夏の始まり(5)

 次にTGA戦がやってきた際にはコテンパンにしてやろうと言う意見で一致し、その後の練習は俺も真賀田も含めたスタッフ全員で遊んだ。もともと早めに切り上げるつもりはしていたので、結果オーライではあったが、何かに負けた感はずっとあった。ではこの怒りを次節にぶつけようと意見も一致したところで、通常通り、皆は自主練へと向かった。ちなみに本人は「だから監督だけには知られたくなかったんですよ!」と目を赤くして可愛い姿を見せられれば、結城に納得もしてしまう。しかしただでは転ばないのがイシュタルFCというクラブであり、真賀田詩織という人間だった。


「そういう監督は浮いた話の一つでもないんですか?」


 と、見事に再起動した時には、すでに酒が入っていた。


 俺は「ああ、まあ、うん」と生返事でお茶を濁すも、めんどくさい人間なのが宮瀬里子コーチである。


「私なんかどうですか? はっは! 元FWと元GKでなかなかバランスが取れていると思いませんか! あっはっは!」


 ちなみに彼女も随分と酒が入っていた。あとちなみに、俺たちは事務所で酒盛りをやるという非常に大人気ないことをやっていた。実は結構真剣な話らしくて、めでたいに越したことはないという理屈から、祝い酒なのである。


「宮瀬コーチの前向きさは魅力的なところではあるよな」


「わかっているではないか、月見くん! だが断る!」


 いつの日か、これと似たようなことがあったような気がしたが、はていつだっただろうか。


「監督はチキンですからねー。押し倒して既成事実を作るくらいじゃないと責任を取ろうとしないおチキンですからねー」


 と、夏希。彼女は机に突っ伏して、「なんだか暑いですね」と言いながらブラウスのボタンを一つ、二つ外していた。彼女はもはや酒に飲まれていた。缶ビールに口をつけ、まどろんだ色っぽい視線のまま、缶ビールを俺に向けた。飲めということなのだろう。しかし、読みの天才である俺はこれが罠でしかないことに気付きながらも、しかし甘んじるしかなかったのだ。


「間接きしゅですねぇ。思い出したらご懐妊ですねぇ」


「……そのネタまだ引っ張るの?」


 こそこそとする気配を背後で感じ、振り返ると、真賀田&宮瀬コンビは親指を立てて立ち去っていった。


「私なんてどうですかぁー? 余ってますよぉ、余りまくってますよぉー」


 確かに彼女は綺麗だし、美人だし、可愛いし、抜けているところもあって守りたくなる感はある。そんな彼女に心をたゆまされる時もあった。救ってくれた恩義もある。やぶさかではない。ただ……。


 俺は嘆息した。


 それから真面目なトーンで返す。


「佐竹さんさ、自分を安売りすべきではないと思う。というか君は、本気でそんなこと思ってないだろうに」


 色っぽく。悪戯っぽく、蠱惑的に微笑みを見せた彼女はむくりと身を起こし、外したボタンを一つだけ戻すと、虚ろな目を落とした。


「まだ怒っているんですか? ……紬ちゃんのこと」


「ああ、怒ってる。なんで相談してくれなかったのか」


「監督が背負う問題ではありません」


「だからって、他にやりようはあったろ?」


「他にやりようなんてありませんよ。紬ちゃんのためならばああすべきだった」


 佐竹夏希は嘘吐きだ。


 嘘つきではなく、嘘を吐く。


 平気で、涼しい顔をして、抜けているように見せかけて。


「なあ佐竹さん。一言だけ言わせてくれ」


 俺の怒りや憤りや虚しさなどは、決して佐竹夏希のせいではなかったけれども、チームのフロントとして、チームマネージャーとして役職を背負う彼女に対して言わずにはいられなかった。


「俺たちは別に金のためにやってんじゃない。それこそ誰かのためとか、俺たちに夢を見てくれてる人に夢を与えたいとか大それた目的のためなんかでもない。ただ自分のために、自分自身が見る夢のためにやってる。それ以上でも以下でもないさ。サッカー選手である前に、あるいは監督である前に俺たちは人間だ。血の通った人間だ」


 笑いもするし泣きもする。


 恋もするだろうし、誰かを好きになり嫌いになったりする。


「金のためなんかじゃねーよ。いくら金を積まれたところで、もしくはいくら金が支払われなかったところで、残るやつはいるし残らない奴もいる。でもな佐竹さん、その決断をさ、どうしようもない理由をこじつけて、選びようのない選択肢を選ばされるあいつの気持ちはどうだったっていうんだよ」


 そう。


 チームに金がないなんてのはまるっきりの嘘だった。


 そもそもを言えば、紬は年俸が少ないとしてもこのチームに残りたかっただろう。


「君は経営者側として、最善を尽くしているんだろう。選手の未来を思って紬が海外に行くべきだと思ったのも事実だろう。だからって、あんな方法で突き放すなんて人間のやることじゃない」


 次の挑戦をする奴を止められなんかしない。それを、ただ金の問題で片付けようとする佐竹さんはやっぱりずれてる。


「俺たちは人間だよ。血は金でできてはいない。金で心を動かせると思ってんなよ」


 それでも彼女はこう思うことだろう。


 そうするしかなかったのだと。


 彼女の立場上そうするしかなく、それ以外にやっぱり方法はない。


 佐竹夏希が考えたことは理解できなくもない。この場所ににそれ以外の選択肢はなかったのかもしれない。


 慈悲深いようでいて残酷。優しさの塊のようでいて、心は最初からなかった。


「一言とは言わず、百言ぐらい容赦なく突きつけますね。でも否定しません。自分が間違っているとは思いません。紬ちゃんは是が非でも海外に行くべきでしたし、あなたは是が非でもこの世界に戻ってくるべきでした」


