六合目(5)

 スタジアムにはしじまが落ちていた。


 絶句、唖然、驚嘆、失意。


 そんな表情がTGAサポーターの間に浮かんでいた。

 イザベラがボールを持つたびに、歓声と悲鳴が同居する。


 前半開始二十分を過ぎて、スコアは0−2。その二点はたった一人の個人技により生み出されたもので、そして今、三点目が入ったのだった。


 俺はTGAベンチに視線を向ける。結城は拳を叩きつけていた。


 歯ぎしりの音が聞こえてきそうだ。


 決してTGAの調子が悪かったわけでも、奇策が通用しなかったわけでもない。こと、イザベラ以外に関しては完全に機能しており、宮崎にほとんど攻撃をさせていなかった。


 宮崎は深めのディフェンスラインを保って、カウンター狙いの布陣を敷いて、一発に賭けるという戦術だ。そして、その一発が脅威的だった。ゾーンディフェンスでイザベラを囲んでも、必ずこじ開け、独走。気づけばゴールを奪われていた。

 二点目を取られた段階で結城はイザベラにボールを入れさせないようリスクを背負ってでも積極的なインターセプトを狙ったが、イザベラが一人で奪いにきて三点目を取られていた。


 もうこうなるとサッカーではなかった。


 その試合は。

 そのゲームは。


 イザベラ一人のショーだった。


 それをスタジアムの全員が理解していたからこそ、TGAを応援していたファンは絶望を突きつけられ、宮崎を応援していたファンはさらに湧いていた。


 こんな選手がいていいはずがない。


 たった一人で試合を支配——壊してしまう選手がいるはずもない。


 俺が見ているのは悪い夢ではなかろうか。


 今までの試合を頭の中で再生させても、イザベラはここまでではなかった。今日覚醒したのか? それとも自らの爪を隠していたのか?


 前半終了間際、四点目を奪ったイザベラは見上げた。


 その視線は確実に俺たちへ向けられたものだった。


 イザベラは不敵に笑っていた。


 ハイエナだ。

 ゴールを食らうハイエナ。


 さらに驚きだったのは、後半が始まってイザベラは交代したことだった。どこか故障した様子もなかったし、怪我を抱えているとの情報もない。もっとも、公にされていないだけかもしれなかったが、試合中だというのに俺たちの背後に現れてこう言ったのだ。


「お前たちは何分持つかな? 今日はまあまあだったよ。まあ二部程度ならこんなもんだろう」


 紫苑は何も言わずに立ち去ろうとする。


「お前程度、世界ではカス以下だ」


 鋭い視線を向けた紫苑だったが、言葉は返さず立ち去った。


「あんたなあ!」


 怒りを露わにする香苗だったが、「香苗。相手には敬意を払え」と俺は窘める。


「なあ、月見健吾。あんたは世界でも一握りの選手だったはずだ。それがなぜこんなゴミとたわむれている?」


「地獄に落ちろ」


「監督!」


 前言撤回した俺を夏希が咎めた。


「だが、今のあんたのチームを倒すのも悪くはない。あんたのチームは妙ちくりんなサッカーをする。私と戦える程度には上がってこい。でないとぶっ壊す楽しみがない。泥の中で這いつくばり、上がってこい。そして私がお前たちを粉砕する。それが私のサッカーだ」


 そう言い残してイザベラは姿を消した。




 試合後、俺はTGAの控室を訪れた。


 結果は言うまでもなかった。後半立て直したTGAは二点を奪うも、反撃虚しく敗退。いや、イザベラが抜けてようやく二点を取れたと言った方が正確ではある。


 選手のけたロッカールームで、結城は項垂れていた。


 その頬には一筋の涙が伝っている。


 かつてはイシュタルFCを見捨て、ある意味非道なことをできる結城がたった一度の敗北で涙を見せることなんて稀有けうなことだった。いや、勝つためならば手段を選ばない男だからこそ、己のサッカーを根底から否定されての敗北は耐え難いことだったのだろう。


「結城さん……」


「ああ、月見くんか。悪い、カッコ悪いところを見せちまった」


 何を言っていいのかわからず、俺は閉口する。


「少し付き合ってくれ。飲みに行こうか」


 結城はぎこちない笑顔を見せたが、


「ああ、君は明日試合だったな。忘れてくれ」


「少しなら」


 夜行バスか朝イチの便でも十分に間に合う。それに俺も結城から聞いておきたいことがあった。


 それから俺たちはタクシーを使ってスタジアムの最寄りから二つ離れた駅の近くの飲み屋に立ち寄った。


 結城は最初から度数のきつい酒を煽り、俺はチビチビと日本酒をやる。


「あれは人間じゃない」


 結城は言い落とした。


 真意を伺おうと、顔を覗く。結城の目にはおおよそ恐怖が浮かんでいた。


「スピード、ボディバランス、パワー、何もかもが世界水準以上だ。男子と肩を並べても可笑しくはない。だがそうじゃないんだ。そんな神様みたいなプレイヤーがいてもこの世界は不思議じゃない。そうだとしても対策のしようはある」


「と言うと?」


 結城は青筋を浮かべ、グラスをテーブルに叩きつけた。


「ハーフタイムに引き上げてくる選手たち全員が、泣いていた」


 俺は眉根を寄せる。


「殺したんだよ。言葉で」


「……試合中に侮辱したのか?」


「何を言われたかまでは聞かなかった。だがおそらくあいつは、戦意を喪失させるためにプライベートを知って、そこを突いていた。俺の作戦は完璧だったはずだ。だが、ディエルになると、選手は皆腰が引けていた」


「あんたの願望じゃないよな?」


 カッと目を開いて結城は俺に掴みかかってきた。


「俺が! イシュタルFCにした仕打ちも全部知っていた!」


 居た堪れなくなり、俺は目を伏せた。


 憐れみもあった。結城を許したわけでもない。けれど、あの試合以来、結城は正々堂々と戦っていた。変わった結城に対して試合以上の敵意を向けるつもりはない。


 結城は弛緩しかんして、手を離す。


「今、フロントが俺の進退について話し合っている」


 そうか、と返すことしかできなかった。


 証拠はないし、俺が語らなければ明るみには出ない話だ。結城がウチの選手に潰す指示を出したことは。もっとも、スポーツの世界じゃよくある話といえばよくある。それが良い悪い、真意がどこにあったかはさておいて、危険な選手を表現上「潰せ」と言う指示はよくあるのだ。


「もしかしたら、君の疑惑の件もイザベラは一枚噛んでいるかもしれない」


「終わった話だ」


 とはいえ、一応確認のため俺は一度席を立って及川に連絡を入れた。返事は端的にこうだった。「関係はない。が、嗅ぎ回ってはきた」とのこと。あの疑惑の件も含めて、イザベラに選手のプライベートを明かした事実もないそうだ。どこまで信用できるか定かではないが、本当にくだらない話だと思った。


 だが逆に、確信もした。

 付け入る隙はあるのだと。


 そうまでして、コート外でのトラップを仕掛けなければならないのは、何らかの弱みを抱えているからだ。自分の弱さに気づいた人間は、おおよそ二種類の行動パターンをする。逃げるか、自分を強く見せようとするかだ。イザベラはおそらく後者。


 それから結城とは昔話に少し花を咲かせて、別れることにした。




 三重行きの夜行バスに乗り、俺は宮崎の全試合データを吟味することにした。


 データには隠しがたい事実だけが載っていた。


 圧倒的な得点力と。


 おそらくそれは、爆弾とも言い換えられよう。

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