8章

大一番の秋(1)

 ユニフォームは長袖に変わり、夏を押し返す冷たい風がスタジアムに舞い込んでいた。


『ゴー、ゴー、レッツゴー、イシュタル、オールゴーっ!!!!』


 スタンドの声援が心臓をグツグツと煮立たせ、爆発した選手たちがゴールを量産した。


 一度波に乗ったイシュタルFCの猛攻を止められるチームはいない。


 歴然たる事実である。


 仙台に勝利してから四連勝で九月を終えた。十月に入ったこの日、大量得点で五連勝を飾り、また一つ上位との差が縮まった。


 残り三節。


 首位の宮崎ファルコンFCとは二ゲーム差。調子を落として連敗続きだったTGAとはゲーム差なし。


 読みは当たっていた。


 あれからイザベラがフル出場することはなく、また驚異的なプレーを見せた翌週は不発になることが多く、勝利を取りこぼす場面があった。


 とはいえ、こちらも不安がないわけではない。


 選手層の薄いイシュタルFCのスタメンは疲労が見え始め、連勝しているとはいえ、フルメンバーで戦う機会はなかなかやってこなかった。それでも勝ちきれるところは、彼女たちが本当に進化した証だ。


「では、チーム佐竹出動です!」


 夏希が音頭を取り、ロッカールームに引き上げてくる選手たちに、スタッフ総出でマッサージを始める。選手の補強が叶わない代わりに、この秋臨時でトレーナーを雇っていた。夏希は大学や専門学校を回って学生を集め、選手一人に対しトレーナーを一人つけるという大奮発。時間の効率化の意味もあるが、一人一人とコミュニケーションを取る意味が大きかった。少しでも違和感を感じたら報告。決して怪我をさせないというチーム方針だ。


 もちろん俺も要員の一人である。

 ただ……。


 紫苑が腕を取り、「さあ」という風に顎をしゃくる。すると背後から紬が羽交はがい締め。


「あー、二人ともまた取り合いしてる! 今日は真穂の番なんだけど!」


「これはあれやな。俗にいうモテ期やな」


 反論をしたいところであるが、完全に頚動脈を決められ、ノックアウト寸前である。


 なんとかギブアップが通じて解放される。


「だって月見のマッサージ気持ちいいし」


「テクニシャン」


 誤解だ。


 選手もスタッフもくすくす笑っていた。


「やっぱりだな……俺がマッサージは色々とまずい気が……」


 なんとかこの修羅場を逃れようと道筋を立てるのだが。


「けれど、紫苑ちゃんも紬ちゃんも監督じゃなきゃ嫌だって。真穂も今日の反省をしたいし」


「よよし、じゃあこうしよう。今日はMVPをとった選手の相手ってことで……」


 皆、首を傾げ合い、一様に香苗へと焦点を合わせた。


「触るなチカン!」


 蹴飛ばされて退出。ホッとしたような心が痛いような。


 通路に出ると、菓子パンを頬張る心美と視線が合った。


「ひっ、ここここれはちがっ——」


 ちなみに、本日彼女は欠場だった。


 逃げ出そうとする心美の首根っこを掴んで、座らせる。それから俺も壁に背を預けて腰を下ろした。


「えっと……その……これは……糖質を抑えたダイエット菓子パンでありまして……」


「なあ、心美。何か抱えてないか?」


 隠れて糖分を摂取するのは日常ではあるものの、かといって体重が増えている様子もない。ただ、ここ最近の彼女のプレイは精彩を欠いている気はしていた。


 心美は小さく頷いた。


「些細なことなんだけど。たぶん皆んなが聞いたらそんなことって思うんだろうけど」


「大きいも小さいもないさ。それが心美にとって大きな悩みだったら、大切なことだ」


「うん、あのね。最近皆んな調子が良くって、誰を使えばいいかわからなくなる時があるの。それで一瞬の判断が遅れて、パスカットされる。最近の失点、私からが多いなって。どうしたらいいのか頭でいっぱい考えたら、お菓子が欲しくなるの」


「身体の中で一番糖分を使うのが脳だからな。考えるのは悪いことじゃない」


「でも、判断しきれなくって。ベストがどこかわからない。紬ちゃんの考えていることもなんとなくわかるし、紫苑ちゃんのやりたいこともぼんやりとわかるし、香苗やサイドを上がる杏奈や由佳ちんのことも、ね」


「……全部か?」


 心美はまた小さく頷いた。


「なんとなくだよ。でもその先がどうなるのかまではわからない。だから迷う」


 心美は、プライドと自己主張の激しい前線の三人とは真逆の性格だ。


「心美は優しんだな」


「優柔不断なだけ」


 ゲームメイクをする彼女は、自分の意思よりもチームにとって確実な選択をしてきた。ベターな選択。それがあるからこそ、攻撃のリズムが生まれ、得点に結びつくことも多かった。そして彼女は先ほど「ベストな選択を考えている」と言った。つまりはよりチームのための進化をしようとしている途上なのだろう。


「心美自身のやりたいことは?」


「うん、それがわからないから悩んでる、かな。ねえ監督。どうして私を使ってくれるの? 運動量は多くないし、意思弱いし、迷惑かけてるし……」


 心美は抱えた膝に顔を埋めた。


「そりゃ、チームで一番キックの精度が高いから」


 コーナーキックやゴールに近いフリーキックを除き、止めて蹴るボールの精度で彼女の右に出るものはいない。そして、その基本ができているがゆえに、動いている試合中のパス精度も高い。


 彼女は。十センチ以上ブレるボールを出したことがない。味方の収めやすい場所、打ちやすい場所、そこにピタリとボールを出せるのだ。


「それだけ?」


「あとは視野の広さ、トラップの柔らかさ」


「他には?」


 俺は肩をすくめた。


「やっぱり持ってるもの少ない……」


「何言ってる。止めて蹴る。これがサッカー選手に一番必要な技術だよ。それが一番上手いってのは言い換えれば、サッカーが一番上手いってことだ。だから使ってる。中盤の底でミスをしない。これはチームに安心と信頼をもたらしてる」


「でもそれだけじゃ置いていかれる……」


「パスを出した先に何が起こるかわからないなら、もっと考えればいい」


「考えても、考えてもわからない」


「じゃあもっと考える」


「水掛け論よ」


「一人で答えが出せないなら、今みたいに相談してみれば? 相手のことをもっと知って、理解する。君は優しいからそういうことができるはずだ」


 ダイエットメニューがあって、隠れてつまみ食いする心美は独りが多かった。だからコミュニケーション不足が招いた。


「……それでもわからなかったら?」


「そん時は自分の勘を信じるしかない」


 心美は口を閉ざし、しばらく床を見つめていた。


「……たぶんそうするしかないよね。私、小さい時も独りが多かったから、自分で考えてばかりだった。うん、そうしてみる」


 もしかしたら心美が隠れてお菓子を食べたりしていたのは、単に甘いものが欲しかったのではなくて、相手に踏み込む方法がわからなかったからなのではないか。優しい性格は、相手を怒らせないように。


 そう考えると、合点が行く気がした。


「時に打つかるのも経験さ」


「うん、監督。ありがと。頑張ってみるね」


 心美は気品よく微笑むと、食べかけの菓子パンを口に突っ込んできた。


「ふふ、間接キスだね」


 出し抜かれて頬を染める俺に、


「二度落ち」


 と由佳。


 その背後にはイレブンの冷たい視線があったのである。

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