9章

首位奪還へ

 夜のとばりがスタジアムの空に落ち、フラッシュの明滅が星の輝きのようにまたたいていた。


 晩秋の冷たい風を跳ね返す熱気と地鳴りがスタジアムを包んでいる。


 二部リーグとはいえ、頂上決戦もあり、客席のボルテージ早くから最高潮だった。


『ゴー、ゴー、レッツゴー、イシュタル、オールゴーっ!!!!』


 最終節で迎えるは、怪物を率いるリーグ首位の宮崎ファルコンFC。


 誰がこの日を想像したことだろう。巷じゃ『月見の奇跡』なんて呼ばれているが、決して俺は奇跡なんて思っちゃいなかった。彼女たちの実力なら当然だ。


 選手たちがアップを始める中、俺は村路菊監督と挨拶を交わした。


「今日はお互いベストを——」


 手を出した時。


「食物連鎖じゃよ」


 すぼめた小さな口を開いて、しわがれた声が放たれた。


「はい?」


「勝ったものが強い。それが真理じゃよ。この世界は食うか食われるか。弱肉強食。良い試合、ベストを尽くす、そんなもんは綺麗事。肉食動物の殺し合い。コートは戦場。そうじゃろ?」


 人生経験、試合経験、監督経験豊富な彼女の言葉には重みがあった。


「あたしは今日の日をもって引退する。最後の試合に花道を、なんて思わんよ。命を懸けた殺し合いをしてこそ、そこには大自然の感動が生まれる」


 村路は骨の髄まで勝負師だった。


 だが、俺としては一つだけ残念なことがある。


「あんたの経歴や、雑誌などで語っていた戦術論を勉強させてもらった」


「ほう?」


「あんたは緻密ちみつなサッカーを愛してきたはずだ。ショートパスサッカーで崩す綺麗で美しいサッカーを求めてきた。だが何故だ? 何故その美学をあえて崩した?」


「組織では限界がある。組織を壊すのは一人の天才。そのことを知ったからさ」


「つまり、自分のサッカー観に限界を感じた」


 しわに覆われたまぶたの奥で、怪しく光る双眸そうぼうが睨みあげた。


「天才であり、同じ天才を有するイシュタルFCに言われたかないね。しかし天才がもろいのもまた摂理。あのじゃじゃ馬は一度高くなった鼻をポッキリ折られた方がええ」


「その当て馬が俺たちだと?」


「それだけの力があるとは思えんね。今のあんたらでは」


 俺は鼻を鳴らした。


「あんたの天狗てんぐっ鼻も折るべきのようだ」


「ああ、怖い怖い。これだから若いもんは。もっと年寄りに優しくせえ」


「ご老体はさっさとベンチのシルバーシートに戻っては?」


 また鋭い眼光が睨みつける。


「月見のいる場所はここじゃないよ。あたしが引導を渡してやるさ。監督として立ち直れないほどに」


「望むところだ」


 結局、握手は交わさず、両者ベンチに戻った。


 相手コートへと視線を向けると、イシュタルFCサポーター席に向けてイザベラは両手を広げていた。


 俺は眉間を寄せ、


「一体何を……?」


 呟いた。


「わかりません。でもさっきからずっとああしているんですよ」


『ゴー、ゴー、レッツゴー、イシュタル、オールゴーっ!!!!』


 大歓声の轟く中、目を凝らすと、イザベラの表情が見えた。


「笑ってる……」


 不敵に。嬉々として。嬉しそうに、楽しそうに。しかしそれがブラスバンドの演奏と応援を楽しんでいるのではないのが確かだった。獲物を吟味する肉食獣のそれ。数十分後に彼らが沈黙することを心待ちにしているのだ。そういう類の醜悪しゅうあくな笑みだった。


「……今日のゲーム荒れませんよね? その、あまりこういう話はしたくないのですが、彼女、いい噂がありませんから」


「なあ真賀田さん。サッカーって十一人でやるものだよな?」


 そうあって欲しいと俺は心から願ってしまった。


「ええ、今更なんですか?」


 真賀田は気づいていないらしい。


 戦場でただ一人、闘争心を剥き出しにしたイザベラから、俺は恐怖を覚えていた。自分より強い選手に感じる本能的な危機意識。イザベラは超一流選手が持つ雰囲気を宿している。


