六合目(2)

寄せプレス甘い!」


「フォアチェック厳しく!」


 最前線に位置する香苗が歯を食いしばって、走り込む。


「サイド警戒!」


「七番チェック!」


「チェック了解!」


 流動的なポジショントータルフットボールを駆使して崩しに掛かる仙台に対し、イシュタルFCは十一人の〝目〟を使い、徹底的にスペースを潰す。すると出しどころがなくなり、仕方なく狭い受け手に出さざるを得ない。ミスが生じれば、手痛いしっぺ返しを食らう。カウンターは心臓に悪い。


 支配率の高いでも——例えばスペインのトップチームでさえ、九〇分の内、ボールを支配するパーセンテージは六割だ。つまり力差があったとしても、三〇分程度はこちらがボールを持てる。


 その三〇分をどう生かすか。


 人間が走るよりも蹴られたボールの方が圧倒的に早い。


 格下が強者に勝つための戦術としてもっとも採用されるのが、引いて守るカウンター。


 自分たちが格下だと宣言するわけでも、プライドを捨てたわけでもない。今いる選手たちで勝つための方法。


「当たりクリーンに!」


 厳しく寄せた三岳がカードをもらった。相手は素早いリスタートから、陣形の整っっていないサイドを攻め立てた。だが、いち早くクロスに反応したキーパーの栄皐月さかえさつきが飛び込んで、固く胸の中に抱え込む。


「彼女は」


 宮瀬コーチは愛弟子に熱い視線を向けていた。


「決して体格に恵まれているわけではありませんが、的確なコーチングと鋭い読みで、これまで数々のゴールを防いできました」


 俺は強く頷く。


 普段は寡黙かもくな選手だが、試合となると一番喋る。ゴールキーパーという性格上、コートを一番広く見ることができるからだ。試合開始前は、気合の入ったお団子ヘアをしているが、ゲームが終わるといつも髪は乱れている。それほど彼女が俊敏に動き回っている証左だった。


「しかし足元のうまさもあります」


 サッカーはゴールキーパーを除いた十人で語られがちだが、近代サッカーはキーパーも含めた十一人でボールを回す場面も多々見受けられる。最後の隔壁がミスすれば、致命的だ。よく珍プレーに挙げられるのが、このキーパーのミス。キーパーのミスは他に比べて重みが全然違う。


 その皐月から正確なパントキックが放たれ、香苗が頭で落とす。ワンタッチで相手を置き去りにした紫苑が中へ折り返し、心美のミドルシュートが惜しくもバーをかすめた。


「今……」


 口にした真賀田と宮瀬は唖然あぜんとしていた。


「ああ」


 俺は心から嬉しかった。


 


 以前までなら、。真穂の不在が功を奏したのか、あるいはウイングが本日はサイドハーフということも一因かもしれない。


 いや——俺はそこまで香苗を過小評価していない。彼女はようやく自分の〝弱さ〟と〝強さ〟を理解し、本当の意味でのチームの〝柱〟になろうとしているのだ。


 香苗一人では成り立たない。


 多くの支柱があるからこそ、大黒柱は機能する。


「惜しい!」


「ドンマイ、次!」


「ワンプレー大事に!」


 彼女たちはちゃんと理解していた。


 決して無駄にしていいボールなんてない。試合は九〇分だ。そこにたどり着くまで、一体どれだけの時間が費やされたのかを考えれば。


 無駄にしていいわけがない。


「あまりこの言葉は使いたくないですが……紫苑は本当に天才というか、安定していますね」


 復帰後、紫苑が絡んだところから得点に繋がる場面が多かった。


「足の速さは調子に左右されにくい」


「けど、一〇〇メートル走なら杏奈の方が早いはずです」


「一〇〇も走ったら、ゴールからゴールまで行ける」


 練習は嘘をつかない。


 サボらずウェイトをやってきた紫苑は、瞬発力の塊だ。一歩が他の選手と違う。二〇メートル走で追いつける選手はなかなかいない。そのスピードで、思い通りにボールを操る技術があってこそだが。


