5章
空中分解(1)
結城学
外は明るくなり始めていたが、まだ雨は続いていた。それから電話が鳴っていた。
しつこい。
夜中に叩き起こされてからなかなか寝付けず、
どうすべきか、答えはもう出ていたはずなのに、決断のところで迷っていた。
電話はまだ鳴り続けている。
無視しようと居留守を決め込んでいたが、コールが止む気配はなかった。どこで個人情報を手に入れたのか、携帯電話の次は固定電話機に掛けてきたらしい。
仕方なく俺は身を起こし、電話機に近づいた。留守電に切り替えてやり過ごそうかと思ったのだが、画面に表示された『佐竹
当然、俺の記憶にはない人物である。とすると、佐竹さんが登録した番号であり、嫌な予感がふつふつと湧き上がってくる。
ちらりとベッドの様子を伺うも、彼女が目覚める様子はなかった。オフの日の佐竹さんはまるでスイッチの切れたロボットのように眠りから覚めない。いや、毒リンゴを食べてしまった白雪姫と形容した方がいいかもしれない。
そんなことを思いながら受話器を上げると、野太い男の声が響いた。
「探したぞ、
寝起きの、まだ
「……もしもーし。聞こえてるか? おーい、夏希ぃ?」
閃いた俺は鼻を
「タダイマ、デカケテオリマス。ご用件の方はピーという発信音の後で——」
「そこにいるのは誰だ!?」
「お名前とご用件を……」
「そこに直っておれ! 三〇分、いやハーフタイムの間にそこに行く!」
「ピー……………………」
俺の心音もピー。
おそらく相手は佐竹さんの。
父。
電話のあと、十五分とは言わず、十分で佐竹一成氏はやってきた。
五十代手前に差し掛かろうという男は細身で、オールバックにまとめた髪は白髪混じり。四角い眼鏡をかけスーツ姿。
言わずもがな佐竹夏希の父であり、そして東京イシュタルFCの
俺は正座させられていた。
そして、食い殺されんばかりの視線を浴びている。
「それで、月見くん。これは一体どういうことなのかね? 年頃の男女が同じ屋根の下……覚悟はできているんだろうな?」
佐竹氏は
涼しい顔で夏希は俺たちにお茶を出す。俺はからからの喉を潤おそうと手を伸ばすが、震えてひっくり返してしまった。何も言わずテーブルを拭くと夏希は俺の隣に座り、不意に腕を取った。
「黙っててごめんなさい。でもお父様、私たちは真剣なんです」
俺は言葉を失った。
驚いて夏希の顔を見る。彼女は鬼気迫る表情で父に訴えかけていた。
「確かに、嫁入り前の女性が男性と同棲するのはふしだらかもしれません。ですが私は——いえ私たちは
嘘ではないが。
腕を組むのは誤解を
とはいえ、実の父に敬語なのはよっぽど厳しい家庭なのだろう。
「私は月見さんに無理を言って監督を要請しました。月見さんはまだ将来の選択肢がたくさんある身。ですから、月見さんが何不自由なく生活できるようにと、私が自分の意思で彼の日常を支えています」
うっとりと表情を崩して、
「私はもう(月見監督のサッカーに)メロメロメロン。彼が集中できるよう(マネージャーとして)手取り足取り日々を支えているのです。健吾(監督)なしで、私は(イシュタルFCは)もうやっていけない体と心になってしまっているんです」
「オーノォ!?」ぶわっ、と佐竹氏は涙した。「夏希ぃ!? マジなのか!? それはマジなのか!?」
この女、やっぱり女狐だ。
「月見くん……」力なく佐竹氏は呟いた。「いや健吾くん、娘を幸せにしてやってくれ。他には何も要求しない……」
いや、要求しろよ。
俺、ただの監督なんですけど。
立ち上がった佐竹氏は魂の抜かれた抜け殻みたいにフラフラと玄関へと歩いて行った。
パタンと扉が閉まる。
「さてこれで、父は監督を切り難くなりました」
ウインクと可愛い笑顔を向ける夏希。
鎖のように強固に、退路を塞がれている気がする。
「これで憂いの一つが消えましたね。では、リーグ前半最後の試合、パパッとやっつけちゃいましょう。ね、
もっとも、結果を残している俺を丁重に扱ってくれているってことなんだろうけれど。
「もう離さないぞ。浮気は許さないんだから」
もちろん、他へ移籍するなという意味だろう。
しかし俺はスカウトマンからの電話をふと思い出したのだった。
月曜日、練習場に着くと、クラブハウス前に人だかりができていた。輪の中で、男が俺に気づくと一目散に駆けてきて、他の人だかりも魚の群れのように集まってきた。
「月見監督、現役選手に戻るというのは本当ですか!?」
ハンディカメラや、ボイスレコーダーを一斉に向けられる。
「復帰先はリーガ・エスパニョーラだと話が上がっているんですが!?」
……早いな。
さすがはマスコミといったところ。いや、先方かあのスカウトマンが流した可能性もあった。
「練習があるんで」
そう言って立ち去ろうとしたが、
「怪我で引退を余儀なくされた選手に失礼じゃありませんか?」
その一言に、ピクリと足を止める。
「あなたはまだ戦えるのに、現場から逃げ出して、しかも一時は死にかけた弱小のこのチームで監督を引き受けるなんて、何かプライベートの特別な繋がりや、裏の金銭的な交渉があったんじゃないですか? それか、若い女性チームに目が
俺のことを好きに言うのは構わない。就任直後から、週刊誌を中心に
それでも真剣に戦ってる彼女たちを、色眼鏡で見られるのは腹に
「最近スポーツ界のパワハラ問題が
しかし、足が震えていた。
——ああそうか。俺はまだ。
吐き気がした。心臓が
視界がぐらつき、世界が
パニック障害。
俺が現役を退いた理由の一つ。
日本に逃げた理由だ。
強く言い返さなければと思っても、言葉が出て来ない。怒りで頭に血が上っているはずなのに、血の気が失せていた。手が震えていた。
そんな中、夏希が間に割って入った。
「監督と選手のコミニケーションは良好です。それはチームマネージャーの私が保証します。月見監督は非常に良くやっています。技術的な指導だけでなく、選手が抱えているメンタル的な問題も解決し、選手たちがサッカーだけに集中できる環境を作っています。
その真剣な眼差しと、淀みのない語り口調は有無を言わせなかった。
しかしふと夏希の表情は
「ただ……月見監督が才能のある若手である事実も変わりません。我々は彼の将来を第一に考えたいと思います。その時まではフロント一同精一杯サポートできればなと思っております」
余計なことを。
とはいえ、
すると、マスコミの興味は元のところへ戻った。
「じゃあ結局、月見さんは監督を辞めて選手に戻ると?」
しどろもどろな返事をして、俺と夏希は小一時間ばかり質問責めを食らう
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