 あの目をする選手を俺は知っていた。


 俺を壊しにきた選手の。

 狂気をはらみ、殺意を宿した目。


 ただし〝彼〟の場合は直前に狂気を抱いたが、試合開始前から殺す気でいるのは異常だ。


 と、感じているとイザベラはウチのコートに近づいて、ボールを拾いに向かった紬に向かって何かを言った。


 とっさに俺は飛び出していた。


 たどり着いた時、紬は目を剥いて、喫驚きっきょうしたまま固まっていた。


「——何を言った!?」


 紬の前に立ちはだかり、イザベラを睨み返す。


「ア、そうカッカすんなヘッドコーチ。ブラザーの足の調子を伺っただけさ。まあ、ちょっと挨拶はしたかな。〝お前もすぐポンコツと同じ目に合わせてやる〟とな」


 瞠目し、


「自分のコートへ帰れ!」


 脳裏には暴言が浮かんだが、それは相手と同じだ。なんとか押し留めるに至った。


 騒ぎを聞きつけた審判陣が遅れて到着するも、イザベラは鼻を鳴らして立ち去っていく。


 半信半疑ではあったが、これで確証した。TGAの全員を戦意喪失させたというのは本当らしい。


 振り返ると、紬は怒りに震えていた。悔しさに涙が浮いているが、決して溢さまいと歯を食いしばっていた。


「……許さないっ」


「紬、乗せられるな。相手の策略だ」


「あいつは兄さんを侮辱ぶじょくしたっ。もっとひどい言葉で!」


 俺は手を取り、そっと握る。


「抑えてくれ」


「でもでもでも!」


「君がいつも通りの力を発揮してくれないと勝てない。相手がどうあれ、俺たちは自分たちはサッカーをしよう。今までの練習を無駄にするな。君が必要だ。いつもの君が」


 あまり動じない彼女をここまで憤慨させるのはよっぽどだったのだろう。これは時間がかかると一旦引き上げさせようとした時。


 逆サイドで紫苑がイザベラに掴みかかっていた。


 宮瀬に紬を任せ、俺はまた駆け出した。


 幸いにも、由佳や香苗が紫苑を抑えていたが、香苗も噴火して、真穂や心美も抑えにかかるも、その場にいた全員が驚嘆きょうたんの表情といきどおりと蒼白した顔をしていた。


 いよいよプツリときた。


「両チーム、乱闘騒ぎがあれば没収試合にしますよ——」


 審判はそう言ったが、イザベラにしてみれば痛くも痒くもない。試合が無効となれば自動的に宮崎の優勝が決まる。徹底的に計算され尽くした上での蛮行だった。


 俺はイザベラを目に据え、


「それが君のサッカーだというのなら、俺たちは綺麗なサッカーでねじ伏せる」


 イザベラが挑発的な視線を返した。


 俺は身を翻し、


「あっちは叶わないと感じたから口撃に出たらしい。恐れることはない。普通に戦って普通に勝とう」


「日本のサ」


 言っちまえ、と思ったが流石にそこまで馬鹿ではないらしい。暴言が審判の耳に入れば当然退場だ。


 イザベラは自陣コートへ帰っていった。




 アップは切り上げて、兎にも角にもメンタルの復旧が最優先だった。


 戦術確認どころではなかった。怒りをあらわにする香苗、うずくまったまま顔を上げない紬、歯をくいしばる由佳。キャプテンでさえそんな精神状態なのだから、ゲームに集中なんて程遠い状態だった。


 荒療治ではあるがコーチと協力して、イザベラに何を言われたか聞き出し、暴言の否定、アイデンティティの肯定を性急に行うも、本当に酷いことばかり言われていた。身体的コンプレックスをなじるのは可愛い方で——それでも腹に据えかねるのは変わりないが、家族に関しての侮辱は本当に殺してやろうかと思ったほどだ。


