夏の始まり(7)

 埼玉・レッド・デビルズ——その名の通り赤い悪魔は序盤から猛攻を仕掛けた。


 埼玉の特徴はその攻撃力だ。


 スピード、フィジカル、パスワーク、シュート、ドリブルそれら、技術や身体能力やらは破壊的なほど強力である。フォーメーションシフトは、3-3−2−2。3−5−2の変則シフトだ。ディフェンスの底から三枚を二列並べ、OMFを二枚にFWを二枚、攻撃側は四角形を形成し、中央の厚みをかけている。どちらかというと守備的な布陣のように思えるが、失点は川崎や鹿島と比べれば多い方である。


 その欠点を補って余りある攻撃力こそが埼玉の十八番であり、伝家の宝刀である。


 取られてもねじ伏せる。取って取って取り尽くす。


 今期、勝ち点こそ均衡しているも、リーグでの得点力は埼玉が群を抜いている。二位の鹿島にダブルスコアという圧倒的な数字である。さらにいうと、前の二節に対戦した川崎や鹿島が四、五点も取られているのである。さらにいうとTGAですら四失点で敗北している。リーグトップを維持し続ける爆発力は恐ろしいばかりか、まさに破壊的というに他ならないのである。


 けれど、負けがないわけでもない。野球が打線は水ものと言われるように、攻撃ってのは好不調が当然ある。埼玉にだって不調な時はある。むしろ安定感で言えば、トップスリーの中では欠ける方だ。そこにのみ付け入る隙はあるだろう。とは思ったが、どうやら本日の調子は悪くないらしい。


 点を取ることの楽しさ、その先にある勝つことの喜び。埼玉はその味を一番よくわかっているチームだった。


 早速スタジアムは大歓声に割れた。


 守りきれなかった。


 FWのドリブル突破を防げなかった。


 たった一人でこじ開ける力を持ったFW。この存在は非常に怖い。わかっていても止められない時があるのだ。いくら周りが助け合ったとしても、才能の差でぶち抜かれる。


 そんな選手がFWに二人。


 俺たちで言えば、紫苑と紬を足したような選手が二人もいる。……いろんな意味で怖い。


 だが、チームとしてやることは、そうなる前に防げばいいのである。


 ボールをFWに入れない。


 これが第一前提だ。


 そのためには、コースを塞ぐこと。そのためには走らなければならない。動かされるボールに対して、点と点を結ぶラインを断ち切ること。別にボールは物理法則を無視して、消えたり螺旋を描いたり火の玉になったりはしない。選手もまた、空を浮いたり、時間を止めたり、分身したりはしない。


 走る、止める、蹴る。


 サッカーとはこの積み重ね。


 結局は、ミスをしない無駄をしないこと。走ること、相手の意表をつくこと。それを積み重ねた方がゴールに結びつく。


 フィジカルが強い方である心美が球際の競り合いで負け、一気に数的有利を作られたピンチ。


 埼玉はサイドを上がった選手へとボールを入れ、杏奈はテクニックで翻弄された。大きく空いた縦のスペースを貫かれ、ゴール前へと埼玉の選手が雪崩れ込む。


 絶体絶命。


「あの子、加速装置でも付いているんでしょうか」


「ゼロゼロ杏奈と呼んでやらないとな」


 一旦は抜かれたはずだったが、恐ろしい足の速さで追いついてタッチラインへと蹴り出したのだ。これで、首根っこを締められていたところに息が入った。とはいえ、スローインからの再開では、早いパス回しで徐々に徐々に真綿で首を絞められる。


 最初の失点はしてやられた感があった。だが前を向かせたままスピードに乗せなければ、いくら早くて巧い選手といえど好きにはやらせない。


 密集した中央で華麗なパスワークを見せる埼玉。


「やられましたね」


 FWを囮にして、スルーからのスイッチング。そして壁パス。平面の曲技飛行のような入り乱れるランに翻弄され、マークの受け渡しが曖昧になった。加えて、点と点を断絶できず、最終ラインを抜かれた。


