からすくい上げる網を手元に用意していなかったのだ。とてもじゃないけれど竿を放置して網を取りに行ける状況ではない。

 嘘でしょ? ここまで来て……。

 費やした労力を鑑みても、諦めきれる獲物ではなかった。ならいったん竿をどこかに固定して網を……いやだめだ、万が一教授の竿を持って行かれたらそれこそ大目玉。そうなると選択肢は一つしかなかった。糸が切れないことに賭けて、網に頼らず甲板まで引っ張り上げるしかない。

「やってやろうじゃないの」

 私は覚悟を決めて、ギリギリまでリールを巻いた。イメージとしては、昔テレビで見てカツオの一本釣りだ。両足を開いて重心を落とし呼吸を整え、魚の動きに意識を集中。

「えーいっ」

 私は思い切り竿をひっぱり上げた。そして無慈悲に糸は切れた。


 ものすごい音とともに私は盛大な尻もちをついた。

「……あーあ」

 脱力感でしばらく動けなかったけれど、逃げた魚はどうしようもないし、仕掛けはまた作ればいい。

 それよりも今は、私がヒップアタックで散乱させてしまった機材類を片付けなければいけなかった。私はお尻をさすりながらよろよろと立ち上がり、あちこちに転がった予備用の小型の酸素ボンベを拾い集めて専用のボックスに入れた。二リットルのペットボトルほどのサイズが、一箱に9本入るようになっている。

 と、そこで違和感を覚えた。

 思わず辺りを見回す。拾い忘れたボンベはないか……いや、ないはずだ。だってボックスには九本、フルに入っているのだから。じゃあなんだろう。思い過ごしだろうか。何かが引っかかったものの、思いつかないものはどうしようもない。

 歯がゆさは残るものの、大物を逃してすっかり気力を失ってしまった私は、すこし休憩しようと船室に向かって歩き出した。そうして船室のドアに手をかけたところで、あっと思ってボンベのところに駆け戻った。

 ……九本、ある?

 そうだ。

 違和感の正体はこれだったんだ。

 ここに九本あったらダメなやつだこれ!

 意識がブツブツと粟立っていくのがわかった。まず落ち着こう、と思うのだけれどどんどん視野が狭窄していく。だって落ち着いてなんていられない。

 教授はサブのボンベを持たずに海底に行ってしまったのだ。


 タブレットから情報を呼び出すと、教授が海に入ってからすでに三時間半が経過していた。メインのボンベがもつのは短く見積もって四時間ちょっと。教授が予備の酸素がないことに気がついているなら、浮上時間を計算に入れてもうそろそろ探索を切り上げて通信を再開してくれなくちゃいけない時間帯だ。

 ……でも、気がついていなかったら。

 もしくは……最初から持って行く気がなかったのだとしたら……。


 そう思うと居ても立ってもいられなかった。けれど私にできることは何もない。甲板をうろうろと歩き回るだけだ。

「教授。上がってきてよ教授」

 繋がらないヘッドセットについ話しかけてしまう。


 さっきタブレット越しに見た、深い青色に染まる東京の街が脳裏に浮かぶ。そこに銀色の潜水服が膝をついて行き倒れている。その中で教授は息をしていない。けれどどこか幸せそうな、穏やかな顔をしている……。


 ぶんぶんと頭を振ってもそのイメージは消えてくれなかった。唇が痛いと思って指で触れてみたら血が出ている。噛んでいるのは自分だった。

 不意に鼻の奥がツンとなり、ぶわっと顔が熱くなって視界が歪む。けれどここで私が子供のように泣き喚いてたところで何も解決しない。だから落涙だけはぐっとこらえた。


 こらえたはずだったから、ぼたっという水音に私は驚いて顔を上げた。

「えっ……」

 それは確かな重量を持った雨粒だった。

 釣りに熱中し、ボンベの件に動揺して、雲が増えていたことに気づかなかったのだ。

 ぼつ、ぼつぼつぼつ。

 乾いていたデッキの床が見る間に黒くなっていく。

「やばいやばいやばい」

 それどころじゃないという思いとは裏腹に、助手としての習慣で体が動いた。水に弱い機材を船室に移し、波が高くなって流されるのを防ぐために自動操縦の出力を上げる。先生が脱ぎ捨てた洋服も拾い集めてハンガーに掛け、エアコンの前に干す。