「先ほど協会を通じて正式に抗議文書を出しておきました。安心してください。タダでは済ましません。それ相応の罰と制裁を受けてもらいます。だから皆さんは、正々堂々とお願いします」


 夏希は頭を下げた。


 及川を五発も殴った彼女は、あの時よりも怒りを秘めていた。怒りに震える唇を無理やり作って、微笑むと、


「せっかく最後の試合なんです。楽しみましょう。まだ腹の虫が収まらないなら、どうぞ月見さんを殴ってください。今なら殴り放題です」


「え、ちょま」


 有無を言わせず、紫苑がボディブロー。


「ぐふ!」


 胃液が喉元までこみ上げるが、なんとか飲み込む。


 しかし間髪入れずに香苗の平手打ち。


「にぎ!」


 真穂はポイントで足を踏む。


「おぐ!」


 心美がお尻をボレーシュート。


「めぎゃ!」


 流石にキャプテンは話のわかる選手で、ぺちと優しく叩いてくれた。


 そして紬は。


 煮えたぎっていたロッカールームに静寂と戦慄せんりつ


「あぁぁぁぁ————————!?!?」


 杏奈が爆発。


「つ、紬ん!? そそそそそれはレッドカードもんやで!? 嘘やん!? トリッキーにもほどがあるやん!? オチで締めよう思てたウチのプランが総崩れやん?」


 唇を離した紬は、うっすらと瞼を開ける。


「うん、落ち着けた。さっきはありがと。でもちょっとテンション上がり過ぎてるかも」


 共に頬を赤くする。


「誰にも私に触らせない。今日は点取ってくる。あなたと、皆んなと、そして兄さんのために」


 紬の目には覚悟が宿っていた。もう憤りも悲しみも追い払ったようだ。


 こほんと真賀田が咳払い。


「監督、そろそろプランを。時間がありません」


 俺は頬を軽く叩いて気持ちを切り替えた。


「スタメンは前回と変わらず。今週の練習でもやった通り、イザベラを警戒するのは当然として、まずそこにまで至らせない。イザベラを孤立させるんだ。彼女にボールが出ると分かっていればその前で対処する。攻撃は自由に。あとは好きなだけ暴れてこい」


 円陣を組み、いつもの掛け声があがる。



「「「オールゴーファイ!!!!」」」



「ラストゲームだ。素敵なサッカーを見せてくれ」


 そうして十一人のお姫様たちは戦場へと向かった。入場する際、イザベラは紫苑に向けてまた何かを言っていたが、紫苑はニヤリと笑い返しただけだった。——ヒヤヒヤさせてくれる。


 両チーム合わせて二十二名がピッチに立つ。


 独特の緊張感にスタジアムは包まれていた。東京ダービーとはまた別格の。優勝という想像しがたい重たさとはまた別の。何が起こるかわからないという不安な。例えていうなら、サバンナの中でポツンと取り残されているような。


