19章

We are イシュタル

 十二月一週。


 この日、早くからスタジアム入りしていた選手たちは、ファンサービスに努めた。


 共にアウェイであり、ホームでもある東京での一戦。第三十三節から予備日のため一週空いて、迎えた最終ゲーム。やれることはやった。もちろんTGAにしても完璧に準備をしてきたことだろう。疲労も全部とは言わないが、全力を出せるコンディションにはあろう。


 先ほどまで朗らかな様子でファンと接していた選手たちは、ロッカールームに入ってから虎視淡々と集中力を高めていた。


 邪魔しちゃ悪いと思って、俺は一旦グラウンドに出た。


 リーグ首位とその次に位置するチーム同士の戦いを見定めようと、観客は満員だった。


 スタンドではすでに両チームの応援団が熱を上げているが、どこか他人事のように聞こえた。


 冬の冷たさが肌を撫でる。


 今日まであっという間だった。冬がやってきて、春が訪れて、夏の暑さを乗り越えて、秋の収穫。そして再びの冬。四季は気づけばやってくる。時間は止まることをしらず淡々と流れている。


 思えば遠くまで来たもんだ。


 未だに優勝が手の届く場所にあるなんて、夢のように感じる。けれどこのゲームが終わった時、そんな夢はすっかり醒めてしまうのだろう。


 来年はない。


 俺たちに未来はない。


 泣いても笑っても、本当に最後。


「本当に君は——君たちは辿り着いたんだな」


 結城が声をかけた。


「あんたの望み通り、俺たちは最強のチャレンジャーだ」


「ならば迎え打つは、最強の王者だ」


「勝った方が真の王者だぜ、結城さん」


「もちろん」


「なあ、結城さん。やっぱり俺はあんたをある意味では許せない。ここ数試合、TGAは新しいことを試していて、その戸惑いで勝ちきれないことが多々あった。だが前節、あんたは完成形を見せた」


「その通り。今日の試合で勝つために俺たちは準備をした」


 3-6-1。


 俺たちが見出したものと同じ答え。


 俺と結城が互いに追い求めてきた進化は、辿った道も過程も違っていたが、似たような山を登っていたのだ。


「だけれど、そうだったのだとしたら、どうしてあんたはイシュタルFCを捨てた?」


 イシュタルFCでその理想を作り上げるのではダメだったのかと。


「なあ月見くん、人間というのはね、悲劇を好む生き物なのさ」


 俺は首を傾げた。


「何が言いたい?」


「正確に言えば、。ああ、俺は力説したさ。イシュタルFCの選手たちに、この理想を当て嵌めれば、三年後には必ずトップチームとして戦えると」


「じゃあどうして——」


「佐竹夏希だよ」


 ここでその名前が出てくるのには、寒気を覚えてしまった。


「彼女は悲劇を求めていた。同じく悲劇に沈んでいる役者を求めていた。


 物語はより人々の心に刺さるだろう、と。


 つまりそれは。


「そう、君は監督という役目を与えられた駒に過ぎない。そして君は実に彼女の思惑通り、役をまっとうした」


「そう——、そうなんですよ、月見さん」


 と、聞き覚えのある声がして、俺は振り返る。


 少し見ない間に髪の伸びていた佐竹さんの姿が目に入った。


「申し訳ありません」


 スーツ姿の彼女は深々と頭を下げた。


「でも、言い訳をさせてください。私にはこれしか思いつかなかったんです。こうすることでしか、イシュタルFCを存続させる強い理由が思い当たらなかったんです。謝ります。あなたを『マクベス』のような悲劇の王としてしまったことを」


 俺は言い返せなかった。


「ただ、あなたは私の予想を超えてくれました。ここまで来るなんて思いませんでした。だから私はあなたを悲劇の王にはしてはならないと、この半年動き回ったのです。その結果——」


