極夜(7)
ロッカールームに戻ってくるなり、杏奈は拳を叩きつけた。
皆の前で自分の感情を出す杏奈を初めて見た。それだけ悔しかったのだろう。このままやられっぱなしではメンタルに響きかねない。確かに他の守備的な選手は安定するだろうが、杏奈に抜けられると、攻撃力が落ちる。
引っ張れるまで引っ張るしかない。
俺はいくつかの確認事項を済ませ、メンバーの交代を告げた。準備していた環は動じていない様子だが、交代を告げられた真穂は相当ショックを受けていた。代えられた事実よりも、代えられざるを得なかった自覚があるからこそ、不甲斐なさを悔やむしかない。
「後半のテンポ、早くするぞ」
「環ちゃんはトップドS下なのだ」
後半開始早々、宣言通り環を軸とした中盤での早いパス回しが行われ、湘南ディフェンスを翻弄。抜け出した杏奈がお世辞にも綺麗とはいえないクロスを上げ、これを香苗が苦しい体勢ながら合わせるが、わずかにゴールを外れた。
それから再び杏奈と9番の勝負。
「また……」
杏奈が抜かれた。
「大丈夫、ケアできてる」
今度は萌が抑え込み、ボールを奪取。一旦皐月まで下げ、三岳を経由。
環が中央に受けに来て、散らす。舞が再び環に戻した。
「さすがに一辺倒では読まれてしまいます」
「実際、今の場面、杏奈へのパスをカットしようと相手は準備していた」
しかしそれをわかっていながら、杏奈はオーバーラップを辞めなかった。絶対にこないボールだとわかっていながら。
誰も見ていないのに杏奈は自分にできることを辞めなかった。
「たぶん舞は布石を売ってる」
「布石、ですか?」
イシュタルFCは相手の守備を崩そうと、逆サイドへと展開するがこれをしっかり閉じられ、いったん作り直し。
「自分の武器と杏奈の武器を理解してる。別に杏奈が抜けきれなくてもいい。あいつが振り回してくれることで終盤、確実に舞は飛べる」
「思惑はわかりますが、交代されたら元の木阿弥でしょうに」
杏奈も舞も変化をつけようと、中への切り込みを見せたりしたが、これを湘南はきっちりと処理。再びピンチがやってくる。11番のポストプレーからトップ下の8番が揺さぶりをかけ、絶妙なスルーパスが放り込まれた。萌は振り切られたが、サイドに流れてくれたおかげでクロスを上げられた場面、中央に戻っていた杏奈が弾いた。
心美は一旦安全な三岳へ。
下がって受けたのは紫苑。
ワンタッチで環から由佳。
そのクッションを入れたことで、絶妙な逆サイドへのロングボールが放り込まれた。
怪速はもうそこにいた。
しかし相手サイドバックもしつこく寄せ、完全に抜け出しとはならなかった。フェイントから縦へ抜け出そうとするが、これを読まれてカットされた。
一転して絶体絶命。
幾度となくやられた失点パターン。
杏奈不在の右サイドには杏奈を超える9番が待ち構えていた。
その9番にボールが入る。
舞は懸命に時間稼ぎ。戻ってきた杏奈と二人掛かりは流石に嫌がったのか、9番は一旦中へ入れた。
これを読み切ったのが萌えだった。中盤のかなり高い位置にまで駆け込んで、インターセプト。読みが外れていれば、一気にオープンスペースを狙われかねないリスクの高い飛び出しだった。
縦の香苗に当て、前を向いていた環がボールを受けた。
ここ最近のイシュタルFCは中央の高い位置で仕事をさせてもらえなかったが、久しぶりにチャンスと予感できる
偏にそれは、右サイドの執拗な攻防を行ったことに生じた隙間。
環は左SBとCBの間の絶妙なスペースへ切り込んでから、二人が釣れたところへ、トップスピードに到達していた紫苑へ。ゴール前まで独走。しかしキーパーとCBがケアして、コースは塞がれる。
紫苑の中へ折り返した。
俺はゾッとした。
普通は戻って息を整える場面。次の守備に備える場面。なぜなら彼女はずっと走り通しだった。
飛び込んだのは――。
杏奈。
攻撃に出て、守備に戻り、再びのゴール前までのラン。もしもボールが切れなかったら、ほぼ確実にウチの右を抉られた。
だがそのリスクを承知で、杏奈は。
そこにボールが来ることを信じていた。
紫苑なら出してくれるだろうと信じて。
そして紫苑も援護が来てくれることを信じて。
一番遠い対角線上のホットライン。
ゴールに流し込んだ杏奈はガッツポーズを作り、珍しく雄叫びをあげた。
「ちょっとこれは、信じられないというか……」
真賀田コーチは目元を拭った。
杏奈は毛色の同じプレイヤーを相手にして、自分よりも強いことを知って、それでもただ唯一勝てるポイントで彼女は勝負したのだ。
その意地と姿勢に感化されないわけがない。頑張った杏奈を称えるようにゲーム再開後、彼女に息を入れさせるため、イシュタルFCは全員で厳しいプレスをかけた。
死に物狂いでサイドにボールを入れさせない。
「通常ディフェンダーとは安全策を取るべきです。点を取られなければ負けはしない。そして勝つために前線を信じて彼女たちにボールを預けるため、ラインを支える。それが何よりも、勝利への一歩です。ですが彼女は、ディフェンダーのセオリーを崩して、より苦しい勝負に出た。ああいう選手を私はあまり好きではないのですが……今回ばかりは感動を覚えてしまいます」
決して杏奈一人のワンマンプレーではない。キャラが薄いながらもひたむきな性格の舞が守備でも支えてくれたことで、杏奈の個性が十二分に活きたのだ。
後半の半ば、苦しくなってくる時間帯で、明らかに蓄積したダメージが見え始めていた。
杏奈に走らされ続けた湘南の右サイドは舞のテクニックに為す術なく。落ち着いてあげられたクロスを、完全フリーで受けた紫苑がワントラップからの綺麗なボレーシュートを決めた。
勝ち越し弾。
紫苑は逆サイドの舞へ、わざわざハイタッチをしに行った。
「舞は紬とは少し違いますね。ゴール近くまで切り込んでいた彼女に対して、舞はちょうどいいタイミングで確実な場所へ送り込む」
「あれ、真賀田さん知らないの? 紬は今、そーゆープレイでアシスト積み上げてるんだけど」
「海を越えたライバル……ですか」
「たぶんあいつはさ、舞は自分に自信がないから、頼りになる選手を使うんだよ」
「それでも今の舞がらしさを出せているのは、前節のプレーが大きいですね」
「一つあればいい。自分を信じられるものがたった一つでもあれば、戦える」
あいつらは、ウチの選手たちはそれを持っていた。
彼女たちが成長した時、それはかけがえのないものになる。
「もっと見ていたいですね……」
「ああ、その通りだよ」
終了間際、湘南の気迫が空回りして紫苑がPKを獲得。これを由佳がきっちりと決め、決定打となる。
久しぶりの勝利は勝ち点三以上に大きな自信へと繋がった。
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