 飢えた猛獣に見つめられる被捕食者の緊張感。


 そんな張り詰めた空気を打ち破ろうとブラスバンドの演奏と、サポータの腹の底から絞り出した声が響き渡っていた。


 そして今年最後のホイッスルが告げられた。


 センターサークルからボールが出て、真穂からいきなり紬。これを待ちわびていたかのように飛び込んできたイザベラが問答無用でスライディングタックル。


 嫌な倒れ方をした。


 ピピピピピ、と数の多い笛が鳴らされ、出鼻からイエローが飛び出した。


「——あいつ知ってたな!」


 俺と救急箱を抱えた宮瀬が駆け込んでいく。


 うずくまる紬の足首にスプレーを吹きかけ、状態を訪ねる。


「くそ」小さく。「くそくそくそ」芝生を叩いて大粒の涙を零していた。「まだ何もしてない。せっかくノッテきてたのに。くそ、くそくそくそくそくそ」


「審判! 今のは故意だろ!?」


 しかし主審は首を振った。


「試合前の言動も見たろ!? 明らかに潰しにかかっていた! 壊れてからじゃ遅いんだよ!」


「いいえ、故意ではなかった。確かにエキサイティングしている節はありましたが、ボールにはいっていました」


「だが結果、足に入ったじゃないか!」


「監督、これ以上はカードを出しますよ?」


「次はちゃんと見てくれ」


「交代はどうしますか?」


 宮瀬に視線を向けると返答に困った様子だった。多分そこまで悪くはない。だが捻挫の再発はほぼ確実だろう。


「治療してから」


 そう返して、担架にコート外へ運び出された紬の元へ寄り添う。骨に異常はなく、本人の意向もあったようで、テーピング処置が急がれた。


「また同じ失敗しちゃった。気をつけてたのに。かわせると思ってたけど、予想より二歩早かった。うん、でもあの人の速さは分かった。次はやられない」


「紬。君にはまだ先がある。大事をとって交代した方がいい。こんな試合、捨てるべきだ。君達に取り返しのつかないことが起きて欲しくはない」


「イヤ!」


 キンっと声が弾けた。


「監督に守ってもらって、キスまで奪って、何も返せないなんて絶対にイヤ! やる。やれる。点取ってくる。勝つ。負けない。絶対勝ちたい! 負けたくない! あの人にだけは絶対負けたくない! プレイでも絶対! イヤだこんな終わり方なんて! だってあなたに何も見せられてない! 代えないで! 折れてでも出る! 這ってでも出る! 壊れたっていい! 今日で選手生命が終わってもいい! それでも今日だけは負けたくない!」


 ここまで感情をさらけ出した彼女の意思を否定することはできなかった。


 俺は手を握り、そっと口づけした。


「無事に帰ってこい」


「うん」


 ボールが切れ、紬がコートに戻る。


 十分弱の間、ゲームに動きはなく、イザベラも大人しくしていたようだが、紬が戻ってくることを知ると彼女はえびす顔を浮かべた。


 イザベラにボールが入ると、空気が変質した。


 その破滅的で、破壊的で、圧倒的で、絶対的で、容赦のないドリブルは一人、二人、三人と抜き去り、コースのない隙間から凶暴で強烈で凄絶せいぜつなシュートが放たれ、先制点を奪われた。


 沈黙がグラウンドに落ちた。


 何が起こったのか、俺も含めてその場にいた全員が理解するのにひどく時間を要していた。


 やがてゴールを告げる笛が鳴らされ、ようやく全員が現実に還ってくる。


 電光掲示板に『GOLE!!』の文字が流れ、スコアボードに変化があった。


 チームプレイなんてものはなかった。ただ一人で驀進ばくしんし、独走し、ゴールまでの一筆書きを誰も止められなかった。そのワンプレーで俺たちに、恐怖と畏怖と震駭しんがいと戦慄を植え付けるには十分過ぎた。


 モノが違いすぎる。


 これで故障を抱えているのだとしたら。


「怪物……いや化け物か」


 完全という可能性もある。今日のために万全を期したのなら納得はできないが理解はしてしまえる話だ。


「あれは本当に人間でしょうか……?」


「そうあることを願うよ」


 少なくとも人としての感情は欠けていよう。スポーツ選手だと認めたくはなかった。


 こちらの攻撃は、及び腰になっていまっていて、いつもの躍動やくどう性が見られなかった。接触プレイにならないよう安全策で回すが、ゾーンを崩せない。


「焦るな。それでいい。確実にチャンスを狙えばいい」


 こちらが攻めてるということは、少なくともイザベラを近づけさせないでいい。だが宮崎はイザベラだけのチームでもなく、クレバーな守備をしていた。ミスをすれば確実に奪われる。


 背後ではライオンの従える子ライオンの群れが常に牙を向けていた。


 紬がボールを持つと、背後から杏奈、側面に香苗、それから少し下げた後方に真穂がフォローに入り、翼を懸命に支える。彼女は果敢にドリブルを仕掛けた。中に切り込んでいくと、二人を引きつけたところで、真穂から紫苑。さらには杏奈へのパスが通り、縦を俊足で貫く。折り返しのボールを香苗が狙うも、惜しくもキーパーが弾き返す。しかしこれをダイビングヘッドで紫苑が押し込んで同点弾。


