リスタート(5)
明朝。
珍しく朝早く目が覚めた俺は、寝静まる佐竹を起こさないように静かに寝袋を避け、歯ブラシとコップを手に取ってベランダに出た。
ベランダは俺の唯一の安息の場所である。悶々とする時、夜風に当たれば頭の中をクリアにすることができた。しかし明け方の爽やかな空も悪くない。
「てか寒い……」
ぶるると二月の風に身震いし、部屋に戻ろうかとした時、ふと公園で小さな子がサッカーボールを蹴っている姿を見つけた。
「へー、こんな朝早くからよっぽど好きなんだな」
感心して見ていると、みるみると俺は青ざめていった。
慌てて部屋に戻り、タブレットPCからイシュタルFCの選手データを引っ張り出して、さらに絶句。もう一度ベランダに出て、公園の少女と白井真穂の姿が一致することを確認。あまりにも驚きすぎて歯磨き粉をごっくん。
「なんてことだ!」
慌てて玄関に向かう俺は佐竹を踏んづけてしまった。
「むぎゅう!」
「ごめん! そんなことよりも、緊急事態!」
ランニングシューズを装着。そしてダッシュ。
数分ののちに公園に到着した俺は息を整え、小さな少女がボールを蹴っている様子を視界に収める。
「おい、真穂——」
そう言おうとしたが集中している様子の彼女に声を掛け辛かった。
白井真穂はチームで一番身長が低く、そして最年少でもある。初日の紅白戦で、「おっ」と思ったパスを出して以降、精彩を欠いたプレーが続き、真賀田コーチの限界に至り、Bチームでの日々が続いていた。
そう言えば、と俺はこの部屋に来てから毎晩ボールの蹴る音が聞こえていたのを思い出す。近所の子供が遊んでいるのかと気にも留めなかったが、まさか。
小学生かと思えるほどの童顔の女の子は、黒髪のボブカットを携え、丸々とした大きな瞳を輝かせ、ボールと
芝生もなく、練習場よりも荒れた地面ゆえ、ボールはイレギュラーなバウンドを繰り返す。
しかし彼女はそれをピタリと吸い付かせるように足元に収めていた。
俺は真穂の自主練を眺めながらストレッチを始めていた。
「どうして真穂ちゃんが——」
遅れて到着した佐竹の口を塞ぎ、俺は軽く走って近づいた。
「あ」
真穂がそう漏らした時、俺は彼女のボールを奪い去る。
「え、監督——なんで?」
「月見選手がボールを奪取した。顔を上げて味方の位置を確認する。さあ次はどこへ出す?」
自分実況をして、タイヤの間にパスを送った。鉄棒に跳ね返るボールを受け取り、真穂を正面に据える。
「さあ、月見選手と真穂選手の一対一だ」
素早く状況を理解した真穂は腰を落として本気のディフェンスの構え。
ダンスステップを刻むように足下でボールを捌き、真穂の体重が片側に寄ったのを見図るや否や、さっと抜き去った。そして鉄棒の間にボールを蹴り込み、
「ゴールイン! 月見選手一点先制です!」
次は真穂の番だ、とボールを返す。
真穂はたくさんのフェイントを交え、揺さぶりをかけるがスピードとキレは海外選手と渡り歩いて来た俺の相手ではなかった。じゃあどうするのだろうと様子を見ていると、真穂はボールを
両者、跳ね返ったボールに反応するも一歩先だった真穂はボールを止めず、ワンタッチで俺の頭を超え、抜き去った。足を振り抜いてボレーシュート。同様に鉄棒を抜けてゴール。
「ゴールイぃぃン!! 美少女ファンタジスタ真穂選手、同点ゴールです!」
彼女は本当に試合でゴールを決めたかのように喜びいっぱいの笑顔だった。万歳して飛び跳ねる様子は無邪気な子供。笑うと天使のようだ。
「じゃあもう一本」
ねだる真穂を
「だーめ。今日は試合だ。監督命令。絶対ダメだ」
「ぶぅ。もっとやりたい! こんな楽しい瞬間初めてだもん」
俺はニコリとする。
「その気持ち、試合までとっとけ」
すると真穂は口をすぼめて、
「だって私出番ないし。今日の試合、香苗ちゃんがスタメン決めて、もう私の出番終わってるし。試合終わりだし。だから自主練で燃え尽きてもいいし。私Bチームだし。サブのサブだし。補欠だし。追いつかなきゃだし」
不満を連ねた真穂はふくれっ面で、瞳は少し涙ぐんでいた。
「よし決めた。〝暴君〟権限を発動する。スタメンは香苗が決めたようだが、交代メンバーまでは約束していない。今日の試合でチャンスをやろう。だから今すぐコンディションを整えて試合に備えろ」
「ほんと!? いいの監督!?」
「俺を誰だと思ってる。なんと東京イシュタルFCの監督なのである!」
「ソデノシタってどれくらい渡せばいいの?」
「そうだな……。ワンプレーで俺をあっと言わせてくれ」
決して義理人情に打たれたわけではない。ましてや泣き顔にやられたわけでも。
いずれ真穂は使おうとは思っていた。俺の本能が、同じ毛色のプレイヤーであることを彼女から嗅ぎ取っていたのだ。
「たったのワンプレーでいいの? 今日の私絶好調だよ?」
「お、言うねえ。ビッグマウスだねえ」
「監督こそ調子良さそうだね。現役復帰も間近なんじゃない?」
虚を突かれた俺は、途端に返す言葉を失った。
「俺は……選手を辞めた」
すると真穂は不思議そうに目を丸くする。
「なんで? 治らないの?」
鋭い切り返しに、たじろいでしまった。
「多分選手には戻らない」
戻れないと言った方が正しい。
身体的なものより精神的なものだ。俺がコートに戻れないのは。
「じゃあ、いっぱいご飯食べて、たくさん寝なきゃね。そしたら治るよきっと」
この子馬鹿なの?
