空中分解(2)

 天気は曇り。


 ひと雨来そうな微妙な空模様だ。今年の梅雨は長引いているらしい。


 六月最終週の第十七節。リーグ前半戦を締めくくるラストの一戦。勝ってリーグ後半へはずみをつけたいところだが、アウェイに乗り込んだ一戦はため息の多い試合で幕をあける。


 敵地の相手のサポーターに囲まれながらも、熱心に宮崎まで足を運んでくれたサポーターはことごとくゴールが外れることに、やがて不満をつのらせていた。


 相手はグリーンのユニフォームに白いパンツ。最近ではあまり見かけなくなったフラットスリーを採用した3-5-2。中盤のショートパスサッカーを売りとした戦術。ボール支配ポゼッションで優位に立ち、こちらは得意パターンに持ち込めなかった。


 俺はちらりと相手ベンチを見る。


 背中を丸くした婆さんが細い目をコートに向けていた。村路菊むらろきく、七八歳。宮崎ファルコンFCを長年率いてきた知将だ。一部リーグでの指揮経験もあり、あるいは降格も経験した上もどん底も知る経験豊富な人物である。


 今年で引退が噂されており、手向けに優勝をと相手のモチベーションは相当高かった。


 宮崎は現在、トップであるTGAとゲーム差三のリーグ二位。俺たちイシュタルFCとは勝ち点差4。間違いなく優勝候補の一角だ。


 これを倒さなければ昇格は目指せない。


 村路のサッカーは、まるで詰将棋をするような緻密なものだった。こちらが流動的なポジションワークで崩そうとすれば、きっちりゾーンディフェンスで対応し、ポストプレーからの二列目飛び出しにはアグレッシブな読みでインターセプトを狙う。そして攻撃手段は遅攻ちこう一辺倒のボール回しからこちらの隙、ミスをうかがう。

 とはいえこちらは飛車角二枚落ちでやらされている気分だ。


 前節で怪我を再発してしまった鹿野しかの紬はベンチ外。

 そして白井真穂は絶不調。


 二人の突破力を失ったイシュタルFCは相手の守備を崩せず、0 - 0スコアレスドローで前半を引き上げることとなった。


 あの夢が正夢になったわけではないが、リーグ最終節でも当たる宮崎ファルコンFCに対して、苦しい試合運びだった。

 ロッカールームに戻ってきた選手たちはどこか熱を失っていた。


 無理もない。


 新チームになってから俺たちは結城学を倒すことだけに心血を注いでいたのだから。それが快勝に終わり、燃え尽きた感が漂っていた。いや一人、エースストライカーは闘志を燃やしていたが、吉村よしむら香苗はゴールネットを揺らすには至っていない。


「諸君——」


 俺はホワイトボードを裏返した。ポジションを示したマグネットや、戦術指示が消えて、デカデカと掲げられた『リーグ制覇!!』の文字が現れる。


「俺たちが目指す場所はどこだ?」


 選手たちは恐る恐る顔を上げた。


「以前、言ったな?」


 俺は真賀田コーチ、宮瀬コーチを順に見た。


 二人とも、深く頷き返す。


「本気で目指してるのは俺だけか? 君らは一つの壁を超えてもう満足か? 言っておくが、前回の東京・ギャラクシー・エンジェルスTGA戦は、天が俺たちに味方してくれただけに過ぎない」


 普通に戦ってたら厳しい戦いになったろう。


 あるいは勝てなかったかもしれない。


「俺たちはまだ弱小。奇跡的にリーグ三位につけているが、いつ転落してもおかしくない。目の前の試合を一つずつ。それのみが、頂点に立つ唯一の方法だ」


 俺はまだそのいただきを知らない。


 ——そこには一体どんな景色が待っているのだろう。


「ブサイクでも、あの結城学に勝てるところまで連れてきた。だから今度は君たちで俺を連れて行ってくれ」


 一緒に。

 優勝へ。


「「「はいっ!」」」


 頼もしい返事を選手たちは返した。


 意識が共有された中、しかしただ一人、椅子に腰掛けたままあくびを漏らす少女がいた。


 ここ数節、ベンチ入りしていたものの、まだ状態が良くないと見る俺は彼女を使うつもりはなかったが、宇都宮紫苑うつのみやしおんはイヤホンを耳に入れ、常に戦闘態勢を作っていた。