 厚い雲はあっという間に広がって、日没まではまだまだ時間があるというのにあたりはすっかり薄暗くなっていた。遠くからは雷鳴まで聞こえてくる。西の空は明るいから一時的なスコールだとは思うけれど、風が出て海が荒れたら教授と合流しにくくなる恐れもある。……でもその心配すら、彼が帰ってくればの話だ。


 私はデッキに出て周囲を見渡す。

 半分水着みたいな格好だから濡れるのはなんでもないけれど、日差しがなくなって急激に気温が下がってきていた。思わず震えがきて自分の腕を抱いた。

「寒い……」

 けれど体の震えはそのせいだけではなかった。バタバタしているうちにも教授の酸素は減っているのだ。入水してから四時間を超えていた。しかし、彼が戻らないだろうと断定するのなら、私は船室の隅で泣いているわけにはいかない。この場で判断を下せるのは私だけであり、そうするのが助手としての責務だ。

 認めたくない気持ちもある。

 信じたくもある。

 ……それで結局、私は四時間半までは待とうと決めた。それ以上はどんなに節約して呼吸しても酸素がもたない。それまでに戻らなければ……戻らなければ、覚悟を決めて動こう。現実問題として各所に連絡も取らなければならない。


 しかし待とうと決めても黙って船室で膝を抱えているなんてことはできなかった。濡れるのもかまわずデッキに出て、どんどん視界の悪くなる周囲の波間を小さな異変も見逃さないつもりで凝視する。

 潜水服は浮上する際、海面までスクリューの力で上がってきたところで浮き袋がわりの白いエアバッグを開く。浮上位置が多少ずれていても、それに気づかないということはないはずだった。

 タブレット端末の画面は相変わらず真っ黒で、通信は回復しない。

 潜水服から受信するはずのデータのほとんどは「N/A」と表示されているが、潜水時間についてはローカルタイムをもとにカウントが続いている。タイムリミットまでまもなくだった。

 結局私はその無機質な表示を見つめてしまう。

 5、4、3、2、1……。

 いよいよとなって、祈るような思いで画面を凝視していた私は、自分で設定したを迎えると同時に腰が抜けたようにぺたんと崩れ落ちてしまった。

「教授……」

 冷たい雨粒が遠慮無くデッキと、天を仰ぐ私の顔面に叩きつけていた。濡れた髪が目元や頰にべったりと張り付いて不快だったし、半裸で雨に打たれ続けた体は冷え切っていた。そしてそれを別にしても、私は船室に戻って陸との通信を確立しなければならないはずだった。悲嘆に暮れている暇はない。

 泣いている時間なんてないのに……。

 そうわかっていても、体が粘度の高い泥になったみたいに重くて立ち上がることができなかった。膝がデッキに張り付いたようだった。

 自分で覚悟を決め、やらなければと頭の中に並べていたタスクのリストが、雨に濡れてぐちゃぐちゃに溶けて壊れていくのがわかった。義務感も決意もすうっと消えていく。今自分が何をすべきなのか、どう動くべきなのか、どうしたいのか。そういったものが全部、本当に何一つとして思い出せなくなっていく。

 いま私をデッキに磔にしているような雨は遠からず止むだろう、と誰かが私の頭の中で考える。けれどそうして戒めを解かれた自分が再び立ち上がり、たとえ一歩でも歩き出せるイメージが湧かなかった。おしまいだ。そう思う。