 彼女は俯いて唇を結んだ。


「佐竹さん。もう何も言わないでくれ」


「……すみません」


「一つだけ言えることは、俺が何かをしてきたんじゃない。俺たちで道を作ってきたんだ」


「もちろんその通りです」


 俺は結城に目を向けた。


「最高のゲームにしよう」


「ああ」


 と、握手を交わし、俺たちは身を翻す。


 しかし立ち尽くしていた夏希に声をかけた。


「何してんの、佐竹さん。これからミーティングだ」


「けど私は……そこに行く資格なんて……」


「佐竹さんも戦ったんだろう? 自分のやり方で」


「……はい」


「だったら俺たちもチームメイトだ。ラストゲーム、共に戦おう」


「はい……っ!」


 手を引いた彼女の腕には、ミサンガが結ばれていた。





 ロッカールームに入ると、すでに臨戦態勢を整えた選手たちが視線を向けた。


 佐竹夏希の登場にやや驚きを見せたが、すぐに切り替えて表情を真剣なものに戻した。


 俺は皆に背を向け、乱雑に書き込まれたホワイトボードをひっくり返した。


 何も書かれていない真っ白いボードが現れる。


「ここに新しい世界を築こう。君たちの、君たちだけのサッカーを」


 皆、頷き見せた。


「結果なんてあとからついてくる。最後のゲームだ。楽しいことをしよう。面白いことをしよう。失敗してもいい。間違えてもいい。俺たちはそうして今日までやってきた。今日もいつも通りに。その上で自分たちも楽しもうぜ」


 由佳が手を出し、円陣を組む。


「私は見たい。この先の景色を」


 由佳は一人一人に目配せをして、それぞれは強く頷き返した。


「皆んなで行こう。証明しよう、私たちはここにいたんだってことを」


 決して終わりじゃない。


 今日の試合が幕を下ろした時、理想とは違うかもしれないけれど、また新しい道が待っている。


 終わりはない。


 歩みを止めない限り、ずっとずっと。


 無駄なんかじゃない。


 今日まで戦ってきたことは。



私たちならできるWe can do it!」

「「「私ならできるI can do it!!!」」」



生きて生きようLive and let live!」

「「「We are イシュタル!!!」」」



先へ進もうLet's go ahead!」

「「「行こうGo for it!!!」」」



 まだ見たことのない場所へ。

 もっと遠くへ。

 俺たちならどこまでも行ける。

 そう信じて。


 ラストゲームが始まる。





 初手はTGAのシュートで幕をあげた。


 これまで堅牢な守備を売りにしてきたチームが、序盤から積極的な攻勢を見せた。


 これが結城学の完成形。


 昨年二部だったチームが、知将に牽引され辿り着いた場所。埼玉のそれとも違い、鹿島とも違い、川崎とも、あるいは大阪とも違う。攻撃を盤石とするためにこれまで守備を徹底的に強化し、相手にボールを与えないサッカー。


 それがTGAの答え。


 安全策などなく、どんなパスだってパスミスにして見せる攻撃的な守備。それによって支えられる波状攻撃。


 再び放たれたシュートを皐月がはじき返したが、セカンドボールを拾ったのもTGAだった。


 心美をかわして、再び正確なシュートが放たれた。


 皐月は戻りきれていない。




 ——俺が蹴ったボールはゴールサイドに入った。皐月は悔しそうに芝生を叩いて起き上がる。


「まだまだ!」


「今日はこの辺にしよう。何度も言うようだが、休むのもまたプロの——」


「さあ来い!」


 TGAに大敗を喫した最初の試合から、ほぼ毎日こんな日が続いていた。


 もちろん容赦はしなかった。多彩なシュートを放ち、皐月は食らい続けた。


 初めはほとんどがゴールだった。だが日を追うごとに、徐々に徐々に俺のシュートは入らなくなっていった。


 時に、付き合わされる俺の方が根をあげたくなる。チーム一の根性を持った皐月は毎日飽きもせず、シュート練習に向き合った。


 なぜそこまでするのかと問いかけると、皐月はこう答えた。


「最後にゴールを守るのがキーパーの務めだから。ボクはキーパーだから点をとってチームを支えることはできない。だからボクが負けるわけにはいかないんだ」


「なあ皐月。君の気持ちはわかる。確かに根性も大事だぜ? でも、ずっと根性だけではやれないんだ。だからもっと頭を使え」


「それって、シュートを打たれる前にディフェンスラインを統率して、シュートに行かせないってこと?」


「まあそれもあるんだが、結局はさ、物理学なんだよ。シュートを打つ瞬間、軸足がどこを向いて、インパクトの瞬間、足のどこに当たってボールがどういう動きをしているのか見極めれば、ボールの行き先はある程度わかる」