 今まではドリブラーの紬がボールを運んでいたが、紫苑の一発早い抜け出しが、俺たちになかったものをもたらしてくれた。それがカウンターへの下ごしらえ。


「付けてきましたね」


 相手は紫苑に対し、マンマークを付け、スピードに対応するため距離を取った。


「さあ、ツンデレお嬢様がキャンパスに空白を作ってくれたぞ」


 再び香苗から紫苑。ドリブルを仕掛け、追いかけてくる背後へヒールパス。ぽっかり空いたスペースへ、由佳がオーバラップ。


 クロス職人が描くわだちは、綺麗に逆サイドへ。


 いつもは切り込む紬がワンタッチで心美に蹴りやすいボールを返した。


「——つぶあん!」


 餡子あんこパワーが炸裂したかどうかはさておいて、強烈なミドルがネットを揺らす。


 ワッと歓声が上がった。


 最近調子の上がらなかったイシュタルFCに、まさか先制点を取られると思っていなかった仙台は、焦って単調な攻撃で攻めてきた。こうなると予想はしやすく、前半が終わるまで、決定的な場面を作らせなかった。しかし帰ってきた選手たちの疲労は色濃い。特に前線にまでプレスをかける香苗が一番きつそうだった。


「変わるか?」


「もう少しで見えそうです」


 根性で拒否しようものなら問答無用で交代しようと思ったが、香苗を変えたくない気持ちが大きくなった。


 頭であれこれ考えやすい香苗がただゲームに集中するには、雑多な情報を削いだ方がいい。


 逆境に強いのもある種、そういった性格がわざわいしていたのかもしれない。


 勝つという目標設定。自分はやれるというプラス思考。けれど、過大な自己肯定は頭と体のアンバランスを生む。何ができ何ができないか、その明確な線引きが、「できる」ことに対しての素早い判断を生む。


 


 サッカー選手をサッカー漬けにする魔法のようでいて、呪いのような、極致きょくち


 そりゃ、頭で考えていたら紫苑にパスは送れない。


「香苗、見てこい。君だけの世界を」


 ハーフタイムで俺たちスタッフが修正させることはそう多くなかった。いや、口を挟む余地がなかった。彼女たちは時間いっぱいまで修正箇所を自分たちで話し合った。


 後半開始後も、流れは続く。


 中盤でパスカットした彩香から、左サイドの由佳。そして香苗から紬。サイドの攻防は相手に軍配があがるも、タッチラインを割って、こちらの攻撃は継続。


 サポーターの応援も続いていて、まるで怪獣の咆哮ほうこうのような吹鳴すいめいに飲み込まれた相手にもたつきが見受けられた。


「紬がここ最近調子を落としていたのは、決して彼女が不調だったわけじゃないはずです」


 ピッと、笛が鳴り、フリーキックで再開。一旦、後ろから組み立て、隙を伺う。


「リーグ前半で見せたようなあのキレは見られませんが、それでもここまでやられるほどではないはずです」


 最も愛する選手が、今一度立ちはだかる壁の前でもがく姿に真賀田は悲痛な表情を見せていた。


 調子が上がっていないもの事実だが、ウチが〝爆発〟できなかったのもこの理由に集約する。


 


 そう認識された紬は復帰してからずっと厳しいマークにっていた。


 手繰り寄せ、翻弄する前に


 試合後、彼女の足は生傷が絶えなかった。


 球際の攻防ディエルは殺し合いだ。海外ではより顕著けんちょで、容赦がない。


 状況によっては命取りになる。日本人はこのせめぎ合いが苦手とされていて、ボールの主導権を奪うことこそ正義だとサッカー選手は意識に刷り込まれているが、俺はそう思いたくなかった。ハードコンタクトで一体どれだけの選手生命が奪われたのか。そう思うとやるせない。


 紬は果敢かかんにサイドを切り崩しにかかるが、またファウルすれすれのタックルで奪われてしまう。彼女はなんて微塵みじんも見せず、唇をんで立ち上がると、すぐに守備へと走った。


