夏の始まり(4)
オフが空け、練習の終わった水曜日。
視聴覚室で次節の対戦相手である埼玉・レッドデビルズの分析を行っていると、隣の席に腰掛けるイザベラの姿があった。
俺は一瞥をやり、またモニターへと視線を戻す。
「なあ、お前は」
ヘッドフォンを下ろして、続く言葉に耳を傾ける。
「本当に選手に戻る気はないのか?」
俺は頭を掻いて、考えをぐるりと回す。
「まあ、たまにな。たまにそんなことも考えるさ。もしそうだったら、どうなっていたんだろうって考えることもある。お前の手前、贅沢な悩みだろうけど」
「そうだな。贅沢だ」
俺が感情的にイザベラをまだ許せないように、イザベラもまた俺を感情的に許しはできないだろう。たとえ、俺が現役に戻ったとしても、それはそれでイザベラの中で嫉妬心や憎しみを抱かせることにもなろう。
「埼玉は」
その話題はもう終わりだとでもいうように、イザベラは話を切り替えた。
「一度だけ対戦したことがある。あたしが宮崎に移籍する前の話だ」
確かイザベラは去年まで——ああいや、一昨年までブラジルのチームにいたはずだ。
「まあ、招待試合の練習試合だったからお互いに本気は出してなかっただろうが」
シーズンオフに開催されるプレマッチでのことらしかった。
「日本でプレイしたいって思った理由になっった」
「へえ、そうなのか」相槌を打つ。
「プロになるとさ、色々なものを忘れがちになる。勝利とか、目の前のことに意識が向いていく。より高いレベルに達した選手であればあるほど」
「ちなみに理由とやらを聞いても?」
「単純明快にして明々白々」
イザベラの口から流暢に四字熟語を並べられると若干の違和感を禁じ得ない。が、イザベラは日系三世だし、日本に来て二年になるので違和感というのは失礼かもしれない。それに、彼女は日本でやりたいという強い意志でここにいるのだ。結果的に不幸に見舞われたが。
「ほら」
と、イザベラは画面を指差した。
俺も過去映像を何本も見て感じたことではある。ゾッとした。こいつらは毎度、勝ち負けやら優勝争いやらのプレッシャーの中でどうしてそんな顔をしていられるのかと。
決して忘れたわけじゃない。忘れるわけがない。だが、大人になると——厳しい世界で身を削っていると、忘れがちになる。
それは一番大事なことで、俺たちサッカーに関わる人間が本質的に抱いているものだ。
楽しんでいた。
サッカーを心の底から楽しんでいた。
ミスしてもにっこり笑い励まし、いいプレイが出た時はそれ以上に笑い、ゴールした時はまるで子供みたいに喜んでいた。暗い顔をする奴なんていない。険しい表情を見せるやつはいない。もちろん真剣モードというのはあったが、どこか、ワクワクとした楽しみを持って戦っていたのだ。
勝って表情がほころぶのは普通の反応だ。しかし埼玉の選手たちは試合中にも前向きな感情を出していた。
そして、気になった俺は貴重な敗戦の試合を探した。
負けたあと、埼玉の選手たちはまるで子供みたいに一様に泣いていた。
高校球児が甲子園の敗北で涙する場面はよく目にする。彼らにとってその一戦一戦は青春を詰め込んだとても大事なものだからだ。けれどプロの、しかも取り返しのつくリーグ戦の敗北で涙するなんてチームはなかなかない。いや、ほとんど見たことがないと言ってもいい。
つまり、埼玉の選手にとって、リーグの一戦一戦が、他に変えようのない命をかけた、人生をかけた勝負である自覚があったのだ。そんな風に一つの試合を大事にするチームに、果たして川崎以上の——鹿島以上の——付け入る隙はあるのだろうか。
練習にかけた時間の重み。
人生をサッカーに注いだ重み。
サッカーに対する考え、サッカーに注いでいる熱量がとてつもない。
「……まあだからさ、あんたらとあいつらは似ているんだと思った」
あ。
俺は苦笑した。
そう、負けていない。負けているわけがなかった。
情熱でも全然。あの子たちは。
ああ、そうか。
だから俺はこの場所が好きなんだ。
泣いて笑って、心の底からサッカーが好きなあいつらが好きなんだ。
俺はサッカーを嫌いになってしまった人間だから。
だから純粋なあいつらが羨ましい。変わらないものをずっと持っているあいつらをただただ尊敬する。
「勝負の世界でこれを言うのは違うんだろうが、勝ち負けという結果の前に、お前たちにはまず楽しんで欲しいよ。忘れないでいて欲しい。お前たちはまだ楽しいことをし続けていられることを」
イザベラの言葉は重たかった。
「あたしの……あたしたちの分まで楽しんで欲しい。心の底からそう思うだろ?」
「そうだな」
週が明ける。
三連戦の最後が近づいてくるたびに、ひしひしと重圧を感じるようになる。イザベラはああ言ったものの、真剣勝負を楽しむなんてのは狂っていなければできないことだった。そこに賭ける思いが大きいほど、色々なことを考えてしまう。負けられなくなる。
しかし、選手たちは俺以上に肝の座った奴らだった。
「……笑ってますね」
「そうだな」
練習中でも、彼女たちの表情は硬くなかった。
大事な一戦を前にして、全く臆していない。
遊んでいた。真剣に遊んでいた。
「これは期待してもいいんでしょうか?」
「どうだろうね。結局蓋を開けてみて、結果を実感するしかないさ」
「……というか監督」
「ん、何?」
「いえ、別に」
俺は靴紐を結び終え、芝生の感触を確かめた。
「真賀田さんもさ、たまには子供に戻ったら? ちょっと隙を見せた方がモテると思うけど」
「大きなお世話です。まるで私が男っ気の一つもないみたいな言い方をしないでください。これでも……」
真賀田は少し頬を染める。
あれ?
あれれれ?
この反応はもしかして。
「……いるの?」
コクリと殊勝に頷く彼女を初めて可愛いと思ってしまった。
「うそ……」
俺は俺たちが優勝するよりもありえないことを聞いたような気がした。
「もしかして知り合いとかじゃ……ないよね?」
「いや、その……まさかというか」
頭がぐるぐるする。
俺はこれから、あいつらと一緒にサッカーを久しぶりに楽しんで、大人気なくあいつらをコテンパンにして、「あっはっは!」と高笑いしようと巧妙なプランを立てていたのだけれど、その目論見が一気に瓦解していた。それどころではない。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! まだ答えは言うなよ! 俺の天才的読みで、その人物を言い当て——」
気づいてしまった。
ピンときた。
気づかざるをえなかった。
いやしかし。
そんなことがあるのか?
これは今世紀最大のミステリーだ。だが、ミステリーのようにかすかな伏線を拾ってみれば、結ばれてしまう。
「あ、あ、あ、あ、あ、あぁっあぁぁああ——————っっ!?!?」
あいつが珍しく俺たちに優しさを見せたのは。
恋をすれば人は変わるとでもいうのだろうか。
身内にスパイがいた。
こんな時に言うべき言葉は。
「そんなバナナ!!」
結城学のほくそ笑んだ顔が浮かんだ。
「私は知っていましたけれどね! あっはっは!」
と、先にゴール前で大人気なく選手たちをコテンパンにした宮瀬が高笑い。
閑話休題、
——できるわけがない。
「練習は一旦中止だ! 全員集合! これから真賀田コーチを尋問する!」
キッと目の色を変えた選手たちはすぐさま集まって、真賀田を囲んだ。こう言う時、以心伝心は素早いのである。
まあこんな日もあっていいのかもしれない。
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