「月見監督って、もしかしてかしこなのかい?」


「……さては俺をバカだと思ってたな!?」


「いや、だって毎日練習に付き合ってくれるし。バカしかできないかなって。バ監督」


「それが人に物を頼む態度か……」


「そうとわかったら、千本ノックだ!」


「……お前、ホントはバカだな!?」


「ボクがかしこになるまで付き合ってくれるんだろう?」


「望ところだ」


 そんな日々——。




 TGAのシュートは守護神皐月によって阻まれた。だが再三セカンドボールを拾われ、怒涛のシュートラッシュは止まらない。皐月は懸命に手を伸ばし続けた。その体に染み付いた読みが外れることはなかった。何度も何度も体を投げ出しては起き上がり、守備へのコーチングをしながら自身の位置を調整する。


 キーパーと言えど、休まる暇はない。これまでイシュタルFCは数々の先制点を許し、連勝していたものの楽な試合なんて一つもなかった。先制点はゲームの流れを引き寄せる。だから死に物狂い。


 皐月は身を粉にして、ゴールに立ちはだかり続けた。


 その粘りがチャンスの糸を手繰り寄せる。





 ——練習中、香苗が俺のところへアドバイスを求めにきた。


「えっと、監督……質問があるんだけど」


 最近、キープ力を身につけた香苗には安定感が出始めていたが、怖さと言う点では物足りなさを感じるのも事実であった。


「君にキープ力を身につけて欲しかったのは、攻撃の選択肢を増やすため。でもな、別に自分で行かなくてもいいルールなんてないんだ」


「それはわかるけど……」


「自分を信じろ。ミスしても周りが助けてくれる」


 香苗は頷くと、


「一個だけ教えて欲しいことが。その……月見健吾の、必殺技を……」


「……あれは封印した」


「なんで!?」


「そもそも俺が命名したもんじゃないし。なかなか中二っぽくてだな……」


「そこをなんとか! どうかお弟子に! パシリでもなんでもしますから! 突破できる選択肢が増えれば、もっとチームに幅が出ると思うから!」


「しゃーなしだぞ。だが、この技の名前だけは口外するなよ」


「クレッセントターンきた!」


「………………」


「あ、ごめんってば!」


 不器用ながらも確かな一歩を踏み出して——。





 そうして、一つ、また一つと自分の選択肢を増やした香苗は、ディフェンスを背負いつつも、〝三日月クレッセントターン〟で抜け出した。


 弟子が成長する姿はいいものだ。


 香苗はゴール前まで侵入し、上がってきた杏奈へと折り返す。だが、TGAもギリギリで飛び込んでこれをカット。


「今のは自分で行けよな。次の課題だぞ、香苗」


 TGAはビルドアップ。淡白かつ少ないパスにドリブルでの変化を加えた攻撃が、あっという間に前線まで繋がった。


 完全に開いたスペースを突かれる。





 ——グラウンドでは鎧が走っていた。


「うぉぉぉぉ——————————————————————っ!!」


 と、奇声を放っているもんだから、完全な不審者である。


 俺は警備さんに連絡をしようと携帯を耳に当てたところで。


「ちょい待ちぃ!」


 と、鎧が突っ込んでくる。


 兜を取ると、中から汗だくの杏奈が顔を出した。


「……次の漫才大会への調整?」


「んなわけあるか! これは負荷をかけつつのラントレやで!」


「だからってなぜ鎧?」


「そこに鎧があったからや」


 そういや、クラブハウスの備品が盗難にあったなんて噂があった気がする。


 やっぱり警備さんに連絡した方がいいんじゃ……。


「ほら、エチオピアのランナーとかは高山で低酸素トレーニングするって言うやん? この兜を被れば、酸素が減って一石三鳥やで!」


「……程々にな。あと、倒れても知らんぞ」


「そうは言いつつも、知ってんねんで。監督はツンデレやってな」


 ちょんちょんと肩を突かれ、杏奈は俺の持っていたスポーツドリンクをさした。


「しかしな、鎧さんにも欠点があるんや。この太っといお手手じゃ蓋を開けれんのやで。あー、ウチはドリンクが飲みたいんやで〜。今飲まんと、ぶっ倒れてしまいそうや〜」