 二点目。


「ちょっとレベルが違うっていうか……あれを守備で修正しろってのは……」


「仕方ない。割り切るしかない」


 対処法がないのだ。


 わかっていても——頭で理解していても、体が追いつかない。無理やり追いつかせようとすれば、体に無理をさせなければならない。タックルするか、服を引っ張るか、無理な体勢からのターンで足を壊さなければ。全部反則だ。


「そういえば、監督はあえて口にしなかったようですが、今の順位知ってますか?」


「真賀田コーチ。今それいう?」


「勝ち点差なしの六位。今日勝てば、五位は確実です。上はTGA、川崎、鹿島、そして埼玉。同列五位は大阪です。何が言いたいかわかりますか?」


「負けてない」


 TGAにこそリーグ前半で負けたが、他の上位二つには負けなかった。


「我々はそういう場所にいるんですよ。来てしまったんです」


「選手たちの力で、ね」


「だから無様には負けられません」


「だな」


 負けてない。負けてないはずなんだ。


 攻撃力でも全然。


 心美から杏奈へと渡り、自慢の足を生かそうとするが、シャットアウトされた。カウンターを彩香の粘り強いディフェンスでボールを奪い返し、由佳から香苗。ハイボールの競り合いは埼玉に軍配が上がり、何が起きたかわからない内に中央のパス回しから、サイドを突かれてシュートを浴びた。幸いの軌道ずれでゴールにはならなかったものの、ほとんど一点入ったようなものだった。


 赤子が歩くみたいな危なっかしい綱渡りのように、ようやく紫苑にボールが入る。得意の瞬発力を生かして、ターンから抜け出そうとするも相手はしぶとく食らいついた。あの紫苑が抜けなかった。ボールを奪われ、そこから川崎のような超速攻。


 皐月は反応もできないまま三失点目。


「真賀田さんならどう修正する?」


 真賀田は唇を結んだ。拳を握っていた。


「……わかりません。コーチとして情けのないことですが、思い浮かびません」


 今日の埼玉は恐ろしく当たっていた。


「監督は? 監督にはこの絶望的な状況を打破するプランがあるんですか?」


「……ない」


 ただただ歯がゆかった。


 今日は勝負になるポイントがない。頼りになる武器が折られた。決して彼女たちの調子が悪いということはない。むしろ今シーズンでも好調にある方だ。


 それでも負けてる。


 それでも歯が立たない。


 谷底に突き落とされた気分である。しかも裸。全身粉砕骨折で為すすべがない。そんな状況。


 これが本当の現実であると言わんばかりに。


 今まで勝てたのは奇跡だったかと突きつけられているように。


 まったくもってレベルが違った。


「何二人とも、諦めたみたいな空気出してるんですか!」


 宮瀬が怒鳴る。


「ほら、ベンチも応援しましょうよ!」


 宮瀬は大声を張り上げて声援を送った。


 それはある意味、残酷な事実を認めると言うことでもあった。応援するしかない——。それは、ただただ精神論で彼女たちを勇気づけることしかできないと言っているようなもの。


 考えろ。何かあるはずだ。


 選手たちは埼玉をこじ開けようと早いパス回しを展開するも、きっちり対応され、攻守交代。そして一切手を緩めない猛獣のような攻めであわや四点目という場面を、サッカーの神さまに救われた。だが運の差を埼玉は決して良しとせず、ポストを跳ね返ったボールを詰めて、事実の四点目。手も足も出ないとはまさにこのこと。自分たちが練習した武器が通じない。もっている駒も手札も力で跳ね返される。セオリーは意味がない。


 埼玉のサポーターはゴールを喜びながらも、どこか安堵しきった様子が滲んでいた。すでに安全圏。ここからひっくり返されることはほぼないという安心。あとは、どれだけゴールを決めるんだ? との意思がなんとなく伝わった。


