4章

コートに咲く十一輪の花

 空は分厚く垂れ込み、鉛色をしていた。今にも降りそうな天気。時々稲光が明滅し、遅れて雷鳴が轟くもスタジアムの喧騒に飲み込まれていた。


 噴火を迎えたスタジアムの興奮とは打って変わり、立ち上がりは淡々と展開した。TGAのキックオフから始まったボール回しは確実に、そして僅かな隙を睨む狩人のような緊張感があった。


 微かに受け手へのプレスが遅れると、獲物を見つけたライオンのように襲いかかった。


 縦、横――そして裏。


 たった三つのパスで最終ラインを抜かれる。が、副 審ラインズマンフラッグが上がっていた。


 命拾いオフサイド


 木崎姉妹はハイタッチをかわし、俺たちベンチは緊張に濁った空気を深く吐き出す。


 そしてイシュタルFCのボールでゲームは再開する。


 こちらも様子見。いや、相手の冷静なコーチングがスペースを潰し、出し場所がなく、仕方なく最終ラインで安全策を取るしかなかった。


 この、まったく隙間のないゾーンディフェンスこそが結城サッカーの真骨頂だ。


 イシュタルFCは人を動かして、スペースを作ろうにも、FWへのマンマークでフリーができない。苦し紛れに紬がボールを持った時、後ろから構わず足を削りに来た。


「なっ――」


 当然笛が鳴って、イエローカードが出る。


「今のはレッドでも甘いだろ審判!」


 主審は俺を見て首を振った。確かにボールには行っていた。外から見れば故意であるかは微妙なところだ。


 すぐに試合は再開されず、倒れ込んだままの紬の元へ、俺と宮瀬は駆け込んだ。


「足首か?」


 紬は小さく首を縦に振る。俺は殺意を込め、結城を睨みつけた。彼は涼しい顔で、自チームへ指示を出していた。


 宮瀬がソックスの上から触診し、紬は眉を寄せるが歯を食いしばってこらえていた。


「再発した可能性があります。ここは大事をとって――」


「行けます!」


 唇を結び、紬は訴えた。


「テーピングしてください。ガチガチに固めて」


「でも――」


「早く!」


 そうしていると審判がやって来て、状態を問いかけた。


 宮瀬は口を閉ざし、俺を一瞥する。


「治療したら入れます」


 そう告げ、俺たちは一旦紬をピッチの外へ運んだ。


「最善は尽くします。ですが、限界の前に必ず自主報告を。私が無理だと判断しても止めます」


 紬は頷き返したが、その気はないだろう。


「監督はベンチへ」


 そう言われ、俺は身を翻すのだが、ふと手を掴まれた。


「……お願い。少しだけわがまま」


 テーピングが施される間、俺は腰を落とし、紬は手を握った。


「本当はわかってた。削りに来るだろうなって。でも頭に血が上ってて、一瞬判断が遅れた。でももうやられない。こうしてると、落ち着けた。大丈夫。もう大丈夫だから」


 そう言ったものの、彼女の手は震えを隠すように強く握りしめられていた。選手生命を立たれた兄を持つ彼女は最悪の結末を予感したかもしれない。


 俺は両手で彼女の手を握り、


「今日は勝とう。なんとしてでも。それには君の力が必要だ。俺は君のプレーが好きだ。君のドリブルを見たい」


 紬は頷き返した。


「一回でいい。後半。たったの一回でいい。必ず、チャンスが来る」


 俺は空を見上げた。


 ポツリ、ポツリと頬を濡らす。


「こういう時、テクニックのある選手が一番輝く」


「うん、私も雨は好き。きっと、真穂も心美も雨が好きだと思う」


「俺も雨は好きだったな」


 多分そこに活路がある。


 そんな中、スタンドが割れた。


 うちの選手たちは険しい表情を見せ、TGAのFWが拳を突き上げてサポーターの前で喝采を浴びていた。


 流石に十人で凌ぐのは難しい。


「監督はもう戻って。私は大丈夫だから」


 そしてベンチに戻ると真賀田が不安そうに視線をくれた。


「多分」


 言いかけて俺は言葉を飲んだ。


「いや大丈夫だ」


 そう信じることにした。


 キックオフの再開と同時に紬がピッチに戻る。


 最初のスライディングを見てから、選手たちは巡航速度とパス速度をあげ、ダイレクトか遅くともワンタッチでボールをさばく。接触プレイにはならないようにパススピードをあげた。


 テンポの速いサッカーを展開するも、相手は遅れず対応して崩せない。


 そして真穂がボールを持った時また削りに来た。スライディングではなく、審判の見えずらい場所で足を踏んでいた。


 ピピピッと笛が鋭く鳴らされる。


 今度はカードはなく、注意だけだった。


 はらわたが今にも突沸しそうだった。


 香苗が相手選手に詰め掛かり、何か大声をあげた。慌てて他の選手たちが香苗を抑えて宥める。


 すると、香苗に対してイエローが出た。侮辱したのだろう。


「……あの馬鹿。やり返すならもっとわからないようにすればいいのに」


「相手の思う壺と言ったところですか」


 そう。結城にとってこの試合は三十四節あるうちの一つ。ここで負けたくらいで順位は落とさないし、次節に響いても十分な貯金がある。そして選手層も厚い。しかし俺たちは二位と一ゲーム差あった。この試合に対する重みが違うのだ。