 綺麗事かもしれない。


 サッカーに命をかけている連中からすれば、噴飯ふんぱんものかもしれない。


 だが、そういう理想論は正しいからこそ、心をプラスに動かす。


 本日右サイドバックに入った三岳が一瞬の隙を突いてボールをカット。心美に預けて、オーバーラップする。そしてボールは再び紬に預けられた。


「フォローいるよ!」


「周り見て紬!」


 一人で成し得ないのなら、そばにいる誰かが手を差し伸べればいい。


 三岳を警戒し、相手ディフェンダーに一瞬の迷いが生まれた。選択肢が広がることで、対処しなければならない選手は情報量が増え、瞬時の判断に遅れが生じる。


「飛べ、紬」


 その一瞬、へし折れていた片翼が息を吹き返した。


 え、と相手選手の唖然とする姿を置き去りにして、中央へと切り込む。紬をサポートする香苗、心美、そして紫苑。相手ディフェンダーに対して数的有利が生まれていた。


「ヘイ、」「こっち、」「前空いてる、」


 それぞれがボールを要求する。


 だが紬の選択はミドルだった。ディフェンダーの間を抜けて、放たれたシュートはキーパー正面。スタンドから嘆息たんそくが漏れる。


「ナイスプレーっ!」


「切り替え!」


 紬は悔しそうに唇を噛むと、身をひるがえして守備に走る。


「今、いずれかに出していれば決定的な場面でした……今までの紬なら必ず味方を選んだはず」


 もう片翼にすごい選手がいて、今急激に変わろうとする選手がいて、過去のままでは置いていかれる——紬はそう思ったのだろう。彼女には誰にもないドリブルという武器がある。だがペナルティエリア近くで仕事をさせなければ、ミドルもクロスもなかった彼女は怖くない。ある程度距離をとって守れば、どうとでもなる。


 その悔しさが、歯がゆさが、紬をまた一歩進化させようとしていた。


 ミドルがある選手に距離は開けられない。すると、詰めてくる相手に対して彼女のドリブルは最も活きるのだ。



 ——復帰したゲームの直後、顔を真っ赤にして紬は俺に声をかけた。


「監督、私、今日何もできなかった」


 チームとしては快勝した試合だったが、ただ一人、紬は悔しさを漏らさまいと奥歯を噛んだままだった。


「ドリブルなら誰にも負けないと思ってた。止められないと思ってた。でも……」


 普段は飄々ひょうひょうとした性格の彼女が、悔し涙を流すのは初めて見たかもしれない。


「通用しなかった。止められた。何度も何度も何度も」拳を握って、溢れる涙を拭う。「全然足りない。天狗になってた」


 紬はチームで一番技術があって、エゴイズムの塊でもある。


「わかってるなら、やりようはあるさ。君はまだ上手くなる。自分の弱さを知っている選手はまだ強くなれる。それは成長の余地があるってことだ。君はまだ雛鳥ひなどり。飛び方を覚えたばかりの小さな鳥。だけれど、君の羽は誰よりも美しく、そしてどこまでも飛んでいける」


「ブラジルにも?」


 俺は頷いた。


 ヨーロッパにだって。地球の裏側とは言わず、一周してしまうかもしれない。


「一つずつ。君は無いものを探して身につけていくべき選手だ」


 強張っていた表情がたゆみ、紬は明るい表情を見せた。


「だから監督って好き」


「俺も好きだよ」


「どうせ選手としてでしょ」


「さあな」


「え——」


「好きにも色々あるさ。それこそ君の好きなように解釈すればいい。ひたむきなプレーをする君を嫌いにはなれないよ」


「やっぱり選手としてじゃない」


 紬は少し寂しそうな表情を落とした。


「……いなくなって欲しくない。もっと監督に教えてもらいたい。まだそばにいて欲しい。ずっとずっと、本音はずっとここにいて欲しい。だってあなたは私たちを捨てなかったから。でもそれはわがままで、監督を苦しめてるんじゃないかって思っちゃう」