 ウチのツンデレ嬢だって負けてない。


 そう、負けてないはずだ。


「とりあえず早い段階で取り返せてホッとしましたね」


 だがここからが圧巻だった。


 奪い返されてイザベラは俄然がぜん火がついていた。ゲーム再開からそのまま、イザベラはサンバを踊ってゴールへと直進する。


 パワーだけじゃなかった。スピード、キレ、フェイントの小技に、余す才能をすべて動員して、よもや七人抜きを決め、たったの数秒で追加点を許してしまった。


 着実に戦意ががれていく。


「天は二物も四物も与えたというか……」


「あれで人間性が備わっていたら素晴らしい選手なんだけどな。ただの野獣だ」


「監督。せめて我々は敬意を払いませんと」


「あれは選手じゃないから敬意なんて犬に食わせてやった。次、何かあったら俺は退場覚悟であいつをぶっ飛ばすから。監督追放されても構わない。そういう覚悟で望んでる」


 選手が命を懸けたのだ。俺も同等のものを懸けなければならない。


「返すよ!!」


 香苗が吠えた。


「まだ行ける!」


 由佳。


「集中切らさない! 声かけあって!」


 それから心美。


 声も出てる。まだ前半。選手たちのハートも折れていない。反撃のチャンスは必ずある。


 ゲーム再開から早いパス回しを展開。守備をかき回してゾーンを崩しにかかる。堅牢なゾーンディフェンスに最も有効なのはドリブラーだ。それを自覚している紬はしゃにむに切り込んでいく。一人ないし二人を引きつけ、香苗とワンツー。狭い隙間を抜けさらに中央をくぐり抜けてのスルーパスが紫苑に入った。トップスピードに乗った彼女はCBと競り合いながらもターンでいなすと、アウトサイドで引っ掛けたミドルを放つ。


 しかしキーパーが懸命に手を伸ばしてゴールにはならなかった。だがコーナーキック。心美の香苗にピタリと当てるボールを叩きつけ、ゴールをおびやかすも、ファインセーブに弾かれ、大きく蹴り出された。


「相手のキーパー当たってますね」


 どうにもこの試合は気色悪かった。


 たぶん、十一人いるのに十人を相手にしているような感覚だからだろう。味方が蹴り上げたボールはイザベラの近くに向かったが、彼女は全く反応せず、ボールを見送った。


 芽から心美を経由し、由佳。職人技のロングフィードで香苗に当てる。それを真穂が魔法の回転をかけたボールで左サイドを飛び出した紫苑に送り、一気に抜け出す。


 が、ワンテンポのタイミングでオフサイドだった。


「惜しい!」


「いいプレイ!」


 普段よりも、選手の声がよく聞こえた。もちろん声援の大きさは変わらないが、相手側があまり声を出していないことにあった。


 イザベラは、味方を褒めたウチの由佳や心美を睨めつけていた。


「……そうか、お前」


「何かわかったんですか?」


 あまりにも単純過ぎて思いつかなかった。おそらくイザベラは味方にもうとまれている。それがあの独善的なプレイに繋がり、味方の繋ごうとしたボールに反応しなかったのだ。


 信頼関係が最初からない。


 誰も信じられないから、他者を口撃し、保身に走っていたのだ。


「孤独な王様……いや、女王様か」


「あれほどじゃありませんよ」


「ん?」


「月見選手は、って意味です」


 俺は苦笑を返した。


「〝王様〟だったからこそ、今ではよくわかるんだ。信じてくれる騎士がいてこそ王様は輝くのだと。いずれの歴史も証明している。暴君は必ず淪滅りんめつする」


「いいえ、そんな由緒あるものではありませんよ。あれは」


 心美がボールを持ったところへ、イザベラが肩から突っ込んだ。吹っ飛ばされて、流石に笛が鳴る。審判が注意を行なっていた。


「彼女のやっているのはサッカーではありません。格闘技です。何がそこまで彼女にやらせるのかは知りませんが、人は正しくない行動に嫌悪を抱くものです。悪行は自滅を招く」