 何より、結城のチームは一点差を逃げ切る術がある。TGAはリーグで、1-0で勝つことに美学を置いたイタリアサッカー的な勝ち方を好んでいた。一点を取るのは至難の技。


 フリーキックはきっちり弾き返され、こちらのボール回しが続けられるが、簡単にFWへいれさせてはくれない。一・五列目で真穂が懸命に動いて受け手になるが、その度に激しいプレスを受け、仕事をさせてもらえなかった。


 そしてボールを零せば、肉食動物のゴール狩りが始まる。


 縦一本の長いパスが通り、身体能力に優れたFWと萌が迫り合う。振り払われ、萌の荷重はスライディングの体勢へ――。


「萌!」


 かろうじて思い留まった萌だが、キーパーとの一対一を決められた。


 TGAサポーターからは大歓声が上がり、イシュタルFCの応援席は沈黙に包まれる。


 美学を崩してまで、汚い手段をとってまで、結城は勝ちに来ていた。執念というべきか、一部に返り咲くチームの本気というべきか。


 それから試合は停滞――いや難航した。


 心美が攻撃を組み立てるも、ことごとく行き先を読まれ、こぼれたセカンドボールの奪い合い。激しいタックルは、骨と骨が打つかる音が聞こえて来そうだった。


 特に真穂に対するプレスと当たりは、早く厳しく、ボールに触らせてもらえなかった。


 真穂を最も警戒していた。


 こうなると真穂を囮に使うか?


 俺の考えを先取りした心美は紬にボールを送る。しかし足の影響があったのか、前を向かせてもらえず、タッチラインを割る。


 スローイングからボールを受けた紬は相手を背負いキープを始めた。味方がサポートに入ってほんの僅かにフリーの彩香から、由佳へのラインが出来上がっていたが、紬はドリブルを続けた。


「……意固地になってますね。あの子の悪い傾向が出てしまってます」


 いや、プライドなんだろう。


 蛇行しながら紬はなおもボールを持ち、ほとんど味方を無視していた。ボールを取られかけた一瞬、杏奈はぎょっとして守備に戻ろうとする。が、紬は柔らかい体で足を伸ばし、ボールを拾い直すと翩翻へんぽんする。相手を置き去りにした時、ディフェンスの注意が彼女へ集中した。


 その一瞬を待っていたかのように逆サイドへボールは蹴り出された。


 ディフェンスラインの裏でボールを受けた由佳は蹴りやすい位置にボールを収め、綺麗なクロスをあげた。


 相手がジャンピングしながら蹴り返そうとするところへ、香苗は恐れず頭から突っ込んだ。


 ボールはわずかにゴールを逸れた。


 どよめきが漏れる。


 ゴールキックからのセカンドボールを心美が広い、また紬がボールを受けた。


 ぼろぼろの翼で懸命に羽ばたく姿は、心を深く抉られる。


「あの子……これ以上やると危険です!」真賀田は鋭く言った。「代えましょう。紬のためにも、未来のためにも!」


 真賀田は無言の俺を動かせないと思ったのか、宮瀬を頼る。


「コーチからも言ってやってください!」


 しかし勝つなら、点を取るなら現状、紬しかなかった。彼女が長くボールを持つおかげで、周囲が自由に動けていた。一発抜ければ、守備は崩れる。しかし何度も羽を折られかけ、あわやボール奪取という場面に紬は食らいつく。


 たったの一回でいいと言ったのに、何度も一番得意なプレイを見せる彼女を代えられはしなかった。君のプレイが好きだと言った手前、代えられはしない。


 言葉がなくとも、十分そのプレイから意思は伝わった。


 手足がもげようとも彼女はそこに立ち続ける。


 俺の期待を背負った彼女が辞めるわけがない。


「そんな程度じゃないだろ君は」


 蝶は息を吹き返した。


 スライディングをかわし、柔らかい切り返しターンから、優雅に舞う。追いかけてくるサイドバックと迫い合い、長く長くサイドを抉り、そして深く。さらに深いゴールラインへと潜り込み、堅牢な守備を釘付け。美しい鱗粉を撒き散らすように軌跡を残した。そして、送り出されたパスの先に、真穂が飛び込んでセキュリティの隙間を突く。


 錠前は落ちた。


 半分の歓声が爆発する。


 得点をあげた真穂よりも『ツ・ム・ギ』コール。


 突き上げられた拳はファンに向けられ、そして彼女はすっかり習慣となったウインクを送る。


 隣で真賀田は泣いていた。冷然とする彼女が感極まるのはよっぽどのことだった。


 宮瀬もお手上げだという風に唖然としていた。


「こんなことがあるんですね……あの様子では走るのも辛いはず。なのに彼女は一二〇の力を出した。そう、まるで奇跡のようです」


 そして前半は終了する。




 ロッカールームに戻って俺は、饒舌に指示を飛ばしていた。


「愛すべきドリブラーがさらなる反撃への布石を作ってくれた。後半、紬をポストに据え、真穂と杏奈が必ずサポート。杏奈はカウンター食らっても構わない。ガンガン、裏を取れ」


