アディショナルタイム
ベンチに戻ったイザベラは聖母に祈るように天を仰ぎ続けていた。
イシュタルFCが優勝の喜びを祝う中、まるでモニュメントのように彼女はずっと。
やがて喜びの
「……だいぶ悪かったのか?」
覇気のない瞳がゆっくりと焦点を合わせた。
イザベラは何も言わなかった。
「内臓か? 医者を——」
「気管支拡張症」
俺は眉根を寄せる。
原因は様々だが、非可逆的に気管支が拡張する病気だ。これにより細菌やカビが増殖して炎症を起こし、気管支や肺が破壊される病気だ。
イザベラは、吐血していた。
彼女の口元は真っ赤に染まって。
「片肺を切除することになった。手術は来月さ」
それは選手生命の死亡を意味していた。
「だからって、他者を巻き込んでいいことにはならない」
「かもな。他人なんてどうでもよかった。むしろ希望ある連中を皆、壊してやろうと思った。だが、蹴落としても潰しても、あいつら地獄の亡者のように何度も這い上がろうとする。今日の試合だって、あの7番、故障を抱えてあれだけのプレイをした」
イザベラは頭を抱えて言い落とす。
「羨ましいよチクショウ」
「君ほどの選手が残念だ」
キッと睨みつけ、イザベラは胸ぐらを掴みにかかった。
「同情するならテメエの体をくれ! まだプレイできんだろ!? なのになぜお前は監督なんてやってる!?」
「俺は今、監督をやってよかったと思っているし、そして今後もあの子たちのサッカーを間近で見続けたいと思っている」
「……お前もどこか悪いのか?」
「君には関係のないことだ。君が考えるべきは、手術後自分がどう生きていくかだろ。他人なんて気にしないんだろう? だったら向き合っていくしかない。変わってしまって、それでも自分がどうありたいか、何をしたいか、考えを辞めなかった者だけが未来を生きていける。俺はそのことを彼女たちから教わった」
「偉そうに説教垂れてんじゃねえ!」
「いや、言わせてもらう。少なくとも君は、俺の大切な人を傷つけた。その罪を償ってもらわなければならない。個人的に」
「何をする気だ?」
「殴る気だった。手足を折って再起不能にするつもりだった。だがその気も失せた。勝手にくたばって死ね」
捨て台詞を吐いて俺は身を翻すが、「ああそうだ」と振り返ると、ジャケットのポケットから名刺を取り出し、芝生に置いた。
「もし就職先に困ったら、相談には乗る。ウチはスタッフが少ないから」
「お前……許さないんじゃなかったのか?」
「結果的に今日の試合でも得るものはあった。その点は感謝している」
そう言い残して俺はグラウンドを後にした。
*
優勝の興奮は時間の経過とともに冷めていく。
こんなものか、という気持ち半分、一年を戦いきってホッとしたのが半分。二部リーグだったというのもあったかもしれない。物足りなさを感じていたのは俺だけじゃなかったはずだ。
季節は冬。
頭上では離発着のアナウンスが告げられていた。
搭乗ゲートの前には及川と荷物を抱えた鹿野紬の姿があった。
「じゃあ、監督……」
ああ、と俺は生返事をした。
リーグが終わって紬の怪我はすぐに治ったが、嬉しいような嬉しくないような話が舞い込んだのだった。今期の試合を見た海外のスカウトマンが紬の才能を欲し、すぐに移籍話がやってきたのである。
ここ一ヶ月ほど、彼女はとても悩んだ。俺も、スタッフも、もちろんチームメイトとも相談し、彼女は結論を出した。
スペインだそうだ。
しかも一部のトップチームなのだから、断る理由がない。クラブとしては多額の契約金で引き止めようとしたが、世界で挑戦したいという彼女の好奇心を止められるものはおらず、海外へと羽ばたくことになった。そんな彼女を応援しない者はウチのチームにはおらず、全員が空港に集まっていた。
皆が一人一人別れの挨拶と、紬へのエールを送った。悲しい別れではないのに、皆んなボロボロと涙を流していた。しかし紬は頬を濡らすことなく、笑顔を見せていた。
「ダメだったら帰ってきていい?」
最後に紬は俺に言葉をかけた。
「もちろん。いつでも右ウイングは空けておく」
「監督の、ううん、健吾の右隣は?」
俺は肩をすくめた。
「気づいていると思うけど、私はあなたが好きです。人として、異性として、監督として選手として尊敬しています」
「ありがとう。俺も君のことが好きだ。選手として、人として、」
喉元に言葉を押し込める。
「本当は引き止めて欲しい。向こうで通用するか不安。たぶん健吾に止められたら決断を変えてしまう。だから——」
胸に飛び込んだ紬は顔を寄せ、瞼を閉じた。
驚いたままの俺の唇を奪い、しばらくして身体を離す。
「付き合ってくれとは言いません。愛人も浮気も私は許します」
「俺は……新しい夢を見つけた。いつか君をさらう〝日本の王様〟になる。いや、近い将来、必ず。だから君は俺にさらわれるほどの、俺が愛さずにはいられない選手になれ」
「は、い」
顔をくしゃっとさせた紬は涙を抱えて、震える声で返事をした。
「誰も君を止められない最高のドリブラーになれ」
「は……い」
「世界を飛び回る美しい鳥に。芝生の上を舞う蝶に」
「はいっ」
「行ってこい」
力強く頷くと、紬はゆっくりと回れ右をした。
この世界じゃ別れなんてよくあることだ。しかし才能のある彼女を失うのは大きな喪失感があった。チームとしても、あるいは個人的にも。
思えば大事な場面、いつも紬に救われた。
彼女の決して折れない強い意志に支えられた。
振り返らずに進みゆく彼女の背中に向け、俺は拳を向けた。
「羽ばたいてこい」
雛鳥は今、広い世界へ飛び立とうとしていた。その背中はいつの間にか大きくなっていた。誰も追いつけない世界に行ってしまうだろう。それでも鹿野紬が優雅に羽ばたく姿はきっと世界中を魅了する。
共にレベルアップして、いつかまた一緒に。
サッカーをやろう。
(完)
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