 イザベラは次のカードをきらったのか、割とクリーンな当たりで寄せ、ボールを奪還するも、客席からはおびただしいブーイングが注がれた。


「もしも、それでもイザベラ選手が人としての心を持っているとするのなら、こたえないわけがありません」


 果たして、感情的にブレーキがかかったのか、それとも抱えていた故障が悪さをし始めたのかは定かではない。しかしはっきりと現実に現れたのは、イザベラのプレイにかげりが見えたこと。


 彩香が懸命に寄せた。流石に技量の差で振り回されるが、それでも抜かせまいと食らいついて、時間を稼いだ。


 イザベラは苛立ちを見せ、一度、背後を向く。が、直掩機ちょくえんきも援護射撃もなし。


 完全に孤立していた。


 もちろんこちらが他のコースを塞いでいるということもある。だが、宮崎の選手はイザベラを助けようとはしていなかった。


「チームとしての方針が、攻撃はただ一人イザベラに任せているかはわかりません。しかしたった一人でそう何度もやらせはしない!」


 元ディフェンダーとしての意地もあったろう。真賀田コーチがこの一年、彼女たちに確かにつむいだ遺伝子が、イザベラを封じた。


 憐れむべきは絶対的な才能か。それとも欠落した人間性か。


 独善的なプレイでリズムを悪くした宮崎の守備に乱れが見え始めた。


 ボロボロの羽で懸命に飛び立とうとする紬はディフェンダーを一人振り切って、もう一人とかわし、ミドルを放った。


 飛び出していたキーパーの頭上を越え、再びの同点弾。


 スタジアムの歓声が爆発した。


 目頭が熱くなる。


 ゴールを決めても普段、あまり感情を見せる方ではないのに紬は拳を突き上げて叫んでいた。


 ゲームは振り出しに戻り、同時に前半が終了する。


 選手たちが引き上げてくる中。


「キエェェェェ——————————っ!!」


 宮崎ベンチから奇声があがった。


 何事かと目を向けると、立たされたイザベラに対し村路監督が雄叫びをあげていた。


「このド阿呆が! 何様のつもりじゃワレぇ!? ああ!? 何度言ったらその空っぽの脳みそに届くんじゃ!? わしゃ言ったやろうが! おんどれのためにサッカーやっとらんぞボケが! ええ歳こいて、ガキ晒しとんやないぞ! さっさとくたばれボケが!」


 するとイザベラは頭を下げていた。


 流石にあの口の悪さに恐れをなしたのだろうか。あるいは村路監督には頭が上がらないのかもしれない。


「わしに謝ってどないすんねん! あちらさんの7番に頭下げてこんか!」


 ふと俺たちと視線が合う。


 トボトボと歩いてきたイザベラは紬の前にやってきて深々と頭を下げた。


「その……悪かった。最初のあれは本当に故意じゃなかった……」


 紬は何も言わず視線を逸らす。


 信じろという方が無理だ。


 代わりに俺は、


「帰ってくれ。君の言動は許されることじゃない。今すぐには許せない。だがもしもその気持ちが本物なら、後半はサッカーをしてくれ」


 そうでないと倒し甲斐がない。


 俺は紬に負担がかからないよう彼女を抱き上げ、ロッカールームに引き上げていく。


「ああ!? 監督がプリンセス抱っこしとる!」


 杏奈はうるさいというか、いちいちリアクションが大きいというか。


「てか二人はそういう関係なん!? チューはしたんか!? って、しとったやないか!」


 一人ノリツッコミで盛り上がっている杏奈に、皆はくすくすと笑う。


 紬を長椅子におろして、咳払いをする。宮瀬やチームドクターが状態を確かめる中、皆に目を向ける。


「後半もしかしたら向こうは本領を発揮してくるかもしれない。トラブルはあったが、まあ蓋を開けてみれば、普通にただ荒っぽいだけのゲームだった。スコア的にも劣ってはいない。だからやることは変わらない。俺たちのサッカーをしよう。そしてねじ伏せる。点を取って黙らせよう。俺たちはサッカー選手だ。プレイでしか俺たちの言葉は通じない」


