背水の陣(4)

「そっか……」


 俺はぽつりと言い落とした。


 ユース代表の候補に選ばれそうだとか。最近の活躍を見れば紬が選ばれるのは当然と言えば当然だった。それに、ここ数試合、ウチのホームゲームでも代表監督が視察に来ていたとか。


「それで、大事な話の方なんですけど……」


「紫苑か?」


 夏希は目を開いて驚いているようだった。


「聞いているんですか?」


「いや。ウチから選ばれるとしたら、現状アイツくらいだろう」


 ここまで、十一得点六アシスト。一試合平均、〇・七得点は期待値として悪くないばかりか、十分にチームのエースと言える数字だ。フル代表に選ばれてもおかしくない。ゴールランキングトップ四。身体能力の優れた海外の選手が名を連ねる中で、日本人のトップであるのは寒気を覚えるほど。


「まあ、行くべきなんじゃないの。若い内から世界のレベルを知っておくのは貴重な経験になる」


「それが……ですね。紫苑ちゃん、もう断ってるんですよ」


「あのばか……」


「クラブとしては複雑ですよね」


「稼ぎ頭の紫苑に抜けられるのはな」


「けどウチから二人も候補になったなんてすごいことですよっ! 紬ちゃんは元ですけれど」


「まあいつかは、そのレベルに到達できる才能ばかりが集まっていたからな」


 脳裏に、ほくそ笑む及川の顔が浮かんだ。


 あれほど審美眼の優れたスカウトマンがなぜウチのチームにいるのか、不思議でもある。


「でも、紫苑ちゃん言ってましたよ。知らないところで四苦八苦するよりも、今はこのチームで学ぶことの方が多いって。嬉しいこと言ってくれるじゃないですか」


 気を使われたのか、本当にそう思っているのか。


 どちらにせよ、本人が決めたことなら口出しはできない。


 そんなことを思っていると、扉が開いた。


 視線を向けると、紬が姿を見せた。


「サイン会は終わったのか?」


「うん、まあ。というかその……監督探してた」


 こそこそと、影を移動する夏希はウインクを向けながら事務所を後にしていた。


「えっと……さっきはその……久しぶりに監督と会えて舞がっちゃって……」


 俺は腕時計を見て、


「飯でも行こうか」


 紬は小さく頷いた。





 近くの居酒屋に入り、俺は酒を頼んだ。


 運ばれてきたビールを見て、紬は目を細める。


「監督、飲むんだ」


「選手でだって飲んでる奴はいるよ」


「月見健吾は食生活も徹底してると思ってた」


 ちなみに未成年の紬はジンジャーエールを頼んでいたところを見るに、オフモードではあるのだろう。


「昔はな」


「なにそれ」


 俺は胃の底に冷たいアルコールが沈んでいくのを一呼吸の間において、腹の底にくくった決意のようなものを口にした。最近、ちらほら口にしてるけど、はっきりと明確に言葉にするのは初めてなのかもしれない。


「監督一本で行くことにした」


 目を瞠って、次に紬は眉根を寄せた。


「……それこそ、なにそれ」


 彼女が返した言葉は小さく冷静な声色であったが、明らかに怒りと戸惑いが混じっていた。


「君に口出しされる筋合いはない。俺の人生だ。周りがなんと言おうと、もう決めた」


「じゃあもう……月見健吾のプレイは見られないの?」


「単純にそこまでの選手じゃなかったって話だ」


 未練が残っていないといえば嘘になる。それでも、選手に戻るより何倍も――いや量では表しきれないほどの楽しさを今の場所で感じている。選手でいる時間が命よりも短いとして、現役で得られることが貴重な時間だとするのなら、同時に彼女たちの成長を間近で見られる監督という場所も、きっと今しかない。紬が移籍してしまったことは、改めてそう感じさせた。


「そんなの……っ」


 テーブルの下で紬は拳を握っていた。


「ああ、悪いって思ってる。それに、俺のような選手にそう思ってくれてありがとうな」


「じゃあ私はこれから誰を追いかければ……」


「偉大なプレイヤーは星の数ほどいる。いないなら君がそうなればいい。君はそれだけのものを持っている」


「私なんか……」


「俺だって自分にそう思った。中には自分ほどの選手はいないって思ってる奴もいるだろうけど」


「憧れだった。私だけじゃなくて、イシュタルFCの皆んな」


「ああ、だからありがとう」


 言葉は返して来ず、ただただ紬は俯いて、涙を零さぬよう歯を食いしばっていた。


 夜にたとえて、もしも月見健吾が一夜だけの輝きを放ち、彼女に何かを遺せていたとするのなら、挑戦してきたことは無駄じゃなかったんだろう。


 だから俺はこう言った。こう言うしかなかった。


「本当に、ありがとう」


 鼻をずるずる鳴らし、何度も彼女は頬を拭っていた。きっとこれはささやかな引退式だったのかもしれない。選手として愛してくれたからこそ、彼女だけには嘘をつけなかった。


「私が必ず……っ、健吾の叶えられなかった夢を、絶対……っ」


「一人で気張んなよ。一緒に行こうぜ」


 また紬は驚き顔を見せた。


「どう……いう?」


「そのままの意味だ。そういや紬、代表に選ばれたらしいな。おめでとう」


 グラスを寄せ、静かに鳴らした。


「それって……プロポーズ?」


 俺は苦笑を返し、少し緩くなったビールを口にした。


「みたいなもんかな。必ず夢が叶うってわけじゃないけどさ、監督として腹をくくってから俺の最大の目標はそこになった。紬と、他にもたくさんの愛弟子を連れて、世界に殴り込んでやろうぜ」


「――絶対だよ! 絶対、一緒に、代表、なって! 健吾と一緒に!」


 あとになって、人はいつも後悔する。後悔はあとにしかできない。俺は後悔ばかりしている。時間を戻すことができたのなら――そう思わない日はない。けれども未来を想像した時、今の決断が、過去の判断が間違っていなかったのだと思いたい。


「ああ。だから泣くな」

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