 俺は嘆息し、仕方なく杏奈に飲ませてやった。


 すると、ニタニタ顔。


「な、なんだよ?」


 杏奈は大声をあげた。


「間接キスいただきマウス!」


「なっ、おま!」


 そうしてわーわー叫びながら逃げ惑う杏奈を俺が追いかける構図。


 そんな日々を繰り返し、いつの間にか俺ですらも追いつけなくなった——。





 TGAの8番がサイドを突破したが、これを怪鳥が捕まえた。何度でも駆け上がり、何度でも追いついてくる。まさに不死鳥。これほど怖い選手はいない。

 怯んだTGA8番は一旦ゲームを組み立て直す。





 ——練習後、事務所に向かおうとした時「監督」と呼び止められた。


 振り返ると、かぶき者がいた。顔を真っ白に塗って、赤いラインを施した化粧。


「……なにしてんの、萌」


「あれー、驚くと思ったんだけどなー」


「いや、十分驚いてるが、理解できなさすぎて言葉が出てこない」


 どうにも萌には悪戯っ子の節があった。


「芽がこれなら監督を笑わせられるってメイクしてくれたんだよ」


 芽は涼しい顔をして悪戯っ子の節があった。


 その芽は廊下の陰からこちらの様子を伺っていた。


「……お前ら暇なの?」


「三連敗して監督怖い顔してるから。このメイクみたいに」


「俺のことはいいから——」


 しかしふと思いつく。


「おーい、芽、全員を食堂に集めてくれ。を紹介しようぜ!」


 すると芽は頼もしく、しかし悪い顔をした。


 そうして俺たちは食堂に向かい、小ネタを披露した。だだ滑りだった——。





 とはいえ、常に出し抜くことを考えている萌は、TGAにも負けずと劣らない積極的な守備で、インターセプト。

 攻撃に転じたイシュタルFCのポゼッションが活気付く。





 ——夜遅く、部屋を訪ねたのは紫苑だった。


 ここ最近、サイドハーフでの起用が多くなった彼女は、サッカー書籍を借りようとやってくる。自分の部屋で読めばいいものを、「お茶煎れて」と監督をこき使う始末。


「私、やっぱり中盤は合ってないと思うの」


「だろうな」


「だったら風見鶏さんを使う方がバランス的に良くない?」


「確かに舞も優れた選手だが、紫苑の決定力は先発で使いたい」


 目を丸くしたあと、視線を逸らした紫苑は俯いて頬を赤くしていた。


「紫苑は素直すぎるところがあるよな」


「はあ!? 私のどこかデレてるって言うのよ!?」


 いや、そういうとこなんだけど。


「君はさ、もっと悪い女になってもいいと思う」


「佐竹さんみたいな?」


「なんであの人が出てくる」


「純粋無垢そうな顔して腹の底は読めないみたいな」


「まー、そんな感じだ。つまり相手の嫌がることをしろってこと。紫苑は案外チームメイト思いだけれど、俺を顎で使うみたいにさ」


「チームメイト思いなんかじゃないし、バカじゃないの……」


「一途にゴールへ向かうのも君のいいところだけれどさ、君は周りを振り回すくらいでいいんだよ。それだけのものを持ってる」


 しおらしく紫苑は頷いた——。





 萌から一気に逆サイドの紫苑へ。

 突破を警戒した相手6番が紫苑に釣られて中へ絞ってくる。

 そこへ、背後へのヒールパス。





 ——一日の疲れを癒そうと、風呂に入っている時。


 ガラリと扉が開いて、まだ練習着姿の彩香が姿を見せた。


「——っ、彩香さん!?」


 動揺する俺に対して、真顔の彩香はメモを携えたまま、グイッと俺に顔を寄せる。


「今のままじゃダメだと思うんです。だから必要なものを教えてください」


「あとにしませんか?」


「ダメ。時間はいくら合っても足りません。今日、皆んなに私の足りないところを聞いてきました。最後は監督です。このミッションを終えないと、ぐっすり眠れません」


 そのストイックな姿勢は彼女らしいが、時と場合というものを覚えて欲しいものである。


「今日はまだウェイトも終わっていなくて、次の試合の予習もしてない。ああ!? もう十二時に差し掛かってます! このままじゃ明日のスケジュールまで押してしまうぅ!?」


