軌跡(8)

 ハーフタイムに基本の確認と、改めて3-6-1可変システムの動きの確認をすれば十五分なんてものはあっという間に過ぎていった。


 メンバーチェンジはしなかった。今の十一人で作った流れを崩したくはなかった。


 だが、


「準備しとけよ、真穂。絶対大事な場面で行くからな」


 ウォームアップに向かおうとしていた真穂は振り返った。


 ウェアを脱いで悪戯っ子みたいな笑みを浮かた。


「最終兵器言うなし」


 試合の方は、イシュタルFCのペースで動いていた。


 果たして宮瀬の分析が当たったのか、はたまた土壇場の逆境に一二〇の力が出ていたのかは定かではない。正直、どっちだっていい。確かなのは、前半では凄まじいばかりだった埼玉の勢いが確実に削がれたと言うこと。


 いや、それは偏に。


 完全変態メタモルフォーシスを終えた掛川由佳という選手が埼玉の10番を完璧に抑え始めていたからだった。


 まるでそれは。


 細胞組織を一度溶かし、自らを再アレンジする過程を経るような。


 蛹から蝶へ。


 チームメイトの信頼、期待、重圧――それらに応えようとして、力強く羽ばたく。


 命を吹き込む。


 ボール奪取から一気に杏奈へ。しかし飛び方を覚えたばかりの蝶は、やや不安定。珍しく軌道がずれたが、しかしこれを我らが杏奈はただのパスミスにしなかった。


 ゴールラインすれすれまでのほとんど一〇〇メートルを駆け抜けて、マイナス方向への折り返し。


 詰めてくるディフェンスを、柔らかいタッチで角度をつけて心美がミドルを放つ。


 が、惜しくもバーに阻まれる。


 チャンスの後には一転、ピンチが訪れる。


 少ないタッチで前線まで運ばれ、10番と11番のコンビネーションプレー。


「球離れを早くしてきましたね」


 じっくりしてると取られかねなくなったことに気づいたのだ。


「向こうはいくつも攻撃コマンドを用意してたんだろう」


 芽と11が競り合いながら、こちらも強烈なミドルを放たれる。


 再びバーに弾かれた。


 サッカーの女神様は、この試合、簡単に勝敗をつけさせる気はないらしい。


 カウンターにカウンターの応酬。ゲーム展開が目まぐるしくなった。人と人との間を、慌ただしくボールが行き交う。


 予測合戦だった。


 今、コートの中にいる二十二人の頭の中は凄まじい勢いで回っていることだろう。次の次のそのまた次を読む。一つではなく二つ。二つからさらに二つといった風に、樹形図が枝葉を広げて、何万通りという最適解を計算し合っていた。


 パスが通ればそれは正解。


 このコート上で不正解を叩き出す者はいなかった。


「なんですか……このゲームは……」


 だがその正解を先読みして、が生み出されていたのだ。


 例えばボクサー同士が同時にパンチを繰り出して両方ともガードしながら次のパンチを繰り出すような攻防。


 けれどそんな殴り合いも長くは続かない。


 まずリズムを変えたのは、超超高速な流れにあえて不正解のワンテンポを交えたのが環。しかしこれは正解だった。これまたディフェンダーを近くに背負って不正解な舞にボールが入り、彼女は風向きを変えた。これも正解。風を受けて翩翻する風見鶏のように、舞はくるりとターンを交えた。


 ディフェンスの間にある狭いところへ、地雷原にでも飛び込むように。


 ボールは舞の足を吸い付いて離れず、ディデンダーは立ち尽くしていた。


 抜け出す舞。


 独走体制に思われたが、これを読んでいたかのように10番が最終ラインを超えて戻り、潰しにかかった。


「埼玉の10番は俺たちの世界に追いついてきた。だが、俺らの世界は俺らだけのもんだ」


 援護は二枚。左右には紫苑と杏奈がすでにスタンバっていた。後ろの香苗と環も加えれば選択肢は四つ。自身で行き切るのも勘定すれば五つ。


 それだけの選択肢があれば、10番もキーパーも迷わざるを得なかった。


 その一瞬が命取り。


 果たして舞は自分でキーパーを抜き切って、同点弾を決めたのだった。そこに至るまで残した轍はほとんど一直線だった。迷いなく、ただゴールへの執念が生み出した一点。


「行こうか、真穂」


「待ちくたびれたぞ、監督」


「暴れてこい」


「がおーっ」


 真穂を投入したタイミングで、埼玉も選手を変えてきた。埼玉も後ろを固めてチャンスに備えることはしなかった。変化を加えるドリブラーを投入し、俄然強力な個が加わる。同点弾を許し、臆するようなチームではなかった。埼玉はそのフレッシュな選手を使って、攻めの姿勢を強く見せる。今まで以上に個人技で攻め立てる。これを由香が厳しいコンタクト。けれども相手は一枚上手。抜かれそうになったところに彩香が援護に回る。しかし10番はギリギリまで引きつけて、スペースに出す。完全にスペースは空いていたが、同じくそのスペースを読んでいた萌が飛び出す。コーナーキック。11番が頭で流してフォアに流れる。これを杏奈がヘディングで弾き返した。拾ったのは真穂。ハードな当たりに体勢を何度も崩しながらもボールだけは離さない。助けにきた環にボールが出され、例の如く杏奈のオーバーラップ。埼玉はサイドを警戒。しかし環は杏奈を囮にして自身で突破を図る。ディフェンダーが対応を変えて寄せてきたところに、再び真穂。蛇行しながらもじわりじわりと前へ運ぶ。再び環。ボール運びと、引きつけて繰り返される二人のコンビネーションプレー。一人で抜けなければ二人で。まるで真穂と環の間には運命の赤い糸でも結ばれているかのように、二人はボールに愛されて離れない。翻弄されることに焦りを持った埼玉は、真穂を押してしまった。


 フリーキック。

 距離は三〇メートル弱。


 キッカーは――。


 俺は時計を見た。

 残りは五分を切っていた。


 真穂は由佳にボールを託した。由佳はほんのひと時、目を閉じ、意識を集中させる。


 静寂がスタジアムを包み込む。


 イシュタルサポーターは手を組んで祈りを込め、埼玉サポーターも固唾を飲む。


 ホイッスルが鳴らされ、助走に入った。ラストチャンスになるかもしれないこのフリーキックを、誰しもが直接狙ってくると思ったことだろう。実際、由佳が蹴ったボールは強く鋭く、ゴールの枠を捉えていた。キーパーは軌道を読み、パンチング体勢。強烈な回転をかけられたボールは左巻きに曲がっていく。


 しかし直前でコースが変わり、


 


 野獣の咆哮がスタンドの彼方へ突き抜ける。


 キックと同時に密集したエリアで頭一つ飛び抜けたのは。


 香苗だった。

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