六合目(3)

 ボールが切れたのは、同点弾を決められてからだった。


 幸いなのは、対処が後手に回らなかったことだ。同点ゴールを許してからベンチがバタついていれば、グラウンドの選手に動揺が波及する。ドンピシャのタイミングで真穂を投入できたことにより、気持ちの立て直しをすることもなく、打ち合いの意思を伝えることができた。


 あとは、彼女たちがどこまでやり切れるか。


 一応、残り二枠の交代準備もさせておいて——


 おおっ! と客席が響めいた。


 サイドを貫いた紫苑からポストすれすれのシュートが放たれる。惜しくもゴールには結びつかなかったが、追撃に前がかりになる仙台に対しての牽制にはなった。


 しかし観客が声をあげたのはシュートでもなければ、紫苑の突破でもなかった。


 そもそも紫苑は。抜く必要がなかった。真穂から繰り出されたノールックパスは、ディフェンダーの意表を突き、スペースへ放り込まれていたのだ。


 ゴールキックからのセカンドボールを仙台が拾い、少ないパス回しから一気に裏を突かれた。


 皐月は動けず、あえなく失点。


 一瞬の緩みも見逃さない。これが心臓を食べて産んだとされる地を揺らす怪物フェンリルの名を持つ仙台の強さだった。惜しい攻撃程度では動じない。その精神力の高さがチームに浸透しているがゆえの強さ。それを支えているのはトータルフットボールで絶対に崩せるという自信。それを実現できる選手と、その練習を積み重ねてきた彼女たちの経験だ。


「でも俺たちも負けてない」


 幾多の敗北を知って、それでも這い上がろうとする彼女たちだって。


 中盤の奪い合い、互いにパスコースを読み合って攻守は目まぐるしく入れ替わる。


 混戦の中、芝生に根を張らせた香苗がキープ。真穂から心美、三角形の轍を描いて狭い隙間を抜ける。裏へ出されたスルーパスに紫苑がいち早く反応。ディフェンダーと競り合うも、スピードの差で振り切り、キーパーの股下を通して同点弾。


「ようやく我々はトップチームともまともにやり合えるところまで……」


「違うよ真賀田さん。才能の点ではすでに一部でも遜色そんしょくないものを持っていた」


 あの及川が目をかけた選手たちだ。持っていないはずがない。


「今まではそれが噛み合わなかった。いや、ようやく補い合い始めたんだ」


 チームとして本当の意味で機能し始めていた。


 残り三分。アディショナルタイムを含めれば、五分弱といったところ。


 先に牙を向けたのは、仙台だった。


 これまで中盤の高い位置でボールを散らしていた一〇番が、ドリブルを選択。パターンを崩したことにより、木崎姉妹の判断が一歩遅れた。そこへ飛び出したFWに絶妙なスルーパスが通る。


 鋭く、ホイッスル。

 ベンチを含め、スタジアムが沈黙する。


 それは、俺たちの息の根を止めるにはあまりにも呆気ないものだった。


「——監督っ!」


 真賀田が悲鳴をあげた。


「いや、このままで行く!」


 ペナルティエリア内で反則をした三岳は、レッドカード一発退場。そして、PKを与えてしまった。


 ここまで走り通しだった両サイドバックを変えるプランは念頭にあったが、ここで追加点を取られたとしても、守備的な選手を入れてもあまり効果がない。もっとも、攻撃の手札はもうないのだ。選手層の薄い弱小クラブの宿命だ。


 ベンチの皆は手を組み、まだ希望が繋がることを祈っていた。


「皐月くんなら」宮瀬コーチは祈らず、口にした。「止めてくれる。私はそう信じていますし、彼女にはその力がある」


 同感だ。


 キッカーは、ここまで仙台の攻撃を支えてきた一〇番。キャプテンマークを背負い、まさに相手の心臓といっても過言ではない。データ的には八十八%の成功率。これは世界的にみても高い部類だ。


 助走から蹴り出されたボールは右の角。精密なキックは確実にゴールネットへと吸い込まれていく。地面を弾けだした皐月は軌道を読んでいた。だが、懸命に手を伸ばしても数センチ及ばない。


 キンっ、と高い音が弾ける。


 ボールはポストとゴールバーの角を直撃し、高く舞い上がった。


 首の皮一枚。


 サッカーの女神様はまだ。


 いや、届かないだろうとの予想を覆して、皐月は指先でほんのかすかに軌道を変えたのだ。決して運ではなかった。


 落下地点に入った萌がヘディングで押し返す。


 ボールを受けた由佳からロングフィード。


 その先にいた紬はボールを落とさず、背中越しに自身の頭を越えるヒールパス。相手最終ラインの裏へ大きく蹴り出したボールに飛び込む紫苑。すでにディフェンスは振り切った。ピンチから一転、千載一遇のチャンスが巡ってくる。


 キーパーがコースを絞りに飛び出した際、鋭いシュートが放たれた。


 だがサッカーの女神様は意地悪だった。


 同じくポストに嫌われた。


「——真賀田さん、交代の準備」


「え——?」


「逃げ切る。あと三分」


 大歓声が割れた。


 ポストを直撃したボールの行き先に、真っ先に飛び込んだのは香苗だった。


 足を伸ばしてゴールに置くだけ。


 最後の最後で香苗はゾーンを見たらしい。


 萌がヘディングで弾いた段階から香苗は相手ディフェンスの視界から消え、最後の詰めの準備に走っていたのだ。


 それは、味方が必ずシュートまで導くと信じたゆえの行動だった。





 ファンの去ったスタジアムは静謐せいひつに包まれていた。


 東京湾から流れてくる潮風が、ほのかにいその匂いを運んでくる。沿岸部に湾港や工業施設が立ち並び、空と海は夕暮れの緋色を帯びて燃えるような色に染まっていた。


 俺は客席から電光掲示板を見上げた。


 スコアボードに刻まれた数字は3−2。


「——イシュタルとは」


 声がして振り返ると、佐竹一成氏が姿を見せた。


豊穣ほうじょうの女神、愛の女神、戦の女神、多くの神性を宿す女神として、語られる。私はそこに、『王権を求め、人々に愛を与える存在としてゴールに豊穣をもたらす』という意味を込めたんだ」


