遠い場所(6)

 初代ドイツ帝国宰相さいしょう、オットー・フォン・ビスマルクはこう言った。


『愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ』と。


 すなわち愚者である俺は、二度の敗戦から学ぼうとしていた。


 メディア室で、試合映像をテープが擦り切れるほど――光学ディスクであるからテープではないけれども――見ていたが、考えは煮詰まっていくばかりだった。


 即時チームを強くできる特効薬的なアイデアでもあればと思うが、見つかりそうもない。


 はああ、と盛大にため息を吐いて、椅子に深く座り込んだ時。


 骨ばった手が視界を覆った。


「だーれだ?」


 声色からして。


「そうですっ、環ちゃんです!」


「回答を言う前に、正解を言っちゃったよ!?」


 手がどかされ、隠されていた視界が拓ける。


 見上げると、ゆるっと髪を巻いたボブカットの環がにゃんこ顔をしていた。


 よくわからないと思われるかもしれないが、説明させて欲しい。猫の顔は口角が釣り上がって、微笑みを向けているように見えるが、あんな感じである。つり目にくりくりの瞳も相まって、まるでにゃんこさんである。加えて背後から恋人同士でも時代錯誤な「だーれだ」なんてやる気まぐれさも相まって、もうにゃんこである。


「監督さんは勉強熱心ですなあ」


「そういう環も分析か?」


「我輩は過去を振り返らない女」


「……何しにここへ?」


「いやあ、寮の方にいるとね、ピリピリムードで居心地悪いから避難。あのお菓子魔人のここみんですら、酢昆布で我慢してるんだぜ?」


「減量中のボクサーかよ」


「しかし避難したはいいが、孤独は寂しかろうて監督を探して三千マイル。なかなか見つからなくてこりゃ参る。ふひひ、サーセン。あ、ちなみに三千とサーセンをかけてる」


「……ああ、うん」


 ダジャレだろうか。笑うところだろうか。


 と思っていると、環は目を細めた。


「女子のダジャレを笑わないとか、最低の上司だなこいつ」


「上司のダジャレを無理やり笑う部下の気持ちにもなれ!」


「おや、私は上司だったであるか。ならば上司権限を発動させてもらおう」


 そう言って、環は膝の上に座った。


「……環さん?」


 サッカー選手の引き締まったお尻の感触と、洗いたてだろうかシャンプーの甘い香りが鼻先で嗅ぐった。


「監督はさあ」


 陽気だった声のトーンが一転して真剣なものに変わった。


「どうして紬っちの代わりに環ちゃん入れたのぉ?」


 思惑は色々とあった。とりあえず、との言い方は彼女に失礼だとしても、ユーティリティプレイヤーの環なら、とりあえず抜けた穴を埋められるとの大前提があった。ともあれ、総合的に勘案して、昨シーズンの経験もあった彼女しか今のチームレベルに追いつける選手はいなかった。


「期待してるから、かな」


「じゃあ環ちゃんのストロングポイントは?」


「目立ってウィークポイントがないところ」


 ふーん、と生返事を返して環は、試合映像を再生させた。


「あの、環さん? 見るなら隣で――」


「ぎゅっと抱きしめてもいいんだぜ?」


「するか」


「頭ナデナデを許可する」


 訳がわからなかった。


「……何か不安でも?」


「そりゃ、人間だもの。不安の一つや二つくらい毎日あろうて。明日の朝ごはんは何かな、とか。今日の夕食は何食べたっけな? とか」


 ご飯のことしか考えてねえな。


「人は欲求で生きている。お腹が満たされれば、眠くなる。しかしぐっすり眠をするにゃ、心の充足も必要なのだ。よって、頭ナデナデを許可する」


 頭を必死に回しても、彼女の考えを理解することはできなかった。


「あの……そろそろ降りてくれないでしょうか?」


 環が膝の上から降りる気配はない。この状況を誰かに見られると非常にまずい。そして、女子が目の前にいるのも色々とまずい。


「ふむ。監督は今、こう思っている訳だ。ちんこやばい」


「心の中で誤魔化してたのに! 言っちゃダメなやつ!」


「あ、このパティーンもあったのか」


 人の気もしれないで、環は何度も再生と停止、巻き戻しを繰り返して画面から目を離そうとはしなかった。


「と言うと?」


 問いかけると、環は自らのパスミスでボールを奪われ、カウンターを食らった場面を見せた。


 ほら、と指で画面をなぞり、中央の真穂が空いていたことを見つけた。


「あの時は、杏奈がピューってピューマみたいに来るかと思ってたけれど……ん、いやチーター? それともジャガー? しかしいやはや、ネコ科はスタミナがなくていかんな。てか、ツインテチーターってかっこよくね? 略してツインテーター。うわ、めっちゃかっこいいんだぜっ!」


 もはや何を言っているのか意味不明であった。


 ただ。


 環が今示したパターンは、ゲーム中に俺が思いついたものでもあった。


「なるほど。善は急げである」


 そう言って立ち上がった環は俺の手を引いた。


「――どこに!?」


「決まっておろう。改善とは練習あるのみ」


 まさかとは思うが。


「今からやるぞ。人を集めるのだ」


 有無を言わせぬ圧倒的行動力で、俺やコーチ、その他必要な人員が速やかに集められたのだった。


 そして、ワンプレーの練習をすると。


「我輩はもう眠いのにゃ。皆の衆、おやす~ぅ」


 と、ネコ気質を発揮して寮に帰っていったのだった。


「なんだったの今の」


 と、真穂。


「あいつ、また訳わからんことを!?」


 混乱する香苗。


「ん、っん」


 と、背伸びする心美は。


「ふぁ~動いたらお腹減っちゃった。楽しみにしてたあんぱん日和ね」


 いつもと変わらない。


 その他、突然呼び出された主力メンバーはきょとんだった。


「ところで監督。ミニゲームやりませんか?」


「ああ、真賀田コーチ。俺も消化不良だ」


 狐につままれた気分。

 いや、あいつはネコ科か。

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