「俺たちのサッカーは?」


 にこりとして由佳が尋ねてくる。


「ああ芸術だ」


「あれ? 爆発じゃないの?」


「今日は芸術的なまでに美しいサッカーが見たいと思っていた」


「だってさ、皆んな。また監督が無茶振りしてる」


 皆呆れ顔ではあったが、どこか解れた様子だった。


 それから戦術的なことを軽く確認して、後半へと送り出す。


 サポーターの大声援が轟くのは変わらずだったが、一部始終を見ていたファンの中には、不安混じりなよそよそしい空気が立ち込めていた。


「……目つき変わりましたね。監督があんなこと言うから、本当に獅子を目覚めさせてしまったかもしれませんよ」


 ピッチに戻ってきたイザベラを含めて、不信感が充満していた宮崎の選手たちにも吹っ切れた感が漂っていた。


で七人も抜かれちゃ世話ない。見た目が派手なだけで、普通にゴロゴロいるよ。世界には。うちのディフェンスがまだまだってことさ」


「冬合宿では下半身と全員のディフェンス強化ですね」


「もう来年のこと考えてんの? その前に、オフの旅行でも考えない?」


「あら、我々はもう一部への昇格が決まった身ですよ? のんびり構えていてはすぐに降格します」


 真賀田は選手たちへと視線を注ぐ。


「彼女たちは強くなりました。今日は勝ちましょう」


「ああ」


 そしてホイッスル。


 相手トップ下がサイドへ散らした。


「フォチェック!」


 紫苑がスピードを生かして寄せに掛かる。


「九番チェック!」


 オフザボールの動きでマークを攪乱かくらんしようとするイザベラ。


「チェック了解!」


「ルックアップ忘れない!」


「縦パス警戒!」


 香苗、紬と寄せに行き、相手ボランチの選手が受け手に向かう。そこを真穂が寄せ、前を向かせなかった。苦し紛れにサイドへとボールが出され、杏奈が寄せる。宮崎はパスコースを限定されて苦しいパス回しを余儀なくされるが、ミスはなかった。


 ミスのない狭いパス回し。早く、密集した場所をミシンで編むようなリズムから、一瞬の隙を突かれてイザベラにボールが出た。


「ファウル気をつけて!」


 両側から木崎姉妹が挟み込むも、圧倒的なパワーとボディバランスで二人を抑え込む。さらにスピードに乗ったイザベラは二人を振り切った。


 すっと、影が芝生を散らす。


 イザベラの足元にあったボールが大きく跳ね返されていた。


 杏奈だった。


 木崎姉妹の抜かれたフォローに回り、あのイザベラを上回る速度で追いついたのだ。


「でかしたぞ! 俊足お化け!」


 だが俺の軽口も聞こえていないほどに、杏奈は集中した様子だった。


「……、あの子」


 試合が、ようやく試合らしくなって、選手たちはこの瞬間にも成長していた。ずっと、慣れないサイドバックをやらされていた杏奈はいよいよ自分のやるべきことを理解し始めていた。


 スローインから再開。厳しく寄せに行った彩香から相手はボールを零して、いち早く反応した真穂が拾う。ターンでマークをかわした。


 その、アウトサイドで回転のかかった魔法のボールは、右サイドを駆け上がった杏奈の足元に収まる。


「——あの距離をもう!?」


 いつも一緒にいた真穂と杏奈は親友だ。


 


 そう信じたゆえのノールックパスが繋がり、縦を貫いた。彼女のスピードの追いつけるものはピッチ上でも多くなく、折り返された時には紫苑が完全フリーできっちりと枠に収めて逆転弾。


 ゴールの喧騒が鳴り止まぬままゲームは再開。逆転され、火のついたイザベラは果敢に攻め掛かるが、中盤の網にかかり仕事をさせない。しかし流石は怪物。そう簡単にボールを離さず、味方がフォローに来た時、わずかな隙間に送り込む。


