夏の始まり(6)

 リーグ前半戦の最後を締めくくる埼玉戦は、アウェイで迎えた。


 いつものようにロッカールームに集まって、選手たちは各々の高め方で気持ちをあげていた。


 紫苑はイヤホンを耳に突っ込み、香苗は祈るようにしてボールを額に当て、それを由佳が微笑んで見守っている。木崎姉妹はスパイクを磨き、杏奈はツイン手を整えていた。彩香は目を閉じて精神統一をし、真穂と環はディスカッションを交わしていた。皐月は小さなゴムボールを手に握り、指先の感覚を確かめているようだ。あと一人については、ギャグっぽくなるので論じるべきか迷うが、まあ大方の予想通り、ベンチに祀ったあんぱんに平服している。曰く、あんぱんの神様らしい。試合後食べるための。


 そんなわけで、俺が彼女たちに出した指示はただ一言。


 少し前に注意すべき箇所として真賀田や宮瀬が説明したホワイトボードを消した。


「楽しんでこい」


 すっかり習慣となったスタッフ含めての円陣でイレブンを送り出し、熱にうなされるようなピッチへと向かった。


 今までに体験したことのない一体感だった。埼玉のファンは恐ろしく熱心で、情熱的で、そして激しかった。空爆でも起こったかのような地鳴り。


 誰かが信じてくれているということは。


 誰かが応援してくれているということは。


 想像以上に力強い。


 大切な自分の時間を費やしてスタジアムに通ってくれるという意味。喉を枯らし、声を上げてくれることの意味。


 多ければ多いほど、頼もしく、そして同時に大きな重圧となる。ファンは勝つことを望んでいる。勝つことを信じてくれている。そんな彼らを裏切ることなんてできない。


 しかし埼玉の選手たちは目も眩むような数のファンを前にして、笑っていた。楽しんでいた。これから始まる試合を大いに望んでいた。


「負けてないですね」


「ああ、負けてない」


 対してイシュタルFCのイレブンもいい顔をしている。この重責を浴び続け、それでも勝ち続けてきたチームを前にして、戦う前から臆している選手は一人もいなかった。むしろ早く試合をしたいという意思が伝わってくる。


 リーグトップにしてリーグ最強の相手。


 今期、首位に立つチームに果たして自分たちはどこまで通用するのだろうか。


「試合をしたいな」


「ええ、選手に戻りたいですね」


 それもまた純粋な気持ちだった。


 勝って負けてという真剣勝負を。


 九〇分間の中にしかない極上のひととき。


 人生を凝縮したあの時間の中に戻りたい。


 取り返しのつかない一度きりの試合。


 年間に何十という試合の数はあれど、たったの一度として同じものはない。


 だから、後悔をしている暇がない。




 そしてホイッスルは告げられる。

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