そんなやりとりをする中、姿を見せた佐竹はスポーツドリンクを俺たちに手渡した。
「なんで佐竹マネまでいるの? こんな朝早くから二人で? もしかして朝チュンてやつ?」
じと、と俺と佐竹を不審がる真穂。
「た、たまたま通りかかっただけだ。これからクラブハウスに行く途中で、佐竹さんと鉢合わせてだな……」
「ふーん」
まだ疑いの眼差しを向けられる。
「佐竹さんもちゃんと説明して!」
すると彼女はお腹を押さえてえずいた。
「う……思い出したら急にお腹が……これはもしやご懐妊?」
「誤解を生む!」
先ほど踏んだことを思い出す。
しかし正確を期すならば、踏んだのは腕だ。明らかに悪意あり。
「佐竹さん、それ冗談になってないから!」
「ゲス監督。さっさと解任されちゃえばいいのに」
そのな言葉を残して真穂は公園を去って行ったのだった。
*
「イシュタルぅ〜」
「「「オールゴーファイっっ!!」」」
香苗の掛け声に、ベンチ入りまでを含めたメンバーは声をあげた。
「「オールゴーファイっ!」」
グラウンドの外からファンも応援の声を揃えた。
二部チームで、しかも一時はクラブ崩壊の危機に直面していたと言うイシュタルFCだったが、意外なことにサポーターは集まっていた。女子チームだから男性ファンが多いのかとの固定観念は裏切られ、女子高生が多かった。
佐竹曰く、同じ学校の子や地元の元同級生が熱心に着てくれているのだとか。そう言う密接な背景ってのは結構力になる。俺はイシュタルFCの選手たちが他のチームよりも持っていないものを一つ知った。
試合開始前、俺と相手の監督は挨拶を交わした。
「もう怪我はいいのか?」
「ええまあ」
五年前
「行方知れずで心配していたんだが、月見君も監督を始めたのか」
「そんな感じです」
「正直、嫉妬するなあ。俺が何年も掛けてようやく掴んだ監督だってのに、君はあっという間に監督なんだから」
少し反応に困った。監督になって、素直に喜べない自分を感じたのだ。
「まあ積もる話は後にして、今日はお互いの胸を借りようじゃないか」
とはいうものの、結城が率いる
そして結城は去年チームを率いていなかった。つまりはうちと同じ新チームではあるが、もちろん土台からして雲泥の差だ。
彼の
「これも何かの縁だろうな。君とは来年も東京ダービーを戦う気がするよ」
「うちは全然まだですよ」
すると結城は目を開いた。
「君が謙遜を言うとは、こりゃ雨だな。ハハ」
俺だって成長はする。
「ところで結城さん。一つお願いがあります」
「お、なんだ? 試合後の一杯か? ぜひ語り合いたいものだね。世界の最先端を知る君の戦術論を聞かせて欲しいものだ」
「頼みというのは、うちの九番を潰——いえ、抑えて欲しいということです」
結城は目を細めた。そして九番——香苗に視線を向ける。
「なるほど、素質の高い選手だな。身長は一八〇後半といったところか。育てれば彼女は一流のポストプレイヤーになる」
一瞬で結城は香苗の能力を見抜いていた。
「だが線がぐにゃぐにゃ。まだ芯が通っていない。フィジカルと足元を重点的にやれば、一年かもっと早く……頭角を表すだろう」
このあたりは流石としか言いようがない。
「けれど、狙いがわからんな。メンタル面は厄介だ。期待をかける子を潰すようなことをして、下手をすれば何年も棒に振ることになりかねない」
「だからぶっ壊すんですよ。今のうちに。大黒柱をポッキリと折って、一から土台を組み上げる」
誰か一人に負んぶに抱っこのチームは強くなれない。
俺の経験則だ。
「ハハッ、君はやはり面白いことを考える! さすがは渡り歩いて来たチームを壊して何度も優勝に導いただけはある! 〝暴君月見健吾〟は監督でも健在か! よし、理解した。九番の子を徹底マークしよう」
互いに気合十分の眼差しをぶつけ合い、握手を交わした。
イシュタルFCのホームカラーは紺色のパンツに、オーシャンブルーに右胸を貫く白の十字線が入ったシャツ。対してTGASCは赤の縦縞のユニフォームに白のパンツ。
両者がポジションにつき、ホイッスルは東京の空を貫いた。
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