 彼女は真面目だが、真面目すぎて融通が利かないのが玉に瑕。


「そうです! ここはスケジュールの効率化を!」


 と言って、一旦姿を消した彼女はバスタオルを巻いて浴槽にどぽん。


「彩香さん……?」


「玉の小さい男ですよ、監督。私は混浴くらい気にしません。そもそも監督のことを異性としては見ていませんし」


 それはそれで傷ついた。


「ささ、私の課題を話してください」


 グイッと顔を寄せられる。


 どうせ俺に拒否権はなかった。


「攻撃参加、だな。貴重な左利きレフティだし君の可能性を広げるためにも、ここぞという場面で前に出られたら大きいな」


「でも、スリーバックの一角が前に出るなんて常識外れだと思いますけど」


「ディフェンスが攻撃参加しないなんてルールもない。なんならキーパーもガンガン前に出ていいと俺は思ってる」


「でももし、失敗したら……」


「最強の双子コンビならなんとかしてくれるだろ」


「そんな風に楽観的にはなれません」


「ま、最初に直すとしたらそっからだよな」


 俺たちはのぼせるまで話し合った——。





 その彩香が。

 中へ切り込んだ紫苑からさらに外側へ出されたボールを彩香が受け取った。

 これまでのデータにはない攻撃。TGAの頭では完全にノーマークだった存在。

 だからこそ出し抜けた。

 アーリークロスから香苗に合わせるが、これはコースを絞られ、キーパー正面。

 TGAの11番と芽が競り合う。





 ——次の試合対策を考えていると、いつの間にか夜が明けてしまい、腹が減った俺は食堂に向かった。


 いつもは萌と一緒にいることが多い芽だが、次節の出場停止が決まっていた彼女は一人でいることが多かった。


 俺はご飯をよそって、隣に腰を下ろした。


「珍しいな、芽が一人でいるなんて」


「うん、ちょっと考え事」


「悩みか?」


「まあそんなとこ。ほら私たちって二人で一人みたいなところあるから。今回のことは独り立ちするいい機会なんじゃないかって。お互いに」


「別にいいと思うけどな。ずっと一緒でも」


「でも、萌には迷惑かけてるし。いつか、離れ離れになる日も来るかもしれないから。私も萌みたいな読みのセンスとか、コーチングとか、いろいろ覚えなきゃって」


 お膳のそばにはサッカーの本があった。


「正直、萌のこと羨ましいと思ってた。私にないもの持ってて、頼りになる」


「たぶんあいつも同じように思ってるんじゃないのか?」


「萌は結構飄々としたとこあるから。割り切ってると思う」


「頼っていいんだよ。誰もが完璧じゃない。萌だって芽のこと頼りにしてる」


「ねね、なんの話?」


 と、割り込んで来た萌は芽を抱きしめ、屈託ない笑顔を向ける。


「芽が萌を頼りにしてるって話」


「そうなんだー。萌も芽ちゃんのこと頼りにしてるよー、えへへぇ」


 無邪気な萌に対して、ほっと安心していた芽。


 この二人は切っても切り離せない——。





 後ろを必ずカバーしてくれるからという信頼が、芽の能力を十分に活かす。

 競り勝った芽から、心美がセカンドボールを拾った。





 ——食堂の供用である冷蔵庫を開けると、心美が冷蔵されていた。


「……なにしてんの?」


「……監督ぅ〜、お菓子なくなったのぉ〜」


 ベソを掻いてしがみついてくる。


「だからって冷やされるなよ! 腹壊すぞ?」


「お腹減ったぁー。最近ね、食べても食べても太らないの。食べても食べてもお腹減るの」


「そりゃ最近、運動量も多いしな」


「ご飯作って! わん!」


「そんな犬みたいに言われても」


 心美はお手をした。


「作ってくれないと、監督の骨を食べちゃうわん。それに約束したよね!? いくらでも食わせてくれるって! 俺の嫁にするって!」


「そこまでは言ってねえ!」


「月見家のペットでいいから! ご飯だけ食わせてくれればいいから! あと、散歩してくれればいいから! 芸もちゃんと覚えるから!」


「言ったな?」


「わんわん!」


 そうして俺は心美のおやつ係になった。


 低カロリーなカボチャパイをご馳走すると、心美は幸せそうに笑顔を零していた。


「まあでも心美は技術に関して大体揃ってるからな。あとはゲームの流れを読んで、リズムの変化。自分で前に運んだり、積極的にシュートを狙ってもいい」


