5章
開花(1)
三月も半ばに入ったというのに、まだまだ寒さが残っていた。
俺は白い息を吐きながらイシュタルFC練習場外周を走っていた。
サッカー選手にとって、ボールの日々は非日常。俺は少女達にサッカーを見せつけられて、自身の奥底からふつふつ沸き起こる火種を感じていた。
それを鎮火させることは容易い。
だけど、身体が──、本能が──燻る火種を消すことを許そうとはしなかった。
身体を作り直して、以前のように動けるかはわからない。だが、もやもやとした感情を抱えたまま、非日常を過ごす気にもなれなかった。
散々汗を流してシャワーを浴びる。
それからクラブハウス棟の自室に戻ると、
「月見さん! 大変です!」
と佐竹マネージャーが飛び込んできた。
その手にはマイナースポーツ誌が握られている。
「どったの?」
振り向く俺を見て、佐竹は悲鳴をあげた。
「ひゃぁぁぁぁーっ!!」
佐竹は慌てて扉の向こうに隠れた。
「またですよ! なんで履いてないんですか!! なんで上は着ているのに下だけ履いてないんですか!? 露出魔ですか!? プリッとしてちょっと可愛いお尻じゃないですか! これで今月に入ってもう四度目ですよ!?」
矢継ぎ早に叱る言葉の中にさらりと本音を交える佐竹。
「で、慌てて何?」
「なんでそんなに冷静なんですか!?」
タイミング悪く、俺が着替えようとした時に限って佐竹はやってくるのだ。
最初は俺も慌てふためいたが、何度も悲鳴を上げられると慣れてしまった。
それにまあ、選手じゃなくて佐竹ならいっか、と思ってもいた。
「それ、どうしたの?」
と俺はスポーツ誌を指差した。
「そう! 大変なんです! って、早く履いてください!! 今度は前の方が見えちゃってますから!!」
すると佐竹は妙に真顔になって、まじまじと俺のソレ付近を見ていた。
「サッカー選手って皆、剃るんですか?」
「見ないで!! 訴えるよ!?」
今度は俺が顔を真っ赤にして前を抑えた。
着替えを済ませ、ウインドブレイカーに袖を通した俺は部屋を出る。
「意外に月見さんって……」
「その話はもう忘れてくれ。それで? 用があったんじゃ?」
佐竹はスポーツ誌を開いて、
「そう。これです!」
そこには日本でも有数の証券会社があるチームを買収したと書かれていた。
「よくある話だ」
「次の記事を!」
と開かれたページには、外国人選手数名の写真がデカデカと飾られていた。
「彼女達が日本に来るんですよ!」
「へー」
「なんでそんなに興味なさそうなんですか? この人達は、アメリカの女子リーグでも活躍した選手達なんですよ?」
「半年か一年くらいで帰るでしょ。移籍金目当てで来たんじゃ?」
「移籍したのは二部なんですよっ。つまり、私達と対戦するんです」
「物好きな選手だね。いや、金か」
日本女子サッカーがプロ化して、チーム数は男子並みに増えた。
二部リーグは全一八チーム。物珍しさというのもあるだろうし、何より美人さん目当てで、芸能界も目をつけたことにより、多くの企業がスポンサーに名乗りを上げた。それで、潤沢な資金を持っているチームが多い。
とはいえ、世界的には女子サッカーはまだマイナー。つまり、日本の女子リーグは世界中のサッカー女子にとって一等地なのである。
一部リーグのチームはこれらの理由により、高額な外国人選手を多く抱えている。
「選手データは?」
「ま、まだです」
「映像手に入ったら持って来て」
「……わかりました」
「なんでしょんぼりしてるのさ」
「一緒にワーって言うかなって期待してました。月見さんって冷静すぎて面白くありません」
それを佐竹に言われたくはない。
「よそはよそ。うちはうち」
うちに来るってんなら驚いたが、あれだけ大騒ぎをしたあとじゃ、賢者モードだ。
「そういえば、スカウトさんが近々、資料を送るって言ってました」
「そっちを早く言ってくれよ。どんな選手?」
「まだ何も。でも、こないだまで南極にいましたから、ペンギンかホッキョクグマじゃないですか?」
佐竹は天然なところがある。
なにせ冗談めかした言葉を真顔で言うのだから。
「ホッキョクグマって、南極にいるの?」
「北極ペンギンは聞きませんね? でもペンギンって鳥だから、翼はハンドになるのですか?」
佐竹って意外に抜けてるところがあって可愛いなと思うのであった。