 あるいは紬の言葉が俺に決断をさせたのかもしれなかった。


「俺は選手を辞めた。監督を続けることにした」


「え」


「だから後悔させるなよ」


「何それ、ずるい」


「親心ってやつかな。俺だって君たちをずっと見ていたくなった」


 すると紬はニコリとする。


「ありがと、私たちの監督で」


 こちらこそ——。




 データにはないミドルシュートを一本見せたことにより、紬に対するマークがより厳しくなった。しかし紬の間合いに入れば、優しく切り捨てられる。シュートコースへと切り込んだ紬に、相手選手は食らいつく。


 が。


「——ここでパス!?」


 ヒールでのノールック。


 真賀田の驚きは、ピッチ上のほぼ全員が感じたことだった。しかしサイドを駆け上がっていた三岳は信じていた。必ず来ると。彼女は小柄ではあるが、ガッツがあり、決して根を上げない選手だ。サイドの長い距離を往復してもひるむことなく、攻撃と守備に参加して、紬をサポートしていた。


 完全にフリーになった三岳がボールを受け取って、クロスが上がる。


 高い弾道は香苗に向けてのもの。


 競り合いながらヘディングで叩きつけるも、惜しくもポストを掠めた。


 スタンドから嘆息は漏れず、むしろより大きな声援として返ってきた。


『ゴー、ゴー、レッツゴー、イシュタル、オールゴー、』


 全員で戦うことの意味。


 それは、ファンも含めると大きな力だ。


 ホームゲームは誰もが主役だ。逆にアウェイはそのチーム独特の雰囲気に惑わされ、本領を発揮できないこともある。——ゲームは始まってみないとわからない。基本中の基本を俺は忘れていたようだ。


 紬が注目を浴びることで中央への警戒が薄れ、香苗が仕事をしやすくなった。今度は左サイドを使った鋭い突破。折り返しのボールは心美がシュートと見せかけたループパス。抜け出した紬が軽やかにボールを操り、キーパーの構える逆サイドへ


 スタンドが割れる。


 耳を塞いでも煩いばかりの嬉しい歓声が注がれた。


『一点取って勝つ』


 俺が示したプランを、彼女たちは越えてきた。


 攻撃は最大の防御というが、ボールが一つしかない球技はより顕著である。


 しかしお得意の攻撃サッカーで二点もやられ、黙っている仙台ではなかった。一〇番を中心としたパス回しで中盤をかき乱し、最終ラインに亀裂が入った。その一瞬の隙を逃さず、相手FWがここしかないというコースに狙い澄ましたシュート。キーパーの皐月が手を伸ばすも触れられず、差は一点差に詰まった。


 俺は時計を見た。


 残り、二〇分。


 頭の中をかき回し、一点を凌ぐか追い討ちをかけるかのプランを組み立てるが、迷いが生じる。どちらも不安が付きまとう。ただでさえリーグトップの攻撃力を誇る仙台に守りのプランはリスクが高い。かと言って、もう一点取りに行くにしてもそのタレントが——


「行けるよ、監督」


 少し上気した様子で、小さな選手が強い眼差しを向けいていた。アップは終わっているようだ。


 翻って真賀田と宮瀬は不安げな視線を送っていた。


「迷うくらいなら私を使って。もう皆んなで決めたから。監督を日本一の監督にするって。監督の選択が間違ってなかったって私たちが証明する。だから、そのためにできることをする」


 ありがとう。


「三岳と交代。彩香を右サイドに入れて心美を一列下げる」俺は表情を崩すと、「いつもみたいにトップ下だ」


 すると真穂は爛漫に笑った。


「ラジャ! 行ってきますであります!」


「ウチの分までマジックパワー見せたりや! あ、でもハンドパワーは使こたらあかんで!」


 ベンチ裏から杏奈がエールを送った。


「もう、手品じゃないよ」


 出撃準備に取り掛かる真穂は、少し背が伸びている気がした。

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