春の蕾(9)

 あっという間に三月末に差し掛かり、シャツの下でじわりと汗ばむ季節。東京ではすでに開花宣言がなされ、街は桜色に満ちていたが、俺たちはまだ桜の色を知らない。


「さて諸君」


 ロッカールームに集まった選手たちはすっかり枕詞となったそのセリフに顔を上げた。


「雨降って地固まると言う言葉があるが、誰かさんは泣いてキャプテンを辞めたいと申し出た」


「ちょ監督!」香苗は顔を真っ赤にして異議申し立て。


「ふふん、こうなったら美少女杏奈様が人肌脱ぐしかあらへんな」


「いや杏奈、今日はスタメンじゃないから」


「何やて!? 嘘やん!? ウチ、チームトップの得点力やで? まさにゴールデンルーキーといっても過言ではない活躍やん? 美少女ゴールデンルーキーとか、めっちゃええ響きやん?」


「二点で威張られてもなあ。三点取ってくれるって約束するなら考えてもいい」


「ハットトリック大魔神と言われたウチにやれん三得点ではないで!」


「オウンゴールしそうだからやっぱり却下」


「そんなご無体な!」


 決して意地悪で言ったわけでも、彼女の能力を疑っているわけでもなかった。昨日、宮瀬コーチから杏奈のふくらはぎに張りを感じたと言う報告を受け、大事をとっての先発落ちだ。ここまでほぼフル出場で走り通しだった疲れが溜まっているのだろう。けれど、開幕からスタメンで、想像以上の活躍を見せ、もっとやりたいと言う気持ちが自身の異常を気づかせていない。


「右ウイングに紬、トップ下には真穂。それ以外は先週と一緒だ」


「はい!」「了解です!」


 紬と真穂は順に返事をした。


「それからゲームキャプテンは、由佳でいこうか」


「わかりました」


 と凛とした眼差しを向けてキャプテンマーカーを受け取った。


「よし、いつもので出陣だ」


「イシュタルぅ〜」


「「「オールゴーファイっ!」」」


 グラウンドへ向かう少女たちの中、香苗と由佳が拳を突き合わせていた。


 今日はやってくれそうだ。


 今回は敵地での一戦。昨シーズン四位の石川ヴィーナスFCはピンクのシャツに、白のパンツ。対してイシュタルFCのアウェイユニフォームはカラスのような黒単一色。


 相手のシステムは4-5-1。守備的MFを二枚おき、堅実な守備をウリにするチームだ。実際、昨年の総失点数は二位。一試合での平均失点率は〇・七。


 このチーム相手に得点が得られれば、大きな自信になる。


「今回は勝ち点取りたいですね。これ以上の勝ち点なしは昇格に大きく響きます」


 試合が始まってすぐ真賀田が言った。


 俺はあえて言及はせず、無言を返した。


 今はまだ昇格を口にできるほどの場所にはない。しかしチームのムードは決して悪くない。変わりたい、前に進みたいと言う意思はちゃんとある。


 だが——


 その気持ちが空振りしてしまったのか、開始早々ペナルティエリア内での反則。


 レッドカード一発退場。


 こちらから見た限り相手選手との接触はなかったし、倒れた選手も怪我はなかったようだ。完全に誘われた。ペナルティキックを与えたことよりも十人で戦わなければならないのが手痛い。


「監督っ——」


 真賀田の慌てた声が響く。


 抜けたのはCBの一角だ。


 俺は天を仰いで、プランを組み立て直す。


「DMFを一列下げ、真穂も一列下げる。紬と由佳をトップ下でボックス。前列に香苗を残して、4−4−1」


 矢継ぎ早に告げたシステム変更を真賀田が選手に伝令し、祈りも虚しく先制点を許した。


 退場となった子は悔し涙でドロドロになりながら引き上げてくる。


「ごめんなさい監督……ごめんなさい皆んな……」


 俺は肩に手を置き、


「気持ちが入っていた証拠だ。相手の演技を褒めよう。全部吐き出したら、ベンチから応援してくれ」


「……はい」


 それから苦しい展開が続く。相手のディフェンスラインでボールを回された時のプレッシングは香苗がほとんど一人で請け負い、体力を削られる。手薄なサイドを攻め込まれ、クロスからヒヤリとする場面が続く。CBに入った選手は背が高い方ではなく、そのミスマッチを徹底的に突かれて、前半の半ばにもう一点を許してしまった。


 すると選手たちの意識にはこれ以上の失点は許されないと刷り込まれ、全体的に引き気味になる。ジリジリと押し込まれ、後手後手の対応から前半終了間際にさらに一失点。


 引き上げてくる十人の顔つきは負けの二文字が浮かんでいた。


 ハーフタイム、真賀田が熱を上げ、ディフェンスへの指示を出していたが、選手たちの耳にはほとんど入っていなかった。


 俯いて、水分補給をすることすら忘れている。


 普段以上に走り通しだった香苗の消耗が特にひどかった。この分では得点の期待もできそうにない。


 冷やしたタオルを顔に被っていた彼女に「香苗」と声をかけると、


「行けます。最後まで行けます」


「無理はするな」


「大丈夫です。やります。やらせてください。私はまだ何もできていません」


 その強い意志を信じることにした。


 そう。今日の試合は気持ち以外に頼れる部分がなかったのだ。


 プランを示してやれず、ハーフタイムが終了する。


 重い足取りで選手たちがグラウンドに戻る中、


「あのさ監督」


 と声を掛けられ振り返る。


 真穂、紬、そして由佳の三人が並んでいた。


「さっき相談したんだけどね、由佳ちゃんをDMFに下げて、私がトップ下に入っていい? それで、紬ちゃんが香苗ちゃんと私の間的な感じで行きたいなぁって思うんだ」


 紬と由佳が同意の旨を示す頷きを見せた。


「誰の提案だ?」


「私です」と由佳が小さく手をあげた。「現状、香苗の負担が大きいから分担しようと思って」


「でもでも」真穂が口を挟む。「それだけじゃ、点取れないなって思ってね、香苗ちゃんをダシにして、紬ちゃんで行く作戦。……だめ?」


 断る理由がなかった。俺は何もしてやれず、俺自身、どこか負けを考えてしまっていた。不細工にはならない負け方を探していたかもしれない。しかし真穂たちは点を取ろうとしていた。つまりそれは勝ちを諦めていないのだ。


「香苗にも伝えとけよ」


「うん、ありがと!」


 三人を見送って、ベンチに戻る俺は宮瀬に杏奈の状態を問いかけた。


「本人はやる気十分ですよ」


 視線を向けると、


「うおりゃあぁ! やったるでえ! うちの出番はすぐそこや! 待っとってや、ゴールちゃん! 愛しのボールちゃん!」


 全力でアップに励んでいた。


「あの分なら、心配するほどではないと思います」


「後半のどこかで使う。伝えておいて」


「了解です」にこりとした宮瀬は「監督は勝つ気なんですね?」


「諦めの悪い選手がいるからな」


 そうして試合は再開する。

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