「ところで、その雑誌にうちの情報載ってる?」
「小さな記事ですけど。今季昇格を目指す期待のチームってことで」
「それ見せて」
すると佐竹は雑誌を胸に抱え込んだ。
「ダメです。これは私が買ったやつなんですから」
「子供みたいな理由……」
「なんと言われようと、月見さんには見せません。そして、月見さんが買うのも禁止です」
「なんで?」
「なんでもです!」
と言いながら練習場に向かおうとする俺の袖を佐竹は引っ張って、事務所に連れ込んだ。
「……これから練習」
「キョ、今日ハ……だ、大丈夫でっす」
佐竹の声は裏返っていた。
急にロボットみたいにたどたどしく言われると怪しくなる。
「ほら、たまには月見さんもオフが必要じゃないかと思うんです。ここずっと昨シーズンの相手チーム研究で徹夜してたでしょ?」
「……なんか隠してるな?」
佐竹は音の鳴らない口笛で誤魔化そうとした。
「あ、ほら、ご飯食べに行きましょう。近くに美味しいレストランが出来たそうです」
「いや、練習──」
「今日は監督なしでいいって選手達が!」
あまりにも怪しすぎたので、俺は疑いの眼差しを向ける。
佐竹は鳴らない口笛をまた鳴らそうとしたところで、ダッシュ。
「あ、ちょ──」
クラブハウス棟を降りて、練習場に行こうとしたところをマスコミに捕まった。
人の好意は素直に受け取っておくべきだと俺は後悔したのである。
「月見選手ですよね!? なんでここにいるんですか!? チームは!? もしかして怪我の具合が!? 引退ですか!? 女子チームの監督を引き受けた理由は!? 契約問題は!?」
と一気にまくし立てられて、俺はしどろもどろだった。
人混みの中を押し入って、佐竹が俺の腕を掴むと、
「全部、ノーコメントです!」
と突っぱねる。
佐竹は俺を駐車場に連れ出し、赤いコンパクトカーに押し込んだ。
後部座席からマスクとサングラスと帽子とコートを引っ張り出して俺の膝の上に置くと、車を発進させた。
しばらく車を走らせて、風景は湾岸沿いの埋立地から都心のビル林へと入っていく。
その間、佐竹はずっと片頬を膨らませ、ご機嫌斜めだった。
「だから言ったじゃないですか。今日は練習でなくていいって」
「マスコミだって知ってたら出なかったよ」
助かったのは事実だが、隠し通すのは難しいことだったし、いつかはバレることだ。
「先週あたりから電話が鳴りっぱなしなんです。もう腹たつから電話線抜いてやりましたよ」
それで仕事ができるのだろうか。
「マスコミへの対応は私に任せておいてください。月見さんはただ一言、『自分、今監督ですから』以外言わないでください」
「……それで許されるか?」
「許されます。許されなかったら私が許しません」
いつになく佐竹はむくれていた。
「それはそうと、月見さん。今から人に会ってもらいます」
この流れは嫌な予感しかしなかった。
「私がサポートします。その前に確認なんですが、本当にウチの監督を続けてくれるんですか?」
ああ、たぶんあの人と会うんだろうな、と思いつつ、俺は生返事を返した。
丸の内近くのレストランに連れられて、俺は懐かしい人物と握手を交わす。
握手と言っても友好的な素ぶりはまったくなく、思いっきり力を込められた。
白髪頭のガタイのいい男、チャールズ・デリバーと秘書はともにイギリス人。つまり、俺の古巣、ロンドン・ブルーズFCのフロントマンだ。
「やあ、久しいね、ミスターツキミ」
昔はケンゴと呼んでいたことからも明らかに敵対心が漂っている。
「我々も暇ではないのでね。さっさと話を始めようじゃないか」
秘書の女がブリーフケースを開いて、テーブルに書類を放り投げた。
「君の意思を聞くまでもない。我々は君に解雇を告げに来た。オーナと話し合った結果、金のことはこの際どうでもいい。君の枠を早く消したくてね。契約期間は残っているが違約金もいらない。手切れ金というやつだ。もっともジャパニーズカンパニーの広告料でかなり稼がせてもらったのでね」
ではサインを、とチャールズは示した。
佐竹がペンを出してくれ、俺がサインを始めると、
「結局、イエローモンキーに戦えるような場所ではないのだよ。欧州リーグはね。今後も君達農耕民族はワールドカップ予選を耕すことしかできない。枠潰しだ」
俺は無言でサインを続ける中、
「言っておきますが──」
