軌跡(7)

 前半半ばを迎えても埼玉の怒涛の攻撃は止まらない。うちのディフェンスは辛うじて喰らいついているだけ。


 シュートを次々に放たれた。


 奇しくも得点には至らなかったが。


「正直、我々にはただ幸運によって命拾いをしていると言っても過言ではありません……何か、起死回生の作戦が思いつけばいいのですが」


 そんなものがあれば既にやっていた。由佳が何度も翻弄され、そのフォローに心美が回れば開いたスペースを狙われる悪循環。


「ねえ監督、本当にそうなのかな?」


 と、真穂は首を傾げながら口にした。


「真穂、どういうことですか?」


「うん、運っていうよりも……今のはダジャレじゃないからね? ともかく、運がいいっていうより、これが普通なんじゃないの? なんていうか、うまく言葉にできないし、ベンチから見ているからそう感じるだけなのかもしれないけど、見た目ほど怖さはないっていうか」


 確かに埼玉の攻撃には派手さがある。


 恐ろしいスピードがある。


 そんな攻撃を目の当たりにしたら、実際戦っている選手たちには見た目以上の恐怖感が植え付けられてしまうこともあろう。


 赤い悪魔たちレッドデビルズ、とは言い得て妙か。


「監督……」


 と、さっきからタブレットを真剣に見ていた宮瀬コーチが顔を青白くさせながら言った。


「これを見てください――」


 宮瀬に手渡された端末を見て、俺は首を傾いだ。


 そこに表示されているのは埼玉のチームデータだった。


 宮瀬が示したのは得点率。

 改めて見ても驚異的だ。


 一試合得点率は二・八点。


 サッカーにおいて三点は勝敗を大きく左右する。


「しかし埼玉のはそんなに良くはありません」


 この人は何を言っているのだろう。


「データは嘘をつかない。データは正義だ」


「埼玉の特徴は、数の暴力です。数打ちゃ当たる。


 埼玉というチーム、もといフォワード二人の得点率はさほど高くない。枠に入った時の決定率は高いのだが、ここから読み取れるのは、強引に打ってくるということ。


 しかし驚異的なのは決定率の方ではなく、シュート本数だ。


 毎試合、二〇本近いシュート本数。

 ともすれば、決定率は約一・四割。


 これを高くないと見る人によっちゃそう取られるかもしれない。

 だが、実際化け物じみているのは。


 


 俺たちは計算機の中でサッっかーをやっているわけではない。その数字を実現し続けていることに対して空恐ろしさを感じるのである。その結果に至る過程に黄金の配分——つまりは埼玉の作り上げるサッカーが凄まじいということなのである。


 何よりも嫌なのが、前後半で二〇本ということは。

 およそ五分間隔でシュートが飛んでくる。


 埼玉はカウンター主体のチームではないので、その五分間の間に守備に奔走しなければならない。ともすれば、手足を縛られてタコ殴りにされているようなものである。


「計算して気づいたことがあります。


 やっぱり俺は首を傾げた。


「見栄えするスピード、積極的な突破、ド派手なシュートによって、我々は錯覚させられていたんです」


 そう言って宮瀬は表計算ソフトを見せた。


 さっきまで首を傾げていた俺は眉間にしわを寄せていた。


『3・5』という数字が浮かんでいた。


「これが埼玉の勝率を上げる必要得点数です」


 盲点だった。数字のトリックだった。いや、印象というべきか。


「三点取れりゃ、まだわかりませんよ」


 埼玉の場合は三点以上取った場合に勝利期待値が上がってくるとのことだった。


 つまり、取られるし取られるチームだ。


 データは嘘をつかなかった。いや、データ信仰が埼玉・レッドデビルズという亡霊を作り上げてしまっていたのかもしれない。


 決して埼玉は毎試合に必ず三得点を取って勝って来たわけではないのだ。五点も六点も取って勝つような試合もあれば、スコアレスで負けている試合や、大量に点を取って負けている試合だってあった。