「こだま……ひかり……そしてのぞみ。うちはチームの新幹線なんやで!」


「紬はボールを持つ素ぶりでいい。散らせ。それから心美、紬へのパスはきっちり右足。決して軸を動かすな。できるな?」


「当然だわ」


「紬に入らない時は香苗のポスト。できそうなら高い位置で溜めを作れ。そして終盤、きつくなってきたらダイレクトで展開。最速で回せ」


「「はい!」」


「私からも一言」真賀田。「相手がボールを持った時は前線がフォアチェックするのはそのままで、最終ラインは撤退リトリート。わざと中盤にボールを入れさせる。ミスは少なくフィジカルとスピードはありますが、向こうに個人技の突破力はありません。読みだけで十分に対処できます。DMF陣は積極的にパスカットを狙いなさい。なぜならば後半、スピードは死にます」


 ディフェンス陣は揃えて頷いた。


「さあ行こう。勝利への轍を結ぼう」


 コートに戻るとスタジアムの歓声以上に、地面を叩く雨の音が響いていた。真っ暗になり、ライトの光が無数注がれている。空からは尾を引いて、光に乱反射した雨が宝石のように降り注いでいた。


 ハーフタイムの十五分で、天候は一変していた。例えばこれが小説なら、不運を呼び込む比喩として使われるだろう。しかしこの雨は俺たちにとって恵みの雨に近かった。


 まずボールは滑る。よく伸びる。足元はクッションのように柔らかくなる。するとボールを転がせない。相手は蹴ってくる。そしてたっぷりと水を含んだ地面に、ボールは止まる。


 テクニックで勝るこちらには有利な条件だ。


 ちらりと相手ベンチを見ると、結城は険しい表情をしていた。


 俺はほくそ笑む。


 サッカーの神様は、微かに微笑んでくれた。


 あとは自分たちで勝利を呼び込めるか。


 そしてスタンドは前半の興奮を残したままの後半が再開される。


 囮でいいと言ったのに、積極果敢に紬は仕掛けた。蝶に群がる――花に群がる蜂。


 紬はディフェンダーがかき回す。敵を引きつけて、真穂に預けた。


 真帆はディフェンダーの脇を通して、スルーパス。チーム一のスプリンター杏奈が抜け出すも、初撃は惜しくもキーパーのファインセーブに阻まれた。


 続くコーナー、阿吽の呼吸で由佳のボールを香苗が叩きつけるも、またキーパーの気迫にゴールにはならず。


 セカンドボールを彩香が広い、真穂がかかとで軌道を変える。


 ディフェンスの裏へと送り込まれ、香苗が懸命に足を伸ばす。だがキーパー正面。


 追加点が遠い。


 惜しい場面が続いたあとは、息の根を止めかねないカウンター。


 これを木崎姉妹が冷静に処理し、心美が組み立てる。


 紬から真穂。


 しかし徐々に水気を含んだ芝生に、ボールは止まる。


 真穂と相手ディフェンスが並んでボールに突っ込む。


 真穂は足裏でボールをたぐり寄せると、くるりとターン。その瞬間、俺はぞくりと全身が粟立つのを感じた。ゴールへの最短ルートが見えた――。まるで自分がプレーしているかのように俺の頭の中は閃いていた。


 それは俺だけの世界。


 しかし、その夢のような世界は唯一無二ではなくなった。


 ベンチから無意識に立ち上がる俺は言葉を失っていた。


 スライディングしてくる相手を浮かしてかわし、岩のように大柄な選手の頭上をボールは超えた。


 立体的な。


 三次元の。


 ボール運びで最後にはキーパーの上を通し、同点弾。


 ゴールコールと歓声。


 そして試合は再開されるが魔法はまだ続く。得意のダイレクトパスはノールック。杏奈の待つ左サイドへと放り込まれた。


 シュートを放つも、キーパーが手を触れ勢いは殺される。ゴール手前で静止するが、これにいち早く反応していた香苗が押し込み追加点。


「うがぁぁぁぁ————————っ!!」


 俺たちも、「うがぁぁぁぁ————————っ!!」


「あれが……真穂の……サッカー」


 真賀田は寒気を覚えるように身を抱きしめた。


 真穂が相手を抜き去ってゴールを決めれば、紬も負けじと相手を抜いてゴールまで駆け抜けた。


 スタジアムが静まり返っていた。


 なぜならばもう。


 文字通りの泥試合で。


 そして点差は圧倒的だったから。


 俺はちらりと腕時計を確認する。


 気がつけば、アディッショナルタイムに入っていた。


 コーナキックだった。


 ラストプレーだろう。


 そして、戦意の喪失したTGAは最後のゴールが決まり、天を仰いだ。


 笛が鳴った。


 長い長い終わりを告げる笛が。




 コートに咲く十一輪の花は――いやベンチを含めた全員は笑顔を咲かせていた。


 勝利を祝福するように虹を添えて。

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