夏の始まり(8)
誰もが理解できなかった。気づいた時には背負ったDFの股をボールが抜け、真穂は左サイドへの紫苑へボールを出そうとし、再び時が止まった。
いや。
実際的に時間が止まったということはもちろんない。けれど、俺たちの理解を超える現象が俺たちの認知機能を麻痺させて、まるで時が止まってしまったかのように思わせたのだ。
魔法のパス。
誰もが理解し得ないそのパスを、環だけは理解した。
右サイド。
体を向けていた左サイドとは真逆。
見ずにアウトサイドで引っ掛けたボールが環の足元に収まる。そして時間は絶対的に進んだ。ゴールへと向かう環のあとを追いかけるDF。スライディングタックルは、カード覚悟の厳しいものだった。だがボールは奪われなかった。環も倒されなかった。
行き先は再び真穂。
正面にはキーパーのみ。
難しい体勢だった。コースを限定され、隙間をつくには左足のそこしかないという場所を狙うしかなかった。利き足ではない。しかし真穂ならなんとかしてくれる。そう願った。
だが真穂は自分の右側で左足を抜いた。
現象としては見えているはずなのに、またもや何が起こったか理解した時にはゴールしたあとだった。
足をクロスさせたのだ。
モデル歩きのような体勢で、右側のボールを左足に当てた。そしてキーパーが限定していた狭いコースを抜いた。
キーパーは反応できなかった。
時が止まっていたというのはある意味正しい。
埼玉のサポーターが言葉を失っていた。
埼玉の選手たちも絶句していた。
「監督のアホぉ!」
と、叫びながらゴールした真穂は、俺に飛びついた。
よくやった。よくやったぞ真穂。お前は負けてない。お前はすげえよ。
「愛してるぞ、10番!」
全員が。キーパーの皐月も含めた全員が、俺に飛びかかった。
「愛されてるぞ、私!」
それだけ短くやりとりして、喜びそこそこに彼女たちはピッチへ戻った。
「……まるで優勝したみたいな喜びようでしたね。まだ負けてるんですよ? 四失点のたったの一得点なんですよ?」
「こっそり俺の背中に混じってたくせに、何言ってんの?」
「してません! 気のせいですよ!」
真賀田は顔を赤くしていた。
「おっぱい当ててたくせに。怒られるよ? 結城さんに」
「当ててません!」
ゲームが再開し、俺は背後を振り返った。夏希は涙を拭って、笑顔にピースサインを見せると、スタジアムの中へと消えていった。
——それが彼女を見かけた最後であることを知るのはのちのことである。
ハーフタイムに戻ってきた選手たちの血色はずいぶん良かった。
「えー、真穂の起死回生の一発が出たものの、まだ三点負けてます。後半ももっと点取られます。俺から言えることはありません」
「監督が責任放棄しとるで!」
「偉大なる真穂選手が頼りです」
「ふふん。皆の者、真穂を頼るのだ!」
すっかり鼻を高くしていた。
「と、このように天狗になっているので、お前らも負けんな。全力出してこい。それでも負けたら、通用しなかったら、また練習すればいい。結局そうするしかないんだ。自分のできることをやる。自分の持っているものを出す。それだけ。それしかない」
皆、頷き見せた。
「今日が過ぎて、あと半分。優勝まであと半分だ。努力は結果なくして報われない。だから今日を勝って、優勝して存分に報われよう」
そうしてイレブンを送り出す。
一時は絶望的な点差だった。前半に四失点というのはあまりにも力さを見せつけられた結果だ。しかし後半は怒涛の展開でありながらも、均衡していた。埼玉が芸術的なパス回しを見せ、息の根を止めにかかるも、達磨のように執念深く起き上がったイシュタルFCは真穂を中心とした個人技でゴールへと攻め立てる。コーナキックを香苗が執念の一発で一点を返し、5-2。それからしばらくは両者集中力を切らさず、ともにもどかしい時間が続く。後半も半ばを過ぎ、両チームに疲れが見え始めた。この展開でもっとも頼りになるのが我らがスピード狂、杏奈ちゃんである。相手を置き去りにして、自らでもぎ取るという気合いと気迫を見せ、5-3。射程圏内。しかしここで、両チーム試合終了に向けて目標地点を定めた。埼玉は交代枠を一気に二つ使い、守備的なシフトを引く。当然俺たちに点を取る以外に選択肢はない。足の上がっていた心美と彩香を変え、システムの変更も行なった。2バックシステムである。両サイドバックを一列上げ、2-3-2-3。失点なんてどこ吹く風の全軍突撃戦法だ。真穂が開いてくれた道があったからこそ繋がった命綱。その真穂は終盤まで奮闘してくれ、あと少しでゴールという最高のラストパスを演出するも、残り時間五分を切ったところで魔法に陰りが見えた。最後の交代カードを切って、引き上げてくる彼女は悔し涙を流していた。まだ負けてない。俺はそう言った。おそらく厳しい試合状況に対する悔し涙ではなかった。最後までコートに立っていられなかった不甲斐なさだ。それでも彼女は十分に、十二分に、いやそれ以上の働きをしてくれた。ちなみに試合中に彼女が俺に告げようとし、聞きそびれた言葉は。「勝つよ、任せて」だったらしい。アディショナルタイムに入り、さすがの杏奈も足が上がらず、その他の選手はそれ以上にスピードダウンして、動きは鈍った。諦めの二文字はない。試合中盤から死んだふりをしていた紫苑がここぞとばかりに突破。これまで仕事をさせてもらえず煮え湯を飲まされていた彼女は最後の最後で芸術的なクロスを上げる。巨人の香苗が叩きつけた渾身のヘディングはキーパーに惜しくも跳ね返された。だが香苗を支えてきた由佳が綺麗なボレーシュートで押し込めた。笛が鳴った。長い笛が二度鳴った。試合終了だった。あと一点だった。
選手たちは肩で息をしながら、長い時間、コートの上に倒れ込んでいた。
いや――
勝つにはあと二点が足りなかった。
そうしてリーグ前半戦が終了するとともに、後半戦の始まりがすぐそこにやってくる。
もう後戻りはできない——
時計を戻すことなんてできない——
本格的な、
夏の始まりだ。
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