 だが逆にそのデータを客観的に見つめ直せば、悪魔の薄皮くらいは剥がせた気がする。


「何よりもの証拠は、埼玉だって全戦全勝なわけではないんですよ。そして我々が相手にしているのは悪魔ではなく、サッカーの上手い人間なんです」


「だが……今さら事実を確認したところで苦しいことには変わりない」


 俺は弱音を吐き出した。ここまでの議論は机上の空論でしかない。現実に勝利の完全なる方程式なぞ存在はしえない。


「ところで、月見監督」


 と、宮瀬は不意を突いた。


 寄っていた俺の眉間が指で小突かれた。


「さっきから怖い顔してますよ」


 彼女は無邪気な笑顔を作って見せ、あれ、この人こんなキャラだっけなと、意外性を見せつけられた俺はきょとん。


 ……ああでもそうか。


 宮瀬コーチはおそらく、まず苦手意識を払拭してくれようとしたのか。


「……二人とも、今はゲーム中ですよ? ラブコメみたいなことしないでください」


 と、真賀田コーチの指摘で現実に還る。

 宮瀬は「こほん」と演技じみた咳払いをして、


「元キーパーから一つ言えることは、枠外のシュートは怖くありません。また、優秀な目を持っているキーパーなら枠内か枠外かの判断はすぐにできます」


 改めて、さっき真穂が言っていた『見た目ほどの怖さはない』という言葉に根拠が示されたのだった。


「しかし埼玉が優れたチームであることは変わらず、あるいは弱点があったにせよ、結局私たちのやることは変わりません。苦しい時こそシンプルに、そして初心に戻りましょう。ね、真賀田コーチ」


「ええ、そうですね。基本に立ち返りましょう。元ディフェンダーから言えることは、シュートを打たせないこと」


「相手をフリーにしない」


「縦パスを入れさせない」


「前を向かせない」


「それでも出し抜かれればフォローに入って、最悪コースは閉める」


 と、コーチ二人が守備の基本を確認していく。


「やれることをやった後でもやられた時は開き直って、相手を褒めるしかありません」


「取られた時は取り返す!」


 そこは根性論なんだ。


 でもま、二人の言う通りだった。


 これまでやってきたこと以上のことはできない。


 俺はタッチライン際に立ち、大きく息を吸った。


「マーク確認!」


 続けて、真賀田コーチ。


「プレス、ワンサイド締める!」


 さらに宮瀬が続く。


「周囲の状況確認怠らず! コース限定!」


 次いで真穂。


「声掛け忘れない!」


 するとサブメンバーも加わった。


「攻める意識忘れない!」「サイド空いてるよ!」「味方のケアしっかり!」「落ち着いて! まだやれるよ!」


 それは、いつも由佳に支えられてきたからこそ、今苦しんでいる彼女に少しでも力になろうとした純粋な気持ちだった。


 頑張れと言うのは簡単だ。それがファンからの声援だったら大いなる力になろう。だけれど、一緒に戦っている俺たちがそんな無責任なことは言えない。


 チームの解散を聞いた時、由佳は一番最初に声をあげた。このチームに未来がないと知りながらも、ここまでチームを引っ張ってきたのだ。


 できればもっと彼女に力を与えたかった。


 なあ、由佳。ごめんな、俺の力不足で。ごめんな、皆。この場所を残せてやれなくて。


 そう思わない日はここ最近ずっとなかった。


 俺でさえ、眠れない日が続いたのだ。


 彼女たち――選手たちがは気づいていた。悔しさを噛むもの、あるいは残り時間を自身のレベルアップに費やしたり、チームを勝利に導こうと考えたり、色々だろう。


 俺たちがその場所にたどり着くにはまだまだ実力不足かもしれない。


 けれど皐月は、持ち前の気迫と反応の良さで守護神として貢献し、


 萌は的確な読みとカバーリングで最終ラインを統率し、


 芽は身体能力の高さで一対一には強く、


 彩香は地味ながら豊富な運動力で危険を防ぎ、


 心美はボディバランスとパスセンスでゲームメイクをして、


 そこに環が軽妙なリズム与え、


 舞が切れ味鋭いボール運びでわずかな隙を作り、


 新たに武器を得た香苗が前線でディフェンスを引き寄せ、


 そうして右サイドの俊足がクロスを上げ、


 頼りになるエースストライカーが主砲を振り抜いた。


 彼女たちは。

 自分たちにできることを一〇〇%使って。

 由佳に、このチームに。


 まだやれることを示した。


 たった一点に、俺たちは何百人、何千人といるサポーターたちよりも狂喜乱舞していたことだろう。


 負けたくない。

 負けられない。


 俺たちはここに軌跡を確かに残すのだ。


 俺は。

 拳を由佳に向けた。


「次はお前の番だ」


 由佳は頬を拭うと、拳を突き返した。

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