 白銀の髪をし、雪像せつぞうのような色白の肌。見る者を凍てつかせるような青い瞳。体つきに無駄はなく、細胞の奥底から放たれる闘志は、冷静でありながらも気炎きえんに満ちていた。


「……ほんと、バカばっかり」


 紫苑はそう呟き、冷笑を浮かべていた。




 後半始まってすぐ、コーナーキックを奪う。


 ゴール前の混戦を押し込み、先制点。ホッとしたのもつかの間、相手はすぐに取り返す姿勢を見せた。


 ファルコンFCは選手を交代。フォワードFWを変えてきた。


「動いてきましたね」


 真賀田コーチの険しい視線が交代する選手に注がれている。


 褐色かっしょくの肌に、情の厚そうな分厚い唇。真白い歯を向けて、交代する選手とハイタッチを交わした。一つにまとめたちぢれ毛を揺らして、まるでバネのような瞬発力で弾け出し、ポジションにつく。


 女子リーグで彼女を知らぬ関係者はいない。


 得点ランキングトップを独走する宮崎のエースストライカー。


 日系三世だそうだ。去年までブラジルでプレイしていたが、今期、宮崎に完全移籍した。


 イザベラ・グレイシー・松本まつもと、二十二歳。


 本場ブラジルでつちかわれた繊細なテクニックと南米特有のバネを持つ。サッカーの国からやってきた金星ヴィーナスだ。彼女の体つき、軽やかな走り出しを見ても、このピッチの中で最も身体能力の優れた選手であることは一眼でわかった。ここまで途中出場の起用が多かったが、得点力はダントツ。イザベラの右足からり出されるシュートは男子顔負けのパワーだ。


 本日途中出場なのは、体調不良とのことだったが、全快とみていいだろう。


 試合が再開し、イザベラがボールを持つとスタンドから歓声が湧く。


 言うなれば彼女は、一人で飛車も角もやる選手といえよう。まるでサンバを踊り、ハードマーカーである木崎めいを置き去りにした。強靭きょうじんなバネに支えられるステップは一瞬でトップスピードに乗り、カバーに入った木崎もえを切り捨てる。


 そして大砲が炸裂さくれつ


 あっという間に同点弾。試合は振り出し。いや——こちらが苦労して手に入れたゴールを意図も簡単にもぎ取られた。スタンドの割れるような大歓声に、イザベラはバク転のパフォーマンス。その余裕っぷりに、ウチのイレブンはメラメラと闘志を燃やす。


 向こうのベンチから村路監督が顔をくしゃくしゃにして満面の笑みとピースサイン。


 たぬき女め。


「監督」真賀田が指示をあおぐ。「マークをつけますか?」


「そうだな。あの選手はゾーンじゃ対応できない。彩香を当てようか」


 しかしそれは危険な賭けでもあった。


 イザベラがピッチに入ってから、相手は俄然がぜん活気づいていた。周りが連動して、フリースペースに走り込む。すると、こちらが釣られて陣形が乱される。緩んだ鍵穴を無理矢理こじ開けるかのような破壊的なドリブルで、イザベラは最終ラインを抜ける。


 相手のシステムは3-5-2。つまりFWはもう一人いる。イザベラが抜かれた場合の対応を考えながら、もう一人のFWを警戒しなければならない。これは萌にとってかなりの負担だ。守備的なサイドバックを入れるという選択肢もちらりと脳裏をかすめるが、そうすると右サイドの攻撃力が半減しているのに、水鳥みずとり杏奈を下げれば数少ない優位性アドバンテージがなくなってしまう。


 対応策を脳内議論している中、イザベラがマークを振り切って抜け出した。萌が辛うじて体を寄せるも、跳ね返される。そして技ありのループシュートで逆転ゴールを決められた。


