背水の陣(3)

 クラブハウスに引き上げていくと、階段の影で心美が膝を抱えていた。手には菓子パンの袋。


「マッサージ行ってないのか?」


 頬を膨らませ、心美は涙をにじませた顔を伏せた。


「キッカーやりたかったの……こんな顔で皆の前に出られない」


 心美は涙や鼻水でドロドロになった顔をタオルで覆った。


「それ、半分くれるか?」


 言いながら側に腰を下ろした。


 心美は頷きながらも、クリームパンを半分に千切った。


「勝負の世界は待った無し。悔しかったら次までに準備すればいい」


「うん……」


 俺はクリームパンを口にして、


「練習後のクリームは口の中がネチョネチョになるな。パンってのもミスチョイスだ。口の水分が枯渇する。よくこんなの食べてるな……」


「私はさ、昔っからちょいぽちゃ系だったの。両親が美味しいものばかり食べさせてくれたからついつい食べすぎて。でも、男の子ってさ、デブ嫌いみたいで。それでダイエットのつもりでサッカー始めたの」


 そんな馴れ初めがあったのか。


「試合に勝ったらさ、チームメイトの男の子がお菓子奢ってくれたりしてね、あの頃は楽しかったなぁ」


「今は……?」


「うん、楽しいよ。毎日充実してる。でも楽しいことだけじゃない。真剣に戦って、勝ち負けが決まるのって、苦しいことばかり」


 勝つまでは死ぬほど苦しい。だがそれ以上に負ければもっと苦しい。それまでに費やした時間が無駄だったかもしれないと思わされるのは、見ているだけでは味わえない。


「こんなこと言ったら怒るかもしれないけどね、月見監督には同族みたいなの感じてたの。この人負け組なんだなあって」


 俺は苦笑を返した。


 心美の言っていることは事実だ。いくら言い訳を並べても、俺は選手を逃げたのだし、正直、このチームに大きな期待などしていなかった。そこそこ、自分の実績になれば程度に思っていたかもしれない。


「でも、私とは違ってた。負けても負けても信じてくれた。何度も奮い立たせてくれた。そんな監督に返したい。勝って恩返しがしたい」


「俺だってな、心美。同じこと考えてるよ。俺が持ってるもんなんて少ないけど、それでも君らに何かを遺したいって思ってる」


「うん、それはたくさん感じてる。とても嬉しいの。だから力が湧いてくる。だから少しでも貢献したくて、キッカーやりたかった」


「心美は十分仕事をしてくれてる。でも今後は、もっとわがままにプレイしても良いと思うけどな。テクニックは負けてないんだ。たまには前線に参加しても文句は言わないよ」


「ふふ、ありがと」


 改めて思ったが、試合中や試合前のアドレナリンが出まくっている彼女たちと、普段の彼女たちはまるで違っていた。普通に人間で、普通に女子やってて、人並みに悩んだり、人並みに抱えている。弱い部分があって、強い部分もある。


「次も勝とうね」


「ああ、当然そのつもりだ」


「次も勝とうね」


 ん、と俺は、同じセリフに首を傾げた。心美も同様に傾いでいた。


 通路の方へ視線を放つと。


 スーツケースを抱えた――


 約半年ぶりに会う紬が立っていた。


「つむ――ギィ!?」


 出鼻早々、俺はアイアンクローを食らったのだった。


「浮気、許すまじ!」


 誤解である。





 普段は消灯時間のとっくに済んでいる食堂が明るかった。


 紬を囲んで、イシュタルFCの主力メンバーとは言わず、リザーブを含め、さらにはどこで噂を聞いたのかユースチームの若い子たちまで集まっていた。海を渡った元チームメイトはすっかりヒーロー扱いで、サイン会の行列ができていた。


 日本リーグは春秋制を採用していて、春から秋にかけてがシーズンである。しかし海外の多くは八月が開幕で、五月が閉幕ってのが多い。したがって、紬はシーズンオフだ。


「お前らなあ……帰ったばかりだし、時差とかあるんだから気を使ってやれよ」


 ちなみに、移籍仕立ては苦労していた彼女だったが、シーズン閉幕間際では活躍もあり、マニアの間では結構噂になっていたりする。サッカーの世界に身を置き、ましてや同じクラブに所属している彼女たちの間で噂が広まらないわけもなかった。


「そういう健吾は、正妻に隠れて現地妻を口説く日々」


 冷たい視線で睨んでくる。


「だから、そんなんじゃねーっての。つか、いつの間に結婚したんだよ俺たち!」


「あれはもう結婚したも同然の、誓いのキスだった。しかも二度」


 事情を知らぬ一部のメンバーや、ユースの子たちは「きゃー」と、黄色い声をあげていた。


「半ば強引だったじゃねーか」


「……イヤだったの?」


 俺は閉口する。嫌かそうでないかは当然、嫌ではない。紬のことは人としても選手としても好きだし尊敬もしている。とはいえ、心の方が追いついていないというか、そういう感情を抱くのにブレーキをかけているというか。


「と、ともかくだな! 誤解を招くようなことを吹聴するな!」


「チッ。外堀を埋めつつ既成事実を固めていこう作戦は失敗か……」


「……なんかお前、キャラ変わってね?」


「一〇代女子の成長速度は著しい。半年見ない間に顔つきが変わることもよくある」


「整形だなそれ」


「健吾、私は綺麗になった?」


「はいはい、可愛い可愛い」


 じと、と紬は目を細めた。


「まあ、あっちの文化は自己主張しないと置いていかれるってわかったから」


 紬は難しい顔色を浮かべていた。


「そか。まあ、こっちにいる時はいつも通りにくつろげよ」


「わかった。じゃあ――」


「待て待て待て! その先に続く言葉は嫌な予感しかしない! だが、俺は先読みの天才だからな! あらかじめ釘を刺しておくぞ!」


「何勝手に期待してんだか。明日から自主トレに参加してほしいって言おうとしたのに」


「絶対嘘だろ」


「うん、エロいこと言おうとしてた」


「……ちなみにどんなことを?」


「やっぱり辞める。さすがにここじゃあ、私も恥ずかしい」


 人前で言えない恥ずかしいことって何!?


 聞いておくべきだったか!?


 と、独り心の中で盛り上がりつつも、チームメイトや後輩たちの邪魔をしては悪いと、俺は食堂を出ることにした。


 廊下で夏希と鉢合わせ、軽く紬のことで話し合っていると、大事な話があるとかで事務所へと向かうこととなる。

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