ミッシングリンク(7)

 第十三節。


 中盤でのボールの奪い合いが続き、両者の均衡は破られなかった。


「真賀田さん、真穂を代える」


 真賀田はいぶかしげに目を細めた。


「いいんですか? 確かに今日は調子が悪いとはいえ、あの子の感性はどこかで発揮されるかも知れません。それに真穂は監督のお気に入りでは?」


「どうでもいい」


 今日の真穂はいつも以上に使えなかった。調子が悪く、攻撃の波に乗れないのはまだいい。だが前線へのチェックすら甘くなるのは、戦意喪失の証。それゆえ縦パスが通り、何度か危ない場面があった。


 俺だって前半は我慢した。それは彼女に期待をしていたからだ。


「わかりました。では後半から行くように——」


「今すぐにだ!」


 俺の怒声に、動揺した視線をベンチは向けた。


「しかしもう前半も四〇分を過ぎたところで、このタイミングでは少々——」


「二度目は言わない。今すぐに真穂を下げる。そして後半の指示は任せる」


「え?」


 宮瀬コーチが諭すように、何かを言いかけた真賀田を遮った。


 引き上げてくる真穂の手を掴み、ロッカールームへと連れ、彼女の荷物を足早にまとめる。


「——監督?」


「黙ってついてこい。今日は練習する」


「え、でも——」


「いいから!」


 怒鳴り声に真穂は身を強張らせ、俺に従った。


 駐車場に着き、佐竹に車を借りると一報を入れて、俺はアクセルを踏み込んだ。


 そうして自宅マンションまで飛ばし『白井』の部屋にたどり着くと、「鍵」と短く放った。


 真穂は怪訝そうに俺を見上げるが、剣幕に押されてやがて鍵を取り出す。


「おかえり」


 とリビングから聞こえた声を無視して、家に上がり込んだ俺はさっと視線を回し、真穂の部屋に侵入した。


「ちょっとあなた誰——」


 部屋は、少女らしい可愛い部屋ではなく、サッカー選手のポスターや戦術に関しての書籍が本棚にたくさん置かれていた。


「真穂、カバン。でかいやつ。必要なもの全部詰めろ」


「え?」


「早く」


「あなた誰!? それに真穂、今日は試合だったんじゃ?」


 四〇代手前に差し掛かろうという女性は、やや疲れた顔つきをしていた。彼女は真穂と俺を交互に見合わせた。


 戸惑い立ちすくむ真穂のユニフォーム姿を見て、母親はようやく察する。


「監督……? 一体何ですかこれは? 勝手に人のうちに上がって、警察呼びますよ?」


 俺は深呼吸をしてできるだけ興奮を抑えた。


「自分で選べ、真穂。今から寮で暮らすか、それともここで悶々とするか。ただし今日の君をこれから使う予定はない」


 真穂は俺と母親を順に見て、俯いた。


「もし将来の心配してんなら、高校出たあと、うちのチームスタッフとして働けばいい。俺が佐竹さんに口添えする。多分フロントの仕事はたくさんある。そのために資格取る勉強しなくちゃならないってんなら俺が全部出してやる」


「あなた何勝手に——」


「あんたには聞いてない」


 低く放ち、睨み返した。


「俺が君の歳には海外でプレーしていた。一人で、全部一人でやった。苦しかった。寂しかった。親のいない、言葉の通じない外国で何度もめげそうになった。実際、練習もサボったこともある。だけど、全部経験値になった。一流チームに声がかかった。でも、そこでもずっと挑戦だった。死ぬまで挑み続けなくちゃならない。そういう世界だ。そして俺は怪我をした。通用しないって思ってしまった。それで逃げた。日本に帰ってきた。もうサッカー辞めようって思った。だけど佐竹さんが拾ってくれた。今俺はこの場所に来て、監督になってよかったと思ってる。それは真穂、君のプレーを見ていて俺の遺伝子を受け継いで欲しいと思ったからだ。君は素晴らしい才能を持ってる。その才能がつまんねえことで潰れちまうなら」


 震える声で、


「俺が全部背負ってやるよ!」


 放った。


「ずっとそばにいてやる! 寂しかったら一緒に寝てやる! 飽きるまで練習付き合ってやる! 悔しい時はそばで一緒に泣いてやる! 嬉しい時は一緒に笑ろう! 勝って喜んで、負けたら練習して、今よりもっともっと巧くなろう! つまんねえ悩みとか全部俺がなんとかしてやる! だから真穂、今自分が本当にやりたいことをやれ」


 私は——。


 顔をくしゃくしゃにした真穂は、


「サッカーがしたい! 死ぬまでずっとサッカーやってたい! 他のこと何にも気にせずサッカーだけしてたい! でもそれは、お母さんとお父さんにも見て欲しいから! ほんとはお父さんがずっと応援に来てくれてることも知ってた! だからすごいプレーを見せたかった! すごいって、真穂はすごいって褒めて欲しかった! でも真穂を見てくれなかった。お父さんは見てくれてたけど、褒めてくれなかった。近くにいなかった。お母さんは真穂がサッカーしてること嫌だってわかってた。だからプレーを見せれば、きっと褒めてくれるって、サッカー許してくれるって……そう思って……そう思って思って、思い続けて……」


 でも、と言葉を切った真穂の意思表示は続かず。


 彼女は大口を開けてわんわんと子供のように泣き出した。


 慟哭どうこくに近い、悲鳴に近い泣き声が部屋に響く。


 俺は、涙をこぼさないように奥歯を噛みしめる。


 そして膝をついた。両手をついた。頭を床につけた。


「お願いします、真穂のお母さん。彼女に、彼女がサッカーすること許してください。俺が全部責任とります。将来も、たとえサッカー選手の道を閉ざされることがあっても、俺が全部面倒見ます。だから今はどうか彼女にサッカーをやらせてあげてください」


 嫌だと言われても無理やり連れて行く覚悟だった。けど、やっぱり親は親であり、せめて筋だけは通さなければと思ったのだろう。


 沈黙が少し流れた。


 その時、廊下の向こうから。


『おお!』と歓声が聞こえた。


 疑問を感じて顔を上げる。耳を澄ませば確かに聞こえた。


 スタジアムから聞こえる歓声が。


 テレビを通して伝わるサポーターの興奮が。


 実況のゴールコールは香苗の名前を叫んでいた。俺の居ない試合で、香苗はゴールの音を届けてくれた。


 真穂の母はバツ悪そうに長息を吐いた。


「応援……してないわけないじゃない。でも真穂はまだ若いし、プロで戦ってるってのが本当なのかどうか半信半疑だった。今はただ単純に楽しさだけでやってるって思ってた。本当にプロで食べて行く覚悟までないと思ってた。私は看護師で夜勤の仕事が多いし、真穂のことずっとは見てあげられなかった。だから本音がどうあるかわからなかった。でも本気なのね?」


 真穂はどろどろにした顔を拭って、こくりと頷いた。


「たまには帰ってきなさいよ?」


 俺と真穂は目を丸くして、そして次第に表情が綻んでいく。


「でも、高校はちゃんと卒業する。留年は許さない。これだけは約束しなさい」


「はい!」


 俺と真穂は喜びいっぱいに抱きしめあった。


 すると、


「というかあなたって、皆んなにそんな感じなの?」


 疑問する俺は「あ」と声をあげて、いつの日か紬に怒鳴った際お叱りを受けた看護師だったことを思い出すのだった。


「恋愛禁止とまでは言わないけれど、せめて清く正しいお付き合いをしなさい」


 少々の勘違いを残して、この事件は終幕を迎えるのであった。

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