遠い場所(5)
週明けは薄い雨が芝生を濡らしていた。
ハーフコートでの練習をしていると、首をひねりながら紫苑がベンチへと引き上げてくる。
「どうした? 違和感があるなら早めにドクターへ――」
「そういうんじゃないわ。まあ、違和感ってのは正解かも知れない。監督ならもう気づいているはずよ」
紫苑の鋭い視線が俺を打ち見て、再びグラウンドへと戻される。
「あの子」
と、向けられた先には環の姿があった。
「向いてないんじゃない? ウイング」
選手としての感性の優れる紫苑がそう評価するのも無理はなかった。
「以前であれば、しつこいほど中へ切り込んでくるドリブルバカがいたけれど、彼女の場合は紬とは対極の選手よね」
「てゆかお前、紬のこと信頼してたんだな」
意外そうに目を丸くしたあと、紫苑は口を尖らせた。
「信頼なんてもんじゃないわ。紬がボール持ってくれると、サボれるから重宝してただけ」
素直じゃない。
「おかげで、運動量が増えたからペース配分に苦労してる」
実際、ここに試合で紫苑の運動量が落ちた後半は交代が続いた。
「本当に素直じゃない。口ではそう言いながらもチームのために密かにラントレしてるもんな」
「ばっ――かぁ! チームのためなんかじゃないわ! あくまでも私個人がレベルアップするためなんだからね!」
「絵に描いたようなツンデレだな」
顔を真っ赤にして反論した紫苑だったが、今度はしおらしく俯いて、芝生の土をほじくり返していた。
「……だって途中交代とか情けないし。コートに最後まで立って、つき――ファンの人に見てもらいたいし」
チラチラと視線を向けられ、俺は首をひねる。
「焦んなよ。気持ちはわかるが、結局日々の積み重ねしかないんだ」
「絵に描いたような朴念仁」
「ん、なんの話だ?」
「私も移籍しようかな」
うっ、と言葉に詰まる。今、紫苑に出て行かれたら堪ったものじゃない。しかし、彼女自身のことを思えば、最善策な気もする。
「……本気なら止めはしない。君に会うチームを探すよう――」
「ほんと最悪」
紫苑は目を細め、俺を睨んできた。
「どうして月見ってば、自分の主張を通そうとしないのよ。腹の底ではすがりついてでも止めるべきだと思ってるくせに、なんで私が必要だって言えないの?」
「このチームにいるべき選手じゃない。短いサッカー人生を捧げるべきチームじゃない」
紫苑は鋭く睨みあげた。
「月見が私たちのためを思っているように、私たちだって月見のためを思ってるのよ!」
金切り声が弾け、彼女は胸ぐらに掴みかかってきた。
「あなたが失踪して、どれだけ多くのファンが心配したと思ってるの!? 再び表舞台に姿を現して、どれだけ私たちが喜んだと思ってるの!? 二部リーグで下位争いをしていたチームの、先行きもわからない私たちはあなたのおかげで今もサッカーやれてるの! それを、ちっぽけな優しさでごまかそうとしないでよ! 勝ちたいんでしょ!? だったらもっと鞭を振るいなさいよ! 壊れるまで酷使しなさいよ! もっと非情になりなさいよ! あなたは監督でしょ!?」
一気にまくし立てられ、俺は面食らった。
「ここにいる選手は――少なくとも私は、命を捧げてもいいと思ってる! あなたのためならどんな地獄だって甘んじて受け入れるわ!」
負けが続いている選手たちは、現状以上のものを探していた。今やっている練習が正しいことなのかわからず、不安と不満の行き場すら見失っているのだ。
「……正直な話、めちゃくちゃ悔しいわよ」
怒りから一転、肩の力を抜いた紫苑は言い落とした。
「あの子は海外でプレーしているのに、私は……」
他人と比べるなとよく言うが、劣等感のない人間に自分は見つめられない。他者がいて、初めて人は足りないものや目的を見つけられる。
この世界では必ずしも勝者の陰で敗者が存在する。勝つためには何かが優れていなければならない。それが今までは、たった一本の糸のような才能で紡がれていた。
一つの糸が抜けると、綺麗な織物を作るわけでもなく、余計に絡まってしまっていた。
「ねえ、月見。私たちはこの程度なの? 紬一人に負んぶに抱っこだった添え物のような、ただの駒だったの?」
もっとも才能のある紫苑は、もっとも劣等感を抱える選手だった。突き詰めればストイックとは、否定とネガティブを極限にまで研いだ思考法で、自分の弱さや足りないものを看過できないゆえ、自信を追い込んでしまう。
こういう選手は一流になりやすい。だが、こういう選手から潰れていく。
超一流になるには、壊れない自己管理も優れている。
一〇代の選手に、心技体を極めろなんて難しい話だ。特に、俺が壊れた選手だったからこそ、紫苑のような選手は危なっかしくて見てられない。
「そんなことはない。紫苑だって負けてない。いや、誰も負けていないんだ」
こと才能という点においては。
裏を返せば、それだけとも言えた。
天才たちが独自に生み出す劇的なアイデアプレーが優勝という結果へと導いた。
今までが上手くいきすぎていたのだ。
偶然の重なりが、幸運を導いてくれたが、トップカテゴリは運だけでは通用しない。
「紫苑、君は天才だ」
ここにいる選手たちは、皆才能を持った選手たち。
身体的・技術的に光るものを持っている。その上で、日々の積み重ねを怠らない選手たちばかりだった。しかしそれだけではチームスポーツの世界で勝てはしないことを二戦続けて教えられた。
欲しいのは、運によってカチリと歯車が噛み合った偶然の爆発力ではなく、安定した燃焼。
チームに今欲しいのは、天才を理解できる選手だった。
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