 中盤で、イザベラに人数を割いてしまい大きくスペースが空いてしまう。サイドを攻め込まれた。杏奈は一旦は抜かれるも、速さで食らいついてクロスを上げさせない。


 スローインから宮崎は短いパスを繋いで、再びイザベラ。


 それはいつの間にか信頼を込めたボールに変わっていた。イザベラなら——そんな思いのこもったボールを操り、木崎姉妹のセキュリティを破ろうと突破を図る。


 だが彩香との三人で囲み、主導権を奪う。心美から香苗のポストに当て、紫苑がお返しにと一人を抜き去り、中へ絞っていた紬へと。ドリブルを警戒した相手は、紬にボールが渡る前に止めようと激しく寄せるが、ワンタッチで返す。


 風を切り裂いて美しい轍を描く白銀の少女はシュートを放った。しかし相手の執念が勝り、ボールの勢いは殺された。あと数十センチでゴールというボールを相手ディフェンダーがスライディングで軌道を変えた。


 コーナキック。


 心美からピンポイントで上がったボールを、二人のディフェンダーと競り合った香苗が叩きつけるが、惜しくもポストを跳ね返る。大きくクリアし、一本のパスでイザベラに入ると、彩香を振り落として進撃開始。


 芽と萌は振り切られて、皐月との一対一。


 ボールには触れたが、関係なかった。


 再びの同点弾。


 ゲームが再開し、両チームの持ち味が十分に生かされた展開が続く。宮崎はショートパスで丁寧に前線までボールを運び、イザベラを頼る。しかしそう何度もやられないとイザベラへの供給を断つ。一人のタレントに対して、イシュタルFCは十一人で対処。


 真穂を起点としたトリッキーな変調で相手の虚をく。両ウイングの個性を生かして突破を図るも、片翼は満身創痍で、もう片方の翼も守備に走り通しでスピードに陰りが見え始めていた。能力差が埋まると、なかなかディフェンスを崩せず、シーソーゲームは膠着こうちゃく状態に入っていた。


「……監督」


 時計を見る。


 後半も四〇分を過ぎていた。第四の審判がアディショナルタイムを告げる。四分だった。


 こちらが切れるカードは、逃げ切るための守備が上手い選手だ。平均運動量を回復させる意味はあっても攻撃力の増強はできない。


 だが宮崎とて同じこと。イザベラ頼りしかない。


「このままで行く」


 イザベラがボールを持つと、「あっ」とした歓声や悲鳴が同時にあがった。彩香と心美を抜き去り、芽も簡単に抜かれてしまう。


 が、これを読んでいた萌がボールを奪取。


「ようやく君もか」


 この試合で生きた情報を集積・分析・解析・対策し続けた萌は罠を仕掛けたのだ。止めるならそこしかないというタイミングで。


 由佳から香苗。香苗から紫苑。そして紬。そのダイレクトプレーは紬に仕事をしやすいスペースを開けるため。


 最高のパスが通った。


 が、スルー。


 俺も含めて今日の試合を見る全員が出し抜かれた。


 誰も反応できなかった。


 いや、そこに来ることを知っていた真穂だけがボールを受け取ると、バイタルエリアに切り込んだ。


 そして、無回転シュートが放たれる。


 キーパーは反応できなかった。


 しかし予測不能な揺らぎは。


 サッカーの女神さまは。


 ほんの少しだけ悪戯をした。


 カンっ、とポストを跳ね返る。


 宮崎の選手たちに一瞬、安堵の表情が浮かぶも、やがて蒼白した顔つきになった。


 ぬっと、巨大な影が頭から飛び込んだ。


「おせえよ、香苗」


 最後まで可能性を捨てなかった香苗だけが溢れたボールに反応して、ゴールへと押し込んだのだった。


 イシュタルFC、その全てのファンが歓喜を爆発させた。


 時計は四十五分を指したところだった。


 紬を含めて疲労の濃かった杏奈や紫苑を変える。


 そして、残り四分を死守した。




 試合終了のホイッスルが鳴った時、イザベラは膝をついて天を仰いでいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る