 そして、ああそうか、とかすかに残った知性が脳裏でひらめく。

 そうだ。

 私には教授しかいなかったんだ。


 私はまだ記憶に新しい、世界がなす術なく海に沈んでいった時期の頃を思い出していた。

 その頃の私は地元のハンパな短大を出たものの勤め先が見つからず、スーパーのパートでお茶を濁すように生きていた。そんな私を誘ってくれたのが東京で就職したかつての同級生だった。彼女の話を聞く限り、東京には私が欲しかった全てがあるように思えた。家族と離れて暮らしたら少しは寂しかろう。でも得るものも多いはずだ。ろくに迷いもせずに東京行きを決めた。未来が希望に満ち溢れているように思えたものだった。

 東京には豊かさがあり、苦労してとった資格を活かせる場があり、そして何より、彼女らと一緒に働くことになればそこには仲の良かったクラスメイトたちや、高校時代ずっと思いを寄せていた男の子もいるのだ。

 私の人生をまるごと振り返った中でも比較的楽しくやれていた高校時代の欠片のようなものが、ともすれば当時よりも自由を帯び、輝かしくなってそこにある。そんなに旨い話があっていのかと思いながらも、私は肺魚が水面を目指すように東京を渇望せずにはいられなかった。必死で親を説得して家を出る了承を取り付け、パートを増やし数ヶ月後の上京に備えて貯金を始めた。


 その東京が一夜のうちに海に沈んだのだ。


 私の状況は客観的に見れば暢気なものだった。

 自分の命はおろか家族も財産も、自分の生活圏はあらかた無事で、スーパーの仕入れルートが壊滅してはいたけれどそれさえ除けば大異変は報道の中の出来事と言っていい程度だったのだから。

 それでも私は打ちのめされていた。今思えばすこし滑稽だけれど、私は東京に全ての望みをかけていたのだ。


 スーパーが国営化されお払い箱になった私は、失意のままに機関のアルバイトに応募して採用された。そこで出会ったのが教授だった。

「東京にはもう何もありません」

 東京が水没したことに対する恨み節を重ねる私に、教授はそう言った。

「だが確かにあらゆるものがあそこにはあった。僕はサルベージ船で月に数回は向こうへ戻るつもりです。君に僕のところを手伝うつもりがあるなら一緒に連れて行ってあげますよ。もう全てが遅いのかもしれませんが」

 私には教授についていくほかなかった。それ以外には何もなかったのだから。思えばそれからずっと、先生は私にとって月であり星であり小島であり渡り鳥の航路だったのだ。


 大異変によって、私たちもの世界も、私たち自身も一度徹底的に壊れてしまったのに違いなかった。誰も彼も病のように、みちしるべなしには一歩だって進めなくなっていたのだ。


 そして私にとって教授が闇夜の誘導灯だったように、教授にだってみちしるべが必要だった。そしてそれはおそらく、東京の海底から彼をずっと手招きしていたのだろう。教授は何年もかけて、行きつ戻りつしながらゆっくりとそれに近づいてきた。その日々は傍目には穏やかに見えて、閾値を超えるのは時間の問題だったのだ……。


 冷たいデッキの上で、いったいどれほどの時間打ちひしがれていただろう。気がつけば雲に切れ間が見え始め、雨もほどなく止みそうだった。しかし私の体調は明らかに異常をきたしていた。

 手足の感覚は鈍く、震えも止まらず、頭は熱く重い。極め付けに、ガンガンと鉄板を叩くような強烈な耳鳴りが意識を支配していた。このまま死ぬのかもしれないと半ば本気で思う。でも半分は本気だった。もうどっちに向かって歩けばいいかよくわからないのだから。

 ガン、ガン、ガン。

 目を閉じて静かにこのまま死んでしまえればいいとさえ思うのに、私の体が私に聞かせている耳鳴りがそうさせてはくれなかった。

 ガン、ガン、おい、

 耳鳴りが?

 ガン、ガン、早希ちゃん、ガン、

 …………。

 ガン、おーい、ガン、ガン、助手っ!