 今では君が俺を掬い上げてくれた理由もなんとなくわかる。


「全部、計算……か」


「私的には私も理解して欲しいんですけれどね。皐月ちゃんの時、あなたはチームメイトとして理解して欲しいと言いました。あの言葉、結構響きましたよ。私もチームメイトとして思ってくれてたんだなって。だから私は自分なりに理解しようとしました。分からなくもないです。スポーツ選手ですから、熱い展開はそりゃ燃えますよ。わかります。でも、感情論だけで片付けられない時もあるじゃないですか」


 確かにそうなんだろう。


 彼女は彼女の仕事をした。


 チームを立て直すために俺に監督を要請し、見事一部昇格というミラクルを果たした。そして軌道に乗り始め、それゆえの難しい悩みも当然生じてくる。その中心にあったのが紬だ。


「でもね、当たり前っちゃ当たり前じゃないですか。優れた選手が優れたチームに行く。この世界でそれは不変で、普遍で、不都合な事実じゃないですか。それこそ子供みたいなこといつまでも言ってられないじゃないですか。ずっと皆で同じチームだなんて、そんなの草サッカーでやってくださいという話です。ここはプロの世界です。プロのルールがあります」


 いつの日か、佐竹夏希が冷酷な人間であると、真賀田から聞いたことを俺は思い出す。


 まさしく今の姿が佐竹夏希の本当の姿なのかもしれなかった。


 けれど、佐竹夏希の苦労もわからなくはない。


 父の経営手腕と倫理に反したことをしたせいで、崩壊寸前だったこのクラブを引き継いだ彼女は草サッカーチームにせぬため、是が非でもやるべきことをやらなければならなかった。


 全部一人で。一人で背負いこんで、役者を揃え、駒を揃え、今を作った。


「紬ちゃんが好きだったんですね」


 ああそうだよ。


 口にはしないが。


 プレイヤーとしても人としても。でもそれは異性としてではなかった。選手としての未来を思えば、引き留めることなんてできなかった。才能のあるあいつが色恋なんてくだらないことで広い空を見れないなんてのはできなかった。羽ばたいていく紬に、追い討ちはかけられなかったから言葉を濁した節はある。


「だからさっき、自分を安売りしたんだろ?」


 佐竹夏希はそういう人間だ。


 生憎というか、仕方のないことというか、俺も一応は男であり、そしてここには女性が中心としている。変えがたい事実だ。


 誰かが誰かに恋をしてその未来を縛らないために、彼女は代役を買って出るような人間だ。


 それがどうしようもなく許せなかった。自分を人形か駒のように大事にしようとしないことが悲しくて虚しいのだ。


「以前、言ったと思いますが、経営難に陥った時、絶望的な状況から立ち上がった月見健吾に救われたと」


「ああ、覚えてる」


 ロンドンダービーだ。俺が最後の輝きを見せた試合。


「あなたに勇気をもらいました。それは掛け値なく、心が動かされたってことなんですよ。私も戦おうって気になったんです」


 佐竹は目尻を拭った。


「あなたは、まるで私がお金とか経営とかのためだけに私がそうしている、と思っているようですが、私だってこのチームが好きなんですよ。それは嘘じゃありません。嘘にしたくなんかありません。だから身を削る思いで、好きな部分を削いだとしても、好きなこのチームだけは残したいんです。そうしてきました。そして今ここに残っています。私は自分が間違っているとは思いません」


 目を合わせようとはせず、止めどなく流れているものを彼女は拭い続けた。


「自分でもちょろいなって思います。でも仕方ないじゃないですか。それはどうしようもないことじゃないですか。私だって人間です。いいえ、多分皆よりもずっと醜い人間だって思います。ほんと、私にそんな資格なんてないと思います」


 唇を結び、彼女はゆっくりと深呼吸をしたあと、こう告げた。


「好きですよ。本当の本当に」


 少しはにかんでいた。


「あなたには私にできないことができるじゃないですか。あなたは私に救われたと言ってくれますが、私だって救われたんです。そして感情ってのは厄介です。もちろん、そうであるからだったとは思いたくありません。いえ、違いますね。自分がその程度の人間だと思いたくないから否定しているんでしょうね」


「……ちょっと待て」


 俺は寒気を覚えた。


「ええ、ご明察。。遠い場所に置いておきたかったんですよ」


 醜い嫉妬。


 どうしようもない感情。


「君は……佐竹さんはそのために紬を……?」


「理由を強化する一因だった、とは言い訳させてください。もちろん、紬ちゃんの選手としてを思ったのも嘘じゃないと言わせてください」


 俺は天井を仰いだ。


 頭の中がぐちゃぐちゃだ。


「だってあなたは皆の月見健吾じゃないですか。私にそんな資格はありません。ずるいですよね、それなのに一方的に言うだなんて。でもまあ、私はこう言う人間だって理解はして欲しかったのですよ。難しいでしょうけれど。理解してくれとは思いませんけど」


 悲しげに彼女は微笑んだ。


 それでも俺だけは理解しなければならなかった。


 佐竹夏希という人間に出会わなければ俺は。


 月見健吾という敗者は一生復活することはなかったのだから。


「それでも……」


 それでも俺は、佐竹夏希に救われた月見健吾としてはこう言わざるを得なかった。


「ありがとう。感謝してる。こんな俺を信じてくれて……好きになってくれて」


「で、返事はどうするんですか?」


 本当にこの人は。


 この状況で、今の告白を聞いて、うんと言えるわけがなかった。うんと言わせないためにそんなことを言ったのだろう。嘘を。嘘ばかりを。佐竹夏希はきっとそういう人間だ。




 そんな彼女を、俺は嫌いにはなれなかった。

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