「お腹一杯になったら眠たくなった。おやすみぃ〜」


「聞けよ!」


「大丈夫。ちゃんと働いてあげるから。従順なわんこが芸をした時は褒めるもんだよ〜」


 そう言って心美は膝枕と頭なでなでを所望した。





 心美は一旦、由佳に預けると、珍しくデコイの動きに走った。縦横無尽に、従順なチームの下僕しもべとして。

 周囲も場所を入れ替えて、TGAの守備はかき乱された。

 その、微かな隙間に飛びこだのは。





 ——オフの夜、俺はいつも環にゲームに付き合わされていた。


「てかお前さ、あまり他のメンバーと一緒じゃないよな」


「天才とはいつも孤独なのだ」


「自分で天才と言い切れるところがすごいよな」


「そう言ってないと、孤独に潰されてしまうのだ」


「友達、いなかったのか?」


「月見健吾ならわかってくれると思うのにゃん。一夜にして天才はならず。いつもフラフラゲーム三昧と思われているかもしれないが、たまちゃんは影でそれなりに努力はしているのだ」


「まあ、努力をしてない奴なんてこの世界にはいないだろうが」


「監督はさ、本当にこのチームが優勝できると思っているのだ?」


「半々だな。俺も皆もそう信じているけれど、現実は厳しいと思う」


「たまちゃんは行けると思っているのだ」


 俺は目を丸くした。


「意外だな。君はもっと厳しい見方をしていると思っていたが」


「なんて言ったって、このチームにはたまちゃんがいるんだにゃん」


「自信家だな」


「ここは居心地がいいのだ。たまにはにゃんこも恩返しをしたくなるというもの」


 にゃんこは案外、義理高い——。





 由佳から出されたボールを環はダイレクトで外へ散らす。いち早く反応した杏奈が一気に駆け抜ける。放たれたシュートは、しかし相手のキーパーが弾き返した。


 TGAはボールを拾い、確実にキープしてから再び組み立てる。丁寧に紡がれたパスがTGAの10番に入った。


 その10番は自らで突破を図った。TGAらしからぬ攻撃。組織で勝負してくるTGAが個の力を頼るなんてことはそうそうない。だがTGAにしてみても、ここまで粘り強く食らいついてくる俺たちを崩せないと判断したのだろう。しかし決して個人技のないチームではない。そうでなければ、ここまで勝ち上がってはいない。


 マッチアップするのは由佳だった。





 ——イシュタルFCの解散が露見した夜、意思統一を果たしたはずだが、その後、由佳は行方不明になった。皆に動揺が伝わるからと、スタッフだけで探し回った。寮やクラブハウスのどこにもおらず、練習場やトレーニングルームにもいなかった。まさかとは思ったが、一応確認のため、タクシーを走らせて、俺はスタジアムに向かった。


 閉場したゲート前に彼女はいた。


「せめて、連絡くらいはしてくれ。君は女子なんだし——」


 振り返った彼女の瞳にはまだまだ流れ足りない涙があった。


 ひと時の沈黙を挟んで、由佳は腹の底から慟哭をあげた。


 簡単なはずがなかった。誰よりもチームを思ってきた由佳が、誰よりもチームを背負ってきた彼女が、そう簡単に切り替えられるはずがなかった。


「イヤだ!」


「ああ、俺もだ」


「私たちはまだなにも成し遂げていない! なのに! なのに! なのに!」


「だったらやり遂げよう」


「でも! いくら勝ったって無意味だ!」


「無意味なんかじゃない」


「どうして!? ねえ監督! 私たちはこれからなのにどうして!?」


「まだ終わってない。君の言う通り、まだ変えられる。俺たちはまだやれるんだ」


「もう無理だ! もう何度も私は限界を超えてきた! 皆んなも全部絞り出して、これ以上はもう引き出せない! ねえわかってる!? 私たちはここまでなの! 持ってるもの出し尽くして、これが限界なの!」


「だったら俺が! 俺が連れて行ってやる!」


「嘘だ! いくら監督にだってできないことはある!」


「確かにそうかもしれない。不可能なんてこの世に溢れている。だけれど、信じることを諦めた瞬間、本当に終わるんだよ! でもな由佳! 俺は諦めてねーぞ! 全っ然諦めてないからな! 想像してみろ。ここから俺たちが全部勝って優勝すれば、俺たちを放っておけるわけがない!」