 二枚つけるしかない——。


 芽と守備的ミッドフィルダーの桐生きりゅう彩香の二人でイザベラをマークすることにした。杏奈を交代し、失われる攻撃力の補強にウイングの入れ替えを指示。


 すると、


「いやよ」


 サイドバックの子は素直に了解したのだったが、ウイングに入れようとした紫苑はそう返した。音楽プレイヤーで耳を塞いでいたが、一応こちらの声は届いていたらしい。


「あなたねえ」真賀田が鋭い眼差しを向ける。「監督の指示に逆らう気ですか?」


「そのロジックが破綻しているってわからないの? ほんと、馬鹿ばっか」


「そもそも監督も監督です」真賀田のとがが、俺に向けられた。「紫苑は復帰直後で全体練習に参加していません。満足にチームとフィットするわけがありませんよ!」


 俺は真賀田をたしなめ、「理由は?」と問いかける。


 身も蓋もない事だが、親から授かった遺伝子ギフトには努力だけではどうにもならない時がある。紫苑はクォーターだ。日本人離れした髪色と目を持ち、外見的特徴だけではなく、そのスピードとバネはイザベラにも見劣りしない。


 ベンチに腰掛けたままの紫苑はさっと白銀の髪をで、ふんっと鼻を鳴らした。


 彼女は昨シーズンの途中で大怪我をした。空中での競り合いの中、相手からのタックルを受け、肩から落ちた。肩の脱臼と鎖骨骨折。手術を受けるほどの長期離脱だ。それまでチームとは離れて別メニューをこなしていたが、六月に入ってからチーム練習に合流した。


 俺の見た感じでは、全盛期の動きから六割か七割程度は戻っている。怪我も完治しているとドクターから聞いていた。それでも十分戦力にはなるとの判断だ。


「怖いなら正直にそう言え」


 すると紫苑は青い瞳をギロリと俺に向けた。


「誰が怖いですって? 誰かさんと一緒にしないでくれるかしら? 私は本職ではないウイングで起用されるのが嫌だと言ったの。だいたい、勝つってシンプルに点取ることじゃない。守りに入ったやつに勝利は微笑まないわ」


「センターフォワードならいいのか?」


「ワントップ」紫苑は毅然きぜんと返した。「今日、全然仕事していない真ん中のノッポと変えてくれるなら考えてもいいわ」


「紫苑っ!」


 真賀田が噴火する。


「チームの方針に口出しするとか何様なの!?」


 すると、紫苑は真賀田の目と鼻の先に立ち、見据えた。


 一回りも年上の真賀田に全く動じない肝っ玉。


「言っておくけれど真賀田さん。香苗程度で通用するのは二部まで。そうでしょ? だってウチが一度三部に落ちてから二部に昇格するための点をほとんど私が稼いだのだから。私の怪我で後釜についた彼女だけれど、今期、彼女は私の半分も点を取れていないわ」


「三部の話でしょ。今二部で、香苗は十ゴールを挙げています」


 十七節の内、十ゴール。平均すると、〇・五八点。つまり、二試合に一点は取ってくれる。悪くない数字だが、物足りなくもある。


 紫苑は大きくため息をついた。つり目を細めて睨みつける。


「全然足りないじゃない。ランキングにギリギリ乗る程度。はっきり言って、点取り屋ストライカーを背負うには足りない数字よ」


 とは言え、紫苑の言っていることは事実でもある。彼女は、香苗たちがトップチームに上がる前からプロとして活躍し、去年、結城学が率いる一流選手たちの中で最年少ながらスタメンを張っていた選手だ。


 はっきり言って天才。


 それ以外に彼女を形容する言葉はなかった。


「それで月見」紫苑は俺に目を向ける。「どうするの? 監督の方針には一応従うけれど、私にも譲れないものはある。てゆか、熱血タイプって嫌いなのよ。香苗と一緒のコートには出ない。それが私からの条件」


「じゃあ俺からも条件だ。点取ってこい。そうじゃなければ、俺の命令には今後従う」


「ちょっと監督!」真賀田が悲鳴をあげた。


「決まりね。五分ちょうだい」


 紫苑はイヤホンを外すと、すでに戦闘態勢だった。ウォーミングアップを始める中、先に杏奈とサイドバックの選手を交代し、イザベラ封じに取り掛かる。

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