「教授?」

 私はバネみたいに飛び上がった。

 ガンガン鳴っているのは私の頭の中ではなかったのだ。

「ああ早希ちゃん。よかった、いたんですね」

 立ち上がればすぐに視界に入る位置に、教授はいた。白いエアバッグに囲まれて身動きが取れず、私に引き上げてもらおうと頭部の装甲だけ開けて必死で叫び、船体を叩いて鳴らしていたのだ。私がヘッドセット越しの通信に気がつかなかったせいだ。


「うわ。ど、どうしたの早希ちゃん」

 私が近づいていくと教授はギョッとしたようだった。それほどひどい顔をしていたのだろう。でもその顔もすぐに霞んで見えなくなった。

「何かあったんですか。それにそんなに濡れて。船室に入ってなかったの?」

「……どうして……」

「え?」

 ときき返す教授はすこし怯えていた。無理もない。私は涙目で教授を睨みつけていた。

「だって……予備のボンベ……」

 極めて低い語彙力で抗議した私に、合点がいった様子で彼はにこりと笑った。

「ああ。ボンベはね、予備は廃止して最初から二本内蔵するようにしたんですよ。使い捨ての小さいやつはコストが高くて頭を抱えてたんです。と言ってフルサイズを二本積むと身動きが取れなくなりますから、最近支給されるようになった中型のボンベはまさに渡りに船といった感じで」

「あの」

 と私は教授の話を遮った。

「どうして何も話してくれないんですか」

「あ……心配させてしまいましたよね。すみません」

「今回だけじゃないです。教授はいっつも、私に何も話してくれないじゃないですか。私は助手ですよ。教えてください、もっと。ここでいったい何をサルベージしているんですか。誰に会いに行っているんですか。教授が何を考えているか知りたい。教授が見据えているものを私も見たい。勝手にいなくならないでください。この先もずっとです。私ならここにいるんですよ。教授と同じ世界に。手の届くところに」

 混乱から頭がぐちゃぐちゃになった私の愛の告白めいた不平不満を、教授はプカプカ浮きながらいつもの薄ら笑顔で聞いてくれていた。そうして、

「一度、よく考えてみることにします」

 と穏やかな調子で言って瞼を閉じた。

「あ……」

 それを見て余計なことを言いすぎたと悟った私がうろたえるのを、教授は見通していたのだろう。すぐに叱責モードの低い声色を作って

「……でもその前に」

 と私を睨み返してきた。

「雨が溜まってくるぶしまで水浸しなんですよ。早くフックを下ろして引き上げてください。助手なんでしょう。仕事をしてください。給料が欲しければね」

 もちろん私は大急ぎでクレーンの操作に取り掛かった。これは教授の気遣いであり、本心から叱っているのではないのであり、給料は満額支払われるはずだと自分に言い聞かせながら……。


 私も教授もすっかり体が冷えてしまっていて、港までの道中は最大出力で暖房を回し、船室に籠城しなければならなかった。

 あの失言のあとで気まずさがないのは不思議だった。いつも海底から帰ると疲れて眠ってしまう教授が私が暇つぶしに掛けたラジオを一緒に聞いてくれていたのは、多分ただの気まぐれではないのだろう。

「教授」

「なんですか」

「あのですね……」

 言いかけて私は口ごもってしまった。

 一体何から、どうやって話せばいいのだろう。伝えたいことがたくさんありすぎて喉元につっかえ、ぜんぜん出てこない。

 私の語るに足らない半生、東京のこと、助手としての仕事、教授が探し求めているのかもしれない海の底の誰かのこと、古代人の月や星のこと……。


 散々迷って結局、まあいいか、と開き直る。

 港まで自動操縦で三時間。

 時間はたっぷりあるのだ。

 まとまらないから順番に全部言おう、と決めて、私はぽつぽつと話し始めたのだった。

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東京サルベージ ふぐりたつお @fugtat

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