「そんなの奇跡でも起きないと無理だ!」


「だったら奇跡を起こそうぜ! 誰でもない俺たちで!」


 それは純粋無垢な気持ちだった。


「俺は信じてるぞ! それができるって! 君たちなら絶望をひっくり返せるって! ずっと君たちを見てきた俺が言うんだから間違いない! 俺たちが変えなきゃ誰が変えるんだよ! お前が戦わなくて誰が戦うんだよ! 俺はお前らと優勝したい!」


 そこで俺は熱した感情を落ち着けた。


「なあ由佳、俺に力を貸してくれ。君が必要だ」


 顔をくしゃくしゃっとさせ、由佳はコクリと頷いた。しゃくり上げるように泣きながら、何度も何度も頷いた。


「……勝ちたいよ。勝って生き残りたいよぉ監督……。このチームを……無くしたくない」


 泣きじゃくる由佳に、俺はそっと歩み寄り頭に手を置いた。


「ここが俺たちのホームだ。俺たちで帰る場所を守ろう」





 ——10番に厳しく寄せた由佳は、振り切られそうになりながらも、ボールを奪取。


 そこからの展開が圧巻だった。


 環、真穂、心美からの杏奈。


 一連の流れは、全員がトップスピードのままボールは渡り、TGAの強固な守備は完全に崩れた。


 杏奈は中へ折り返し、そこにはフィニッシャーの紫苑が待ち構える。完全に通ったはずのボールをTGAのCBが読み切ってこれをカットされた。


 一瞬、脳裏に過ぎったことだろう。


 絶望が。


 持てるものを出し尽くして。


 今まで自分たちが信じていたものをすべて使って。


 それでも得点に結びつかなかった。


 幸いだったのは、TGAがビルドアップを図ろうとしたところで前半終了のホイッスルが鳴ったことだった。





 ハーフタイム、引き揚げてくる選手たちの顔色には悔しさと一種の諦めさえ浮かんでいた。


 本当に出し尽くしたのだ。紫苑の突破も、杏奈の足も、香苗のキープも、環の閃きや、心美のロングパスも使って、崩せなかった。いや一旦は崩しはしたが、TGAを完全には崩せなかった。


 ここが限界だと。


 そんな思いが透けて見える。


 点が取れなければ勝てはしない。引き分けでは俺たちに優勝はない。


 選手たちは俯いていた。


「まだ終わってないぞ」


 と、声をかけたが返事はなかった。


「前半封じられたのは、TGAの分析と戦術によって今までの俺たちが対策されたことだ」


 わずかに顔をあげた選手たちだったが、まだ表情には影があった。


「だったら後半、さらに上を行けばいい」


 俺たちは何試合も前から試した新しいシステムを使っていた。当然、それを結城が対策しないわけがない。


「でも——」


「由佳。でもはなしだ。俺が進化させてやる。俺の声を聞け」


 彼女たちの表情に血色が戻り始めた。


「この前半でTGAをぶっ倒すシナリオがいくつもできた」


 俺は自身の頭を指差して、不適に笑う。







 俺はタッチラインギリギリに立ち、放った。


「心美!」


 TGAがビルドアップを見せた時、彼女の名前を呼び、TGAのルートを断つ。


「萌!」


 一つルートを消されて、次の選択をしたTGAの行先に萌えを配置。これをカット。


「環!」


 環から、


「真穂!」


 ゴールへの解。その道筋を真穂は見てくれているはずだった。


 しかし。


加藤かとう!」


 結城もまた選手に指示を出し、6番を当ててくる。


 インターセプトされ、攻守交代。


「杏奈!」

宍戸ししど!」


 俺が杏奈を使えば、結城は8番を当ててくる。


「由佳!」

工藤くどう!」


 由佳がプレスして奪取したすぐ、6番にチェイスさせた。


「紫苑!」

松下まつした!」


 スペースの潰し合い。

 先の先の読み合い。


「芽!」

大牟田おおむた!」


 彼女たちの残した軌跡が今日のゲームを意味あるものとした。消化試合にはさせず、まだ俺たちに先はあるのだと繋げてくれた。


 だから今度は。


 俺が連れて行っていやる。


 優勝へ、その先へ、世界へ。


平岡ひらおか!」

「萌!」


坂下さかした!」

「由佳!」


 試合の流れが加速する。


 結城と俺との頭の中ではたった一点を取るための読み合いが行われていた。


飯田いいだ!」

「環!」


 コートの盤上で俺と結城は互いの駒を操り合う。そこに意思はない。選手たちは、指揮官の――王様の思考を理解してただ従順。いや、意思があろうとなくとも、それが最善で最適解であることを、少し遅れて選手たちも気付くのである。