 いつもはすぐに精神的な立て直しをできる彼女たちが、呆然と立ち尽くしていた。


 この感じを、俺はどこかで味わったことがある。


 と思って、すぐに気づいた。


 ロンドンダービーだ。


 あの時、俺はオットン・ハイマー監督になんて言われたんだろう。


 どうやって俺は気持ちを切り替えたんだろう。


 あの言葉を俺は思い出そうとしていた。そうすれば、何か活路が見出せるんじゃないかという気がした。


「サッカーは自由であるべきだ」


 そんな声が聞こえて、俺はハッと振り返った。


 ベンチ裏に夏希がいた。スタッフ証を首からぶら下げて、まっすぐとコートへ視線を向けていた。


「なんで……佐竹さん……が?」


「偉大な選手が残した軌跡は美しいものだった」


 だからどうして君が。


 その言葉を知っている?


「それが見られなくなった今、私はとても悲しいよ。システムで勝てないのならば、勝つ方法はたった一つしかない。そして私がこのチームに全く不釣り合いな君を欲した理由はそこだ」


 ——想像をしてみろ、このボロ雑巾のように空っからに絞られた試合をひっくり返せば、



「「とても面白いことになる」」



 夏希はそう言って、微笑んだ。


「みんな知っています。知らないのは月見さんだけ。あの試合を見ていた人はみんな。試合後にハイマー監督はそうメディアに言い残したのです。そしてこうも言いました。『私が彼を奮い立たせたから彼は素晴らしいプレイを見せてくれたのではない。彼は私の言葉を意味のあるものにしてくれた。そして彼は今日この日、伝説を残した。……とても残念だ。だがいずれ彼は今日以上の奇跡を起こしてくれることだろう。私はそう願っている』と」


 あの人がそんなことを言ってくれていたなんて。


 普段は口数少なく、しかもほとんど話したこともなかった。


 ああ、そうか。だからみんな俺の復帰を望んでいたのか。


 バカだよな。


「でも私は! あなたが何一つ間違ったことをしているとは思いません! たとえこの場所でも月見さんが見せてくれたサッカーは奇跡の連続でした! 諦めないでください! 私の憧れであるあなたが、皆んな尊敬しているあなたが諦めちゃダメです! たとえ勝つ方法がなくとも、勝てないとしても、あなただけは諦めちゃダメなんです。諦めないでください。この試合をひっくり返せるのは、あなただけだって信じている私を裏切らないでください。ずるいことだってわかっています。自分は裏切っておいて、あなたには裏切って欲しくないなんて都合のいいことです。でも、夢って都合のいいことじゃないですか! あなたに夢を託したんですよ! 夢を見せてくださいよ! もっと、もっと!」


 俺は少し笑顔を返す。


「佐竹さん。君は勘違いをしている」


 俺が勝つんじゃない。


 戦っているのは彼女たちで、選手たちがコートの中の主役なんだ。


 コートの外にいる俺たちはあくまでも添え物。


「でもま、今のは結構ぐらっときた。つーか、忘れてた。おかげで思い出せた」


 いるよな。


 俺たちにはまだ勝負になるポイントが。


「真穂!!」


 俺は彼女に夢を託すことにした。


「お前、ちっちゃくて存在感薄いぞ!」


「監督のバーカ!! おっぱいは大きくなってるし! 身長は伸びてないけど!」


 試合中にも関わらず、マッチアップしていた紫苑と相手DFですら、くすりと笑っていた。


「お前に託した! 好きにやってこい!」


 真穂は少し儚げで、少し残念そうで、そして少し頼もしげな微笑みを残した。


 彼女がなんて言ったかはわからない。その言葉は、埼玉の声援にかき消されたが、けれど確かに何かを伝えようとしていた。


 そして真穂にボールが渡った瞬間とき



 時は止まった。

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