 佐竹氏は微笑を見せた。


「まさに今のチームはたくさんのゴールを見せ、玉座を目指している。ひとえに君の力だよ」


「恐縮です。けれど、俺の力なんて一%ほどでしょう。全部あの子たちが頑張ったからですよ」


 佐竹氏は客席の階段を上がって行き、スタジアムの向こうに見える海岸へと目を馳せた。


「ここにスタジアムを建設したのは、近隣市民から抗議を受けないためでな。誘致には苦労したさ」


 実はこの人物、政治にも顔が広いのだろうか。思っている以上に権力のある人物かもしれない。


「私は、イシュタルFCに関わる全ての人が一体になれることを望んだ。ファンも含めて、九〇分をお祭りにしたかったんだ」


 ああ、だから。


 珍しいブラスバンド応援が実現したのか。


「私も夏希も、もともと東京の人間ではなかったのだがね。東京に来てたくさんの人に助けられた。だから返したかった。どんな絶望があったとしても、希望がある。そんな試合を届けられたら、とね。このスタジアムが、地方から出てきた人への居場所、もともと住んでいる人たちへの故郷の地となればいいと」


「あの子たちの試合を見ていると、いつも思うんです。まだ先がある。もっと先に行かないとならない」


「月見くん、いや月見監督。改めてお願いしたい。娘を、このチームを頼む」


「ええ、俺でよければ」


 その時、ぱちぱちぱち、と手打ちが響いた。


 振り返ると、小柄な中年男性が姿を見せる。


「結局——」及川だ。「監督を決めるアシストをしちまったのか」


 俺と佐竹氏は訝しげに及川へ視線を向けた。


 彼は茶封筒を投げ渡した。中を開き、俺は瞠目どうもくした。写真が数枚。それは、俺に対しての疑惑を生じさせた写真の数々だった。


「あんたまさか……」


「ああそうさ。全部俺がリークしたものだ」


「なぜ? あんたは俺を選手に戻したかったのでは——」


 そこまで言葉にして合点に至る。


 監督の背任行為を世間に吹聴ふいちょうすることで、監督の立場を危うくさせようとしたのだとすれば、納得がいってしまう。


「そうだよ。月見を選手に戻すため、卑怯な手を打った。ずっとお前のそばで監視していた」


 クラブに出入りできる人間、スケジュールを知る人間。イシュタルFCのスカウトマンなら十分に可能なことだった。


「俺だけならまだしも、選手を巻き込んだあんたの行為は許されることじゃない!」


 ハッとした俺は、佐竹氏に疑惑の目を向けた。


「まさか、あんたも一枚噛んでいた?」


 佐竹氏は表情に陰を作り目を逸らした。


「いや、ゼネラルは何も知らされていない。すべて俺の独断だ。だが、疑念くらいは感じていたのかもな。まさか記者会見で庇うまでは俺も予想できなかった」


「それで? 真実を暴露して、まだ俺を選手に戻すつもりか?」


 及川は肩をすくめると、煙草を咥えた。


「なあ、月見。本当に戻らなくていいのか? お前の居場所はそこなのか? もう俺たちにお前の最高のプレーは見せてくれないのか?」


「最高の試合なら今日見せたはずです」


 そう言ったのは夏希だった。


 試合後のスタンドに、フロント陣が勢揃いしていた。


「及川さん。あなたは優秀なスカウトでした。ですが、監督に対しての裏切り、そしてチームに対しての背任行為を黙認するわけにはいきません。今日限りであなたを解雇します」


 及川は苦笑を浮かべると、煙草に火をつけた。ギロリと鋭い眼光が夏希を一瞥する。


「なあ佐竹娘。君も月見くんを選手に戻す派だったはずだ。なぜ心変わりした?」


「月見さんが監督でいることを望んだからです。確かに私は今でも月見さんが選手に戻ることを望んでもいます。けれど人生を選ぶのは本人の意思です。荊棘いばらだとしても平坦だとしても、他人が押し付けていいものではありません。そして我々はチームとして月見さんをサポートすると誓いました。だから」


 つかつかと歩み寄った夏希は、及川の胸ぐらを掴むと、平手打ちをかました。


「これは月見さんの分」


 そしてもう一度手を振り上げる。


 乾いた音色が客席を抜けていく。


「これは紫苑ちゃんの分」


 俺や佐竹氏が唖然とする中、続いて由佳の分、チームの分と二発立て続け。四発の平手打ちを浴びせて、


「そしてこれは私の」


 拳を握って、夏希は重いボディーブローを浴びせた。腰の入ったボクサー顔負けのパンチである。及川は体を二つに折って、涙目だ。


「これで帳消しです」


 落ちた煙草を拾い夏希は携帯灰皿に押し込むと、


「さて及川さん。ウチはスカウトマンが空席なのですが、いい人はいませんか?」


 にこりと笑う。


 その場にいた俺たちは言葉を失っていた。

 皆、同じことを思っただろう。


 この人は優しい鬼である、と。

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