佐竹はあえて日本語で返した。
「月見さんの二度目の怪我は練習中によるものです!! 月見さんの膝を壊した選手は今、そちらのウイングを務めている選手だと言うことをお分かりでしょうか!!」
やめておけ、と俺は釘をさすのだが佐竹は立ち上がった。
「君は誰だね?」
今度はネイティブな発音で返す佐竹。
「イシュタルFCのマネージャーです。彼が見えなく成ったのは衰えでも才能の突然の消失でもありません。チームメイトへの不信感からです。チームとしてまったく機能させられなかったそちらの力不足です!」
語気を強め、威嚇する佐竹だったがチャールズ達は鼻で笑っていた。
「おい聞いたか。女神の名を口にしたぞ。戦と豊穣を祈る女神にすがっている。日本の猿らしい。日本の米は美味いしな」
秘書がクスクス笑っていた。
顔を真っ赤にする佐竹を座らせ、俺は紙を返す。
「ニホンザルは今後一切、フットボールの聖地に足を踏み入れるな。もっとも、イングランド中のサッカーファンが君におにぎりを投げつけるだろうがな」
笑い声をあげながら、チャールズらは去っていった。
佐竹は悔しそうに拳を握りしめながら、新しい紙を俺に出して、
「ウチの監督としての正式な契約書です」
と感情を押し殺した声で言った。
何も言わずサインする俺に佐竹は、
「なんで何も言い返さないんですか?」
「事実だからな。俺はプレーでチームメイトの信頼感を勝ち取れなかった」
「でもそれはロートルの選手が出場機会を求めて、アンフェアな方法で除け者にした所為です。お猿さんのように万年発情している卑怯なおっさんです」
よく知ってるな、と思いつつ佐竹を一瞥した。
佐竹の言う通り、俺は立て続けに故障した。練習中にチームメイトのラフプレーを受けて怪我。狙ったかのように同じ箇所をやった。おそらく彼からすれば、以前、顔面パンチを与えたお返しだったのだろう。
「俺のプレイスタイルとプレミアがマッチしてなかったってのもある。大味なロングボールのやり合いは好みじゃない」
「それでも一度目の怪我の後も得点やアシストもありました。月見さんの才能に嫉妬したんですよ」
「俺も天狗だったからな。地元のファンになんて言われてたか知ってるか? チームメイトも俺を暴君って呼んでたよ。嫌われて当然さ」
一度目の怪我をして以来、俺だけに見える世界が陰り始めた。それもあったし、膝を庇いながらでしかプレーできなかった俺は余計に自分勝手にプレイしていた。
あの頃の俺は王様気取りで、好き勝手にパスを出していた。繋がらなかった時はチームメイトの所為にして罵声を浴びせていた。でもそうまでしないと、自己主張の激しい海外ではなかなか認められなかったというのもあった。
いや、噛み合わなかったことへの責任転嫁だったろう。
「それでも結果が出ていたんです。月見さんが外れてから優勝候補から転落したじゃないですか」
結果論としてはそうなるかもしれない。だが結果論を言うのであれば、それこそ俺が移籍してきた当初から優勝は微妙だった。一年目でなまじ結果が出かけたばかりに、俺は自分のお陰だと傲慢になってしまったのだ。
「選手としてはもう戻らないんですか? 月見さんにはもう、月見さんだけの世界は戻っているはずです」
「……なんでそう思う?」
「精神科医がそう仮説したからです。似たプレイヤーである、白井真穂のプレーを見ることで月見健吾の感性は戻ると。一過性のものだったと」
「その精神科医ってサッカーでもやってたのか?」
「いえ……。でも言ってました。その人は月見健吾というサッカー選手を見て、魅了されてしまったと」
そうか、と俺は笑顔を見せ、
「じゃあ、その人にもサインしないとな。ま、今の俺からもらって嬉しいかどうか知らないが」
「もう、もらっています。そして、同時に寂しがっています……」
佐竹は契約書を大事にカバンにしまった。
「まあ今年一年は監督をやる。膝の調子を見ながら俺の未来は考えるよ」
はい、と言った佐竹は悲しそうに顔を落としていた。
「さて飯にしよう」
俺は明るい表情を無理に作った。
「今日はオフだろう? せっかくのレストランだ。肉を食おう肉を」
佐竹は目元を拭って、こくりと頷き見せた。
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