 だから実現する。

 指揮官の声に動かされる。


 違う過程を辿り、同じ戦術論に行き着いたチーム。一つとして同じ選手のいないコートという盤上で繰り広げられるサッカーゲーム。一つのミスが、判断の遅れが、刻一刻と進みゆく時間の中で命取り。


 そんなものが実現している理由はただ一つの——絆。

 信頼を根拠にして、動かされゆく。


 崩しかけても防ぎ、崩されかけても


 だが理想を追えば追うほど、その思考を共有しようとすれば、頭にも体にも強烈な負荷がかかる。


 先に綻びが見え始めたのは、イシュタルFCだった。


「心——いや、彩香!」

三島みしま!」


 後半も半ばに差し掛かって、苦しい時間帯。体力の差、能力の差、それが顕著に現れ始め、TGAの11番が完全に崩しにかかった。


 組織力の差。


 結城の理想を実現できる、チーム力が一枚も二枚も上手だった。


 やられた——。


 そう脳裏に過ぎったが、ゴールには結びつかなかった。確実に一点というシュートを皐月が執念で止めた。


 まだ——まだだ。


 そう選手が教えてくれた。


「——彩香!」


 から、香苗。

 さらに香苗は落として、環。


 その絵は俺にも見えていたが、俺が指示を入れる前に繋がった。


 


 俺と結城のサッカーに対する考え方の違いが、土壇場に来てある意味でパラレルワールドを生み出した。


 分岐点。


 同じサッカーだが少し違う。

 そしてこの先に一方の世界は潰える。


 結城はサッカーをチェスになぞらえていたが、俺はサッカーを将棋のようだと思っている。


 両者の大きな違いは。

 駒が成れるか死ぬかの違い。


 選手たちは決して駒ではない。

 ここに生きている感情を持った人間。


 成長しないわけがない。


黒沢くろさわ!」


 しかし結城はそれすらも読み、封じにかかった。どこまでも恐ろしい男だった。


「杏奈!」


 杏奈の足は、いつも俺の想像を超えてきた。


 その杏奈からクロスが上がる。


 香苗の高さは誰にも負けない。


 けれどもこれをTGAのキーパーが弾く。


 TGAも執念深かった。


「由佳!」


 チームの大黒柱として由佳には負担を敷いてきた。


 その彼女が抜かれ、心美がカバーに入る。


 献身的に相方を支え、再び奪い返す。


 彼女たちは、常に苦難を乗り越え、その度に何度も孵化を繰り返した。


「なあ、結城さん。あんたには見えているか? この道筋が」


 ちらりと、TGAベンチに視線を向けると、結城はほくそ笑んでいた。


 勝利を確信しているようだった。


 ああ、俺にもあんたの見えている勝利は見えているよ。


坂下さかした!」


 と10番の名を読んで、ゴールまでの道筋を防ぎにかかった。


「ああ、そうだろうさ。あんたはきっとそうするだろう」


 俺も同じ選択をした。

 俺ならば環を使った。





 ——ゲーム前、小さな少女はこう言った。


「連れて行ってあげる」


 その一言で十分だった。俺は最後の最後で彼女に託すことを決めていた。


 そのための布石。

 そのための演出。


 彼女が仕事をしやすいように、俺は、俺たちはただ道を開けてやればよかった。


 きっと彼女なら誰もが想像しない世界を見せてくれる。




 真穂は魔法のアレンジを加えた。

 それは想像を超えるパスだった。




 




 蹴出したボールを自分で受け取り、一人二人とかわした。




 真穂はTGAディフェンスを掻い潜った。

 真穂は優しくゴールへと導いた。





 その一点が決勝点となった。

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