空中分解(5)

 夜。夏希を含めるコーチ陣が「スイッチの切り替え」とか言う飲み会に繰り出したあと、俺はトレーニングルームへと顔を出した。


「なあお前さあ」


 何よ、と紫苑は汗を流しながら一瞥をくれる。


「練習しなきゃ眠れない病気かなんかだろ。良い精神科医紹介してやろうか?」


 紫苑は俺を無視してバタフライ(大胸筋内側を鍛えるウェイト)を続けていた。先ほど真穂から居どころを聞いたが、だいたい彼女は夜になるとここに居る。怪我が完治してから紫苑はトレーニングルームに住んでいるのかと思えるほど入り浸っているのだ。俺が注意しに来なければ朝までやってる。


「やりすぎ。怪我しても知らんぞ」


 紫苑はドリンクを飲みに立ち上がった。汗でトレーニングウェアがボディラインにへばりつき、彼女のしなやかで強靭なスタイルが浮き彫りになっていた。


「自分の体は自分が一番よくわかってる」


 決して無謀なトレーニングでないところも、彼女のクレバーさだ。各部位の回数は一〇回を超えることはないが、メニューは多岐にわたる。それこそ、筋繊維を一本一本鍛えているかと思うほどに。隔日で上半身と下半身を分け、つまりは超回復の時間を効率的に使っているのだ。


 そして、練習の前後に行うストレッチに割く時間が彼女は尋常ではなかった。


 紫苑は足を広げながら体を伸ばすと、


「てゆか、そっちこそ体なまってるんじゃないの?」


 負けず嫌いが発動した俺はベンチプレスを始めた。ゆっくりと息を吐き、重りを持ち上げる。息を吸いながらゆっくりおろして紫苑を見る。


「余計なお世話。一応、隙間を見つけて体は動かしてる。幸いなことにこの施設は道具だけは揃ってるからな」


「試合勘は戻らないでしょ。実践しなきゃ。てか、本当にこんなところで監督続けるつもり?」


 ベンチプレスの一往復の間、俺は紫苑に目を向ける。


「君はこんなところって言うけれど、俺は結構気に入ってる」


「監督するにしても男子とか、女子でやるにしてもレベルの高いチームでやるべきなんじゃない? それともそこへの足がかりを考えているの?」


「さあ。今はなんとも」


「こないだのあれ、ほらマスコミが来てた時、ちらっと聞いたわ。欲しがってくれてるところがあるんでしょ? だったら戻るべきよ」


「心配してくれてんのか?」


「そんなわけないじゃない。勝手にすれば」


 プイッとそっぽを向けた紫苑は、


「監督なんて引退後いつでもできるじゃない。ただでさえ短い選手なのに、何年も棒に振るとか常識じゃ考えられないわ」


 少し考え込んだ俺はウェイトを辞め、身を起こす。


「君にだけ暴露ばくろすると、俺、イップスなんだよ」


 どうして打ち明けようと思ったのかはわからない。いや、紫苑が自分と似た選手だったからかもしれない。このままでは自分と同じように壊れてしまう予感があったからか、それとも単純に聞いて欲しかったのかもしれない。


 紫苑は目を皿にしていた。何かフォローの言葉を探っているのか、口を開けてはつぐんでを繰り返していた。


「ボールが怖くなった。触れなくなった。近づかれるのが怖くなった。選手だけじゃなくて、普通の人間にも。だから、しばらく引きこもってた。でもそれじゃあダメだって思って、何かを変えようと思って日本に帰って来た。でも何も変わらなかった。酒におぼれた。んで、今ここ」


「そんな風には全然……」


「ほんの半年前の俺は廃人同然だった。今では人には接せられるようにはなった。でも大勢がいるところじゃ、まだ震える」


 以前の俺は、怪我をして遅れた分を取り戻そうとして、余計に練習した。それで同じ箇所を二度。行き場をなくして、チームに見捨てられて、監督ボスにも切られて、それでも俺は居場所を求めた。


 だけどどこにも。

 俺の居場所はなかった。


 ふらふらと日本を彷徨さまよった。アルバイトを始めたり、就職活動してみたりしたが、俺にはサッカー以外何もなかった。怒鳴られ、無能扱いされ、切り捨てられ、余計に人間が嫌いに——怖くなった。


 そんな時、夏希に出会った。


「佐竹さんが手を差し伸べてくれた。あの人には恐怖を感じなかったんだ。このチームに来て、ボールにも触れるようになった。いわば、リハビリの途中なんだよ俺は」


「じゃあいつか戻るの?」


「それはなんとも。正直わからない。多分迷ってる。本当は戻りたいって思いもあるし、このチームで一緒にやりたいって思いもある。でもそれは、君たちのサッカーを見て、君たちがそう思わせてくれた。悩ましいことに」


