遠い場所(4)
「俺の感想を述べさせてもらうと」
スカウトマンの及川隆は缶コーヒーを奢ってくれた。
俺と及川は、クラブハウスのベンチに腰掛け、お星さまを仰ぎ見ていた。
敗因の分析、今後の対策、チームとしてどのような舵を切るべきか、監督とフロントの立場で語り合うべきことは多くある。
「良い意味でも悪い意味でも、結果が出すぎた。俺は身の丈にあった場所で、基礎を固めてようやく一部に通用すると思っていた。だからお前が来てしまったことはチームにとって両方の意味で誤算だった。まさか微かな才能と爆発力だけで二部を優勝しちまうなんてな。誰も想像しなかったことだ。だからこそ、ここ二戦の敗北は至極まっとうな結果だ。いや、今季の勝ち星は片手で収まるだろうよ」
「それでも、一部で戦う意味は大きいと思います」
「そりゃごもっともだ。だが逆に、負け癖ってのも案外
及川の意見も一理ある。
「ところで――」
俺は紬のことを問いかけた。
というか、大半の理由がそれだった。
まだ十代の彼女が海外で一人暮らしってのは不安もあろう。家族は、足の不自由な兄の介助でなかなか日本を離れられず、イシュタルFCのチームメイトも自分たちのことで必死だから、あまり連絡を取っていないらしい。
あのストイックな性格で、弱さを見せることなんてあまりしないだろう。そう思って何度か連絡を取ろうとしたけれど、電話が返ってくることはなかった。もっとも、メールでは簡潔に「頑張ってる」とか「大丈夫、それなりにやれてる」など、生存確認はあった。とはいえ、紬がどんな状態なのかはなんとなくわかっていた。
そろそろ
及川は携帯電話を俺に預け、腰をあげた。画面に目を落とすと、通話中だった。
及川は肩をすくめると、とぼとぼと夜陰に姿を消していく。
「……もしもし?」
俺は腕時計を見て、頭の中で時差を戻した。
あっちじゃ、朝の五時を過ぎたところだ。
「眠れないか?」
「……うん、ここ最近は」
ネットで結果を知る程度には情報が入っている。紬はここ二試合先発出場するも、途中交代でコートを去っている。スペインでは夏が開幕戦で、ウインターブレイクを挟んで、一月から五月までが後半戦だ。つまり、リーグ終盤戦の難しい時期である。まだチームに馴染んでいない彼女が変えられるのはある意味当然と言えば当然だが、それでも彼女の天才的なドリブルセンスはチームに貢献すると思っていたが。
「そっちも……不調みたいだね」
「ああ」
電話越しに俺は苦笑を浮かべる。
「やっぱり私がいないとダメ?」
どう答えるべきか考えあぐねた。
長い沈黙のあと、
「……帰りたい」
蚊の鳴くように言い落とされた一言。
決して冗談には聞こえなかった。
「大丈夫か?」
また沈黙の間が開き、紬は
「全然通用しなかった。ボールは回ってこないし、言葉も何言ってるかわかんないし、食べ物だって油料理多くてカロリー計算大変だし、ここじゃ知ってる人がいない」
チームメイトを思って出て行ったからこそ。
仲間思いだった彼女が孤独を感じてしまうのは人として当たり前のことだった。
「帰りたいよ、健吾。私、あの場所に帰りたい。ここじゃサッカー全然楽しくないよ」
鼻を
「皆んなの、健吾の顔見たい。皆んなとサッカーしたい」
彼女の気持ちは痛いほどわかる。
俺もそうだった。海外で選手を始めた俺も紬と似たようなことを思っていた。まだ十代だった俺も、まだ十代である紬も、見知らぬ土地で一人戦うのは倍以上に大変な労力を伴う。心の潰れそうな時、優しい言葉をかけられたら、どんなに救われたことだろうか。
それでも。
「今の君は、要らない」
受話器の向こうで小さな悲鳴が聞こえた。
「どうして……そんなこと言うの?」
「今俺たちは変わろうとしている。高い壁を見せつけられて、絶望的で、どうしようもなくて、自分たちの力の無さに悲観してる」
「じゃあ、なんでそんなこと言うのよ! ひどいよ健吾!」
「だが!」俺は強く言い返した。「ウチのチームで泣き言を言っている奴なんていない! もがいて苦しんで、今にも潰れそうになってるけど、それでもあいつらは前を見て、前に進もうとしてる! お前とは違う! 変わろうとしてる!」
電話口の向こうからでさえ、歯を打ち鳴らす音が聞こえた。
「私だって変わりたい! 変わろうとしてる! 今よりもずっと強くなって、上手くなって、健吾に認められたくって、また皆んなと一緒にやりたくって、必死になってる! 健吾言ってくれたよね!? ポジション空けておくって! いつでも帰ってきていいって! なのになんでそんなこと言うのよ!」
それはな。
一番苦しい時を超えなければ、その先には進めないからだ。
逃げることは決して、間違いじゃない。そうすることが正解の時もある。いや、正解不正解なんてないのかもしれない。俺だって怪我を乗り越えて選手に戻ろうとはしなかった。俺が紬に頑張れを言う資格なんてない。
でも君は、いつだって立ち上がった。何度怪我をしても乗り越えてきた。
君はそういう選手なんだ。俺よりもずっと強くて、俺よりもずっと素晴らしい選手になれる。だから乗り越えてほしい。
なあ、紬。君は俺と同じ景色を見ているんだろうか。別れの時語った俺の夢は、俺だけが見た夢なんだろうか。
いつかまた一緒に――もっとはるか上の舞台で。
そんな夢物語を思わせてくれたほどの選手なのだ。
「君には翼が生えている。誰にも触れることのできない翼が」
最初は空を渡る雄大な
だが、俺が思っている以上だった。
「君は不死鳥だ」
燃えるような心を持ち、何度折れても立ち上がる。そんなすごい選手と一緒に大舞台に立つには、俺自身、彼女に釣り合うほどの指揮官にならねばならなかった。
「今の籠じゃ君には狭すぎる。だから帰ってくるな」
「ばかばかばか! 健吾のばか!」
ヒステリックを起こしたあと、受話器の向こうではすすり泣く声が聞こえた。
「……でも、もうちょっとだけ頑張る。頑張りたい」
「ああ、俺たちは頑張ってる」
死に物狂いじゃなかったことなんてない。
それでも結果にならないことがこの世界じゃ多すぎる。
ほんとはどれだけ彼女に帰ってきて欲しかったか。
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