 少し笑みを見せる。


 俺は勇気をもらった。彼女たちの奮闘ふんとうする姿に。勝利する姿に。可憐な笑顔の数々に。


 だからサッカーをやりたくなるし、ここで一緒にやりたいとの思いも湧いた。


「わかんねえよ、本当。自分がどうしたいかなんて。どうなっていけばいいかなんて。俺だって人間だ。いや普通の人より弱い人間だ。いつまでもウジウジして前に進もうとしない芋虫みたいな野郎だよ、俺は」


 ポロリと漏らした言葉にハッとする。


「てか悪い。愚痴ぐちった。今のは忘れてくれ」


 紫苑は横目に一瞥をくれると、何も言わず立ち去った。




 日が明けて、事務所には佐竹一成氏が登場した。


 事務所には、いつも朝早くから来ている真賀田さんと、俺、夏希が居た。宮瀬コーチはお寝坊さんで、ほとんどが練習前にやってくる。


 先日の親バカっぷりはなりを潜め、佐竹氏は経営者としての鋭い視線でぐるりと事務所を見渡す。彼は壁にかけられているスケジュール表を吟味ぎんみしたあと、中央にあるホワイトボードに寄り添って、ぽつりと呟いた。


「リーグ前半戦が終了して、イシュタルFCは五位に付けている。降格争いをしていた去年のことを思えば上々だ。悪くない。グッズの売り上げや、月見君効果もあって、観客動員数は増えている。よく立て直してくれたと褒めておこう」


 スタッフ陣は密かに視線をかち合わせた。


「だが近いうちに君は去ると聞いた。ではその時、我々は再び、靴の底を舐めなければならないのか?」


 一堂の視線が俺に浴びせられる。

 その時だった。


 ガチャリと事務所の扉が開いて、恰幅かっぷくのいい体の男が登場する。アロハシャツに、前頭葉のハゲたおっさんがサングラスの底からジロリと俺に焦点を合わせた。


「よお、月見」


 俺は「あ」と声を漏らした。


 声色に聞き覚えがあったのはもちろんだが、忘れもしない。


 及川隆おいかわたかし——、彼はいち早く〝月見健吾〟の才能を見出した人で、十五の時、俺を海外のチームに紹介してくれた人だった。及川の見目姿はあの頃と何も変わっておらず、小柄ではあるが狡猾な猿という印象のままだった。


「あまりにも月見から返事がないもんでな。こっちから出向かせてもらった」


 ボソリと夏希が耳打ちをする。どうやら及川は現在、イシュタルFCのスカウトマンでもあるそうな。


 及川は胸ポケットからソフトケースを取り出すと、煙草をくわえた。


「で、いつ発つんだ?」


 及川は俺の前に詰め寄る。


「悪いですが、今現役に戻る気はありません」


 ため息混じりに、及川の口から紫煙しえんが吐き出された。


「お前、何か勘違いしてねえか? 〝月見健吾〟の商品価値はまだ底値じゃない。だが時が経てば経つほど〝月見健吾〟は河原の石ころに戻るんだ。今ならまだ一条のきらめきが戻るかもしれねえ。自分で自分の光を閉ざしちゃ世話ねーぜ」


 俺は断固とした意志を持って跳ね返した。


「自分だけが輝くために、原石を潰すほど俺は大人にはなれません」


 及川は、練習場に視線を放った。


「自分で見つけておいて言うのもアレだが、あいつら寄せ集めても到底、月見健吾の足元にも及ばねえ。まだひよこだ。いや孵化ふかもしてねえ卵以下だ。お前の選手の時間を食い潰してまで面倒見る余裕なんざお前にはなかろうよ」


 俺は及川の胸ぐらを掴んだ。


「今の発言は撤回してください」


 余計に意固地になったというか、この瞬間俺の決断は確実に固まったのだった。


「俺は責任を放棄してきた子供だ。だから今度は大人になるために、最後まで責任を取る」


 俺は何度もチームを渡り歩いてきた。シーズン最後まで同じチームにいたことはない。立ち位置は違うものの、今度こそ、同じ頂にたどり着いた喜びを分かち合いたいと言う思いがふつふつと芽生えていた。


「大人はな月見、大人になったやつから後悔していくもんだ」


 